孤思庵の仏像ブログ

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2⃣Taさんの寄稿 秋『京都旅行』に行って来ました。Ⅱ

拝観旅行・第二段です。
 
27年・秋『京都旅行』に行って来ました。
  H27年(2015年)111日(日)~3日(火) 行先:京都市内数寺院  
 
111日(日)・・・・報告済。
112日(月)
早朝430分からホテル内の「天然温泉」に入る。誰もいない貸し切り状態の、一人では持てあます大きな浴槽に浸かり、ジャグジーの水圧を両足に当てながら、のんびり足先から腰までマッサージを続ける。昨夜、11時頃に入浴した際は、おじさんたちの入れ替わり立ち替わりで、時間をかけてマッサージが出来なく、払暁のリターンマッチ入浴となる。
 
TVで「あさが来た」を見終わり、ホテルを出発。まっすぐに最寄りのバス停までの5分足らずを歩く。この時間の四条河原町界隈は、まだ人通りも少なく、客待ちのタクシーが目立ったり、幾組かの観光客のグループの姿を見かける程度で、気楽に歩ける。しかし、今日は朝からどんより曇り空で、この先雨が心配となる。
 
2泉涌寺
バスに乗り込んで20分程度で、最寄りバス停で下車し、ちょっともどり、すぐの路地を右折する。心配した小雨が降り出し、折り畳み傘を差さずにはいられない程になった。
まずは、予定通り「即成院」を通り過ぎ、足許の水たまりに気をつけながら境内奥の「雲龍院」に向かう。ここでも拝観客の姿は見かけない。
 
雲龍院」
木立の中に、「雲龍院」が佇んでいる感じで、朝のしっとりとした雰囲気が、知らずと自分を身震いさせる。
本堂の「龍華殿」は、雄大な檜皮葺き屋根の建物で、南北朝時代天皇三代にわたる菩提寺院であり、「御寺」の当時の朝廷との関係と、それを後ろ盾とした寺院の権勢も、偲ばれるものがあるかもしれない。本尊は、厨子入りの「薬師三尊像」である。
龍華殿に入ると、外陣の中央には、「写経塔」という高い塔高の金色の舎利塔が、大きな極彩色の壇上に設けられており、奥の内陣正面に、黒く大きな厨子に入った「薬師三尊像」が祀られている。
厨子は、観音開き扉で、筐体上部正面に、金属製の菊華紋が三か所取り付けられている。開かれた扉板は簡素な黒色のみのもので、際立つのは金色の金具くらい。厨子の内側背板は、明るい薄緑色の配色が板一面に施され、板面下部半分には、緑色の濃い山岳風景と菊などの草花が、はっきりと鮮やかな配色で描かれている。
本尊は、大きな舟形光背を背にした、穏かな定朝様の仏様に見える。光背は、厨子内の幕の関係もあって、うす暗いものだから最頂部までがあまりよく見えず、屈みこんで覗きこんで、やっと宝塔が付いているのが分かった。偏但右肩の形の衣は、シャープなきれいな彫りのように感じられ、顔立ちも穏やかで、組んだ足が体躯に比して小さく肉が薄い気がするが、全体としてバランスのとれた仏様である。
脇侍である日光菩薩立像、月光菩薩立像は、きれいな舟形光背を付け、若干両ひざを前方へ屈折し、上帛、裳もきれいな彫りの流れで、天衣も腰部に覗いている。蓮華茎の先に各々、日輪、月輪を付けた姿で、宝冠、瓔珞も後補とはいえ、きれいな仏様に見える。
 
しばし、拝観したのち、廊下を辿り、「書院」の「蓮華の間」で、庭園に面した4枚の雪見障子について四角いガラス窓から、灯籠や紅葉、松の木が見られ、各々趣きの違った風景が現出する。奥の「悟りの間」では、腰高の戸袋の上に丸い障子窓が設けられていて、そこから眺める風景は、訪れるたびに風情のある雰囲気を醸している。
 
雨も止んだようで、お堂の上がり口に立てかけた傘を、忘れそうになる。朝来た道を戻り、泉涌寺山門のところの「即成院」に伺う。
 
「即成院」
「即成院」の門をくぐるとすぐに、近所の住人とおぼしき女性が3人立ち話をしていたので、会釈して通り過ぎたが、ここはすぐ隣りには住宅地が密集している街の一角なのだ、という、生活の空気が色濃く感じる寺院となっている。
境内に入ってしまうと、一転して、厳かな雰囲気になった。即成院は、伏見長者と称された橘俊綱の創建で、元伏見大亀谷に所在していたが、明治の廃仏毀釈で無住となり、泉涌寺の「法安寺」と合併して、明治35年(1902年)に現地で再興した。
予想外に、あまり広くない堂内、伽藍で、現世極楽浄土と呼ばれる本尊、阿弥陀如来坐像並びに二十五菩薩像は、平安時代末期の作であるといわれ、如来像は定朝様の特徴を止めているようだ。二十五菩薩来迎の様子を描いた仏画は多くあるが、等身大の立体的な仏様としては、今に伝わるのはこの即成院の諸像のみだそうだ。本尊は、大きな舟形光背に13躯の化仏を配し、定朝様のきれいな仏様であるといえる。
全て頭光背を付けた二十五菩薩坐像のうち、当初のまま残るのは、脇侍の両観音像を含む10躯の像で、15躯の像は、江戸期の作であるという。
 
近づいてよく見ると、本尊の阿弥陀如来坐像の蓮華台と、同水準の高さに左右に段を設け、上部へ4段の階段上の棚を設け、左右に蓮華台座付きの菩薩像が左右格段に3躯ずつ祀っている。二十五菩薩の多くは楽曲を奏するための楽器などを持ったもので、中には僧形地蔵菩薩の姿も見られた。
阿弥陀如来脇侍の2躯の菩薩像と、右側3躯・4段、左側3躯・4段あり、二十五菩薩ではなく26菩薩となる。左右同数ずつとなると、片側1躯が別の尊像となる。お寺の方の説明で、向かって左側最下段左隅には、「如意輪観音像」が祀られている。これが二十五菩薩の勘定外となる。
なお、昭和37年(1962年)の修理の際に、西川杏太郎氏は、阿弥陀如来像は作風の違いに加えて印相が来迎印ではなく、定印であることから、他から写された仏様だと推定している、とのお寺の方から伺った。
 
他に、「那須与一墓所」もあったが、今回は巡らなかった。
 
次は、予定通り「妙法院」に向かう。午後1時を過ぎ、雨も止んだようで、薄い雲間に青空が顔をのぞかせるようになっている。バス通りまでは一直線ですぐなので、気が楽だ。今日も昼食は後回しか、抜きになりそうだ。
 
3妙法院
朝、バスで泉涌寺に向かう時に通過した「東山七條」バス停で下車する。交差点を渡って眼の前の「妙法院」の段差の大きな石段を大股で上がり、降り返って和服の女性が石段を難儀して上がってくるのを見て、手を貸してあげようかと思い石段の上で待ったが、何事も無く終わった。
妙法院」は、天台宗の寺院で、皇族、貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院「門跡」となっており、「青蓮院」、「三千院」と共に天台三門跡と呼ばれる、名門寺院であるという。近世には方広寺や蓮華王院を管理下に置き、一大寺院となっている。
正面本堂の前を右に曲がり、通いなれたように本堂に沿って、左に曲がり、「普賢堂」に向かう。左に「宸殿」の建物を見て、庭の奥に佇む「普賢堂」に到着する。
 
「普賢堂」
お堂の外観は、「二重宝形造り」という、四方形の一層の堂で、禅宗風ともいえる簡素なものであり、一層屋根の上に幅半分ほどの二層屋根が載るという形状になっている。江戸時代後期の建物と云われる堂内に入ると、堂中央天井には「龍墨画」が大きく描かれているが、作者不詳だそうだ。
堂内は、三方に大きな窓を付け、一方に檀を作り、祖師像を後ろに従えて、中央に護摩壇を設けて、その正面に1躯の仏様を祀る。天蓋は新しいものであることが分かる。
平成10年(1998年)に、重文に指定された平安末期から鎌倉時代初期の造像と考えられる「普賢菩薩騎象像」は、妙法院に伝来する仏様の中でも白眉といわれる。
平安時代後期の院政期に、造像されたと予想されるが、当初どこに祀られていたか不明で、蓮華王院の東の法華堂の安置仏ではないか、とされる。お寺の説明でも、本来は普賢菩薩像は文殊菩薩像とともに
釈迦如来像の脇侍像としているが、こうして単独で祀られることはまれである、という。平安時代に入って、「法華経」、「普賢菩薩観発品(ふげんぼさつかんほっぽん)」に、法華経を誦む人のもとに「六牙(ろ
くげ)」の象に載って現れ、その人を守護する、という。とりわけ女性の成仏を説くところから、法華信仰に篤かった貴族女性に信仰があったので、単独像と考えている、とのお話しだった。
 
同時期の造像と思われる「東京・大倉集古館」蔵の「普賢菩薩騎象像」とは、似ていながら、かなり異なった雰囲気も合わせ持っている感じである。ちょうど、ホテル及び集古館改築工事のため、東京国立博物館に寄託され、展示されている像を、1030日(土)に拝観しているので、短期間の間に二体を、ゆっくり拝観することになった。集古館像も以前にも何回か拝観していたが、あまり注意をもって接していなかったので、今回は短い時間で、両像が観られて大いに満足した。
 
妙法院像は、穏かな小像である姿の普賢菩薩が、象の背中に乗るかたちの仏様となっている。薄手で優しい条帛と裳の衣文の彫りと流れ、上品な顔立ちときれいに結った髻やなだらかな肩が、バランスよく、静かに合掌する姿は、平安風の優美さを表わしている。蓮華台座は五段の蓮弁は肉厚で、大きく破綻の無い形状であるが、専門家の調査では、残念ながら後補のようだ。同じく光背も今回観てきたが、舟形光背は簡素なもので、綺麗な金色で仕上がっているが、残念ながら、後補であるという。
 
象そのものも、大倉集古館像と異なり、異形感を感じさせないおとなしい姿になっている。また、全体のバランスで見ると、仏様と象の比較では、集古館像のように象の大きさが際立つものでなく、むしろ象の大きさが抑えられ、あたかも「小象」に載っているかのような感じさえする。しかし、屈んで象を見た時に、牙の下には、大きく口を開けて、歯までがよく見えるので、予想外で何か怖い形相に見えた。
合掌し静かな雰囲気で、蓮華座に座る仏様で、観る者に安堵感を与えているようだ。わずかに象の右脚を踏み出したところに、動きを見せているが、一見すると、左右対称の像のようで、頭部、合掌の両腕、結跏趺坐、蓮華台座、台の象と、どこから観ても流麗な意匠と彫り、造形で、観る者を飽きさせない。仏様には、僅かに残る体の金色と、遠目にもシャープな彫りの条帛と脚部がきれいに表され、蓮華台座の金色が一層際立つもので、また、小ぶりな象の姿が、ちょっと眼には不安定な感じだと思われたが、全体としては、不安定感を感じさせない仏様になっている。また、象の姿は、六牙(ろくげ)がきちんと具備されている。当初の造像時のものである、とのことだ。
ちょうど伺った時は、象の腹の両側の鞍の横から、茎の先に開花した蓮華と蕾がついた装飾が、鞍に設けられた小さな穴に挿入されていて、両サイドに張り出していた。また、同じく蓮華茎を、象の鼻先で巻き持っている姿をしていた。事前に参考のために持って行った写真は、そのような事物や装飾が無い画像だったので、比較して面白い感じがした。
 
この仏様を拝観すると決めて、旅行のスケジュールを組んだ際に、他の寺院の仏様と一緒に、事前に手許にある図録やWEBから対象の仏様の資料や写真を簡単にまとめた。旅行に持参して現場でそれらを広げて見ながらの拝観となった。
 
最後に、「寺務所」まで伺って、お坊様に資料のコピーを取ってもらったりとか、資料を探してもらったりとか、他にもいろいろとお世話になってしまった。
隣りの敷地にマンションが建設中ということで、境内の主要な建物にカメラを向けると、必ずといってよいほど、頭上にクレーンの姿を見ることになる。京都市内の、特に中心部の都市開発は、寺院と隣りあわせで、非常に難しいと思われる。また、交通渋滞などの問題も、なかなか改善されないようだ。境内を辞すると、そこは、現実の賑やかな京都の街並みが見えた。午後4時を過ぎ、足早に次のお寺に向かった。
 
建仁寺」、「金戒光明寺」 …… 省略。
 
113日(火)
前日のように早起きをして、午前5時前にはホテルの「天然温泉」に出掛けた。早朝のために、相変わらず入浴客はおらず、のびのびとした入浴とマッサージが出来たので、今日も幸先きが良い。
 
今朝のバス停は、昨日とはちょっと雰囲気が違っていた。若い10人以上の女性観光客が、同じバスの来るのを待っていて、しばらく混雑したバス車内となったが、早朝からにぎやかなおしゃべりと笑い声に満ちた、出発となった。岡崎神社あたりのバス停で、大勢が下車したので、ガラガラになった。てっきり大多数が、「銀閣寺」目的かと予想していたので、大きく外れてしまった。最寄りのバス停で下車したのは、自分ひとりだったので、意外な気がした。バス停からは、住宅地の中の短いが急な坂道を、息を切らせて歩いた。
坂上の路地を曲がるとすぐに、「法然院」の有名な山門前の景色となり、時間が早かったが、墓所は帰り道に寄ることにして、しばらく山門を中心にカメラを構えたり、門前を掃き清めている寺の方と挨拶や立ち話しをしながら、境内の「白砂壇(びゃくさだん)」など、鄙びた手狭な境内の様子を見て廻った。
 
4.法然院
本堂の玄関が開く時間まで、数人の拝観客と共に、しばらく外で待たされたが、中から女子学生ボランティアの元気な声と共に、玄関扉が開かれ、我々は本堂内に迎えられた。
鎌倉時代初期に、専修念仏の元祖・法然源空上人は、鹿が谷の草庵で、弟子と共に念仏三昧を修していた。その後、弟子の起こした事件で、法然上人は讃岐へ流罪になり、弟子は死罪となり、草庵は荒廃した。江戸時代初期に、知恩院住持によって再興の発願があり、現在の地に伽藍を築いたという。
 
本堂内は、佛殿と拝殿とがあり、堂内には、本尊阿弥陀如来坐像の他、観音・勢至菩薩法然上人立像などを安置している。境内は、他に方丈、講堂(今は個人の美術展開催中)、経蔵、方丈庭園が見られる。
本尊前の須弥壇には、二十五菩薩像を象徴する25個の生花(4つの季節により、4種類の生花が違う)が散華されている。
堂内は、大きな外陣の奥、さらに護摩壇の奥に須弥壇が目立ち、壇上中央に阿弥陀如来坐像、その前に散華場、向かって右手に十一面観音立像、左手に勢至菩薩像が祀られ、数多くの「聯」が下がり、所狭しと仏具も見られて、壮大なる世界が感じられる。
遠くて観えずらい本尊よりも、細かい細工の極彩色の大きな八角須弥壇や蓮華台座が目立ち、上段は赤色や縁を金色に彩った蓮弁が印象的で、下段には、金色縁取りの細かい緑色と赤色の細工や金具が見られ、豪華絢爛な壇になっている。
 
阿弥陀如来坐像は、左右3本の聯、そして像の両側には極彩色の柱が立ち、大きな天蓋が下がり、よく本尊の姿が観られないような状態である。赤色、緑色、金色などの極彩色の極致をいくと思われるほどの、華美な二重円光背(縁取りが金色)を背にした仏様は、全身金色で、上品上生の印相をした、衣文もきれいな、観るからに穏かな容姿である。漫然とした、なで肩、薄い彫りの衣文の襞、スマートな感じの体躯など、あまりの穏やかさに、さして印象に残る姿には思えなかった。
隣りの「十一面観音立像」は厨子無しで、透かし彫りの金色の舟形光背を付けた4050センチほどの小像で、蓮華台座まで金色のきれいな仏様で、何故かホッとする感じである。
左手の「勢至菩薩坐像」は、厨子に入った舟形光背で、おぼろげながら合掌している姿だけが判別出来た。
その先の部屋では、「曼荼羅図」、「障壁画」などを観て廻った。
山門外の墓所では、「法然塔」と、「川上肇」、「谷崎潤一郎」、そして一番立寄ってみたかった念願の「内藤湖南」の墓所を巡った。
 
坂を下り、「哲学の道」をゆっくりと逍遥したかったが、昼間の「哲学の道」はそれを許してくれず、往き来する大勢の観光客を掻き分けるように、「銀閣寺」に辿り着いた。今出川通りを進み、京都大学農学部キャンパスを左右に見て、百万遍の交差点まで辿り着いた。「知恩寺」境内では、古書市が催されていて一巡りしたが、こんなところに掘り出し物があったりするかもしれない、と思いつつバス停に向かった。京都大学では「11月祭」で、至る所に種々の立て看板があり、学生の街の雰囲気が強く感じられて、昔の学生時代をなつかしく思った。
バスには、「百万遍」から乗車し、東大路通りに面したバス停で下車し、通りを渡ると眼の前に、「西方寺」の塀と門が眼に入る。
 
5.「西方寺」
寺の門を入る前に、寺門の外観を撮影しようと歩道いっぱいに後ろに下がって構えると、車道に出そうになるし、通行人の方に迷惑になるので、カメラ撮影も思うようにいかない手狭さだ。
あまり大きくない寺域で、門からすぐに、右手に「地蔵堂」があり、奥には稲荷社の鳥居があり、手狭感がぬぐえず、数歩で本堂に行き着く。本堂に入ると、縁側に干し柿やカボチャが並べてあり、のんびりとした風情が気持ちよくさせてくれ、内庭を眺めながら、灯籠と手水鉢の上に、魚形の杢魚の板が吊り下がっている。内庭の奥には、茶室「梅窓庵」が竹矢来にかすかに覗いている。
 
小さな渡り廊下を渡り、本堂内に入ると、別世界になる。ほの暗い堂内は、もともと土蔵であったそうで、外陣のところに両側に土蔵の扉の太い柱がそのまま残っている。蔵の奥に、仏様が安置された大きな内陣が設えられている。
寺の方から、いろいろ伺ったが、寺の正式名称は、「願海山法性覚院西方寺」(がんかいさんほっしょうかくさいほうじ)といい、浄土宗知恩院派に属する寺院だそうだ。また、「西方寺」という名称では、京都市内に5ヶ寺程あるそうで、拠る地域の名を冠して呼ぶことが多いそうだ。ここは、「東山西方寺」とか。
この寺が建つ地域は、平安時代末期の院政期には、六勝寺(りくしょうじ)(法勝寺、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺)と呼ばれる6つの大寺院が建ち並んでいたといわれる。西方寺の本尊も、白河天皇の建立された法勝寺(ほっしょうじ)の遺仏と伝えられている。
西方寺の創建は、平安時代後期から鎌倉時代の公卿・大炊御門経宗(おおいみかどつねむね)とされ、出家して亡くなった経宗の邸宅を寺院に改めて、創建したと伝えられている。「法性覚」は、経宗の法名法性覚によるという。お寺の方は、とにかく六勝寺や法勝寺についての歴史を伝える史料が少ない、とこぼしておられた。
 
本尊阿弥陀三尊像は、平安時代後期の寄木造り像と云われ、木札には像高2.36メートルとあり、重文に指定されている、とのことだが、仏師は不明となっている。非常に大きな量感がある仏様で、大きな「三千仏光背」と呼ばれる円光背には、板状の小さな化仏がビッシリと並んでいて、下段のほうは乱雑な並び方になっていて、固定しておくことの苦労がしのばれる。10センチくらいの化仏が3千体というのは、眼がおかしくなるほどの大集合で、圧巻である。光背上部の外れた小化仏を見ると、板の裏に「信」との墨書が見られる。願いなのか、信者名なのか、何の意味か不明だという。その小化仏の中に、13躯の中化仏が貼り付けられているのを見ることが出来る。
 
本尊は、ふっくらとした上品などちらかといえば面長のお顔で、定朝様といえる仏様である。お姿は、像の大きさが圧倒的に迫ってくる感じで、体躯も立派で、衣文がはっきりしたラインで、きれいに流れるような形が目立つ、大きな仏様で、周囲がギリギリできつい感じのお堂が気になった。
脇侍である観音菩薩像は来迎形で、両手で腹前にて宝珠を捧げ、左膝を前に立てている。勢至菩薩像は来迎形で合掌し、右膝を前に立てている。両像とも簡素だがシャープな彫りの条帛や天衣が、きれいであるが、宝冠(観音菩薩のみで勢至菩薩はなし)、光背ともに当時のものか否か不明であるという。
 
他に、本尊左横に「豊臣秀吉公坐像」(像高約1メートル)があり、等身大の写実的な象で、脚部に慶長四年(1599年)の朱記、頭部内部にも慶長八年(1603年)の銘が見つかった。安土桃山時代の七條仏師・康生の作とされ、秀吉没(1598年)後の翌年から造像され、4年後に完成したという。
 
等身大で極彩色で赤い涎かけを着けた、江戸時代の作と思われる「衣通姫地蔵像(そとおりひめ)」が「地蔵堂」に安置されている。また、赤穂義士の「小野寺十内招魂碑」が、西方寺の墓所にあるのだが、ともに今回は立ち寄らなかった。
 
「真行寺」…… 省略。
 
陽が傾き影が長く伸び、肌寒い感じの弱い風が、京都の街中に居ても物憂げな感覚に陥る。
午後5時を過ぎ、京都駅のコンコースは、いつも雑踏と喧騒の場であり、そこを通り過ぎて、サラリーマンの姿が目立つ新幹線のプラットフォームへと急いだ。毎日歩き過ぎたせいか、また足がだるい感じが増して、もうこれ以上歩く気がしない。
                                  ― 完 ―
                              
 
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