孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

Takさんからのおたより 2020年2月15日

 

  • 大津市歴史博物館「れきはく講座」(近年発見された快慶工房の作例について)を聴講して:

2月1日(土)大津市歴史博物館、講師・寺島典人大津歴博学芸員

『運慶と並び、鎌倉時代を代表する仏師、快慶。ところが、運慶とは比較にならないほど、現存作例が多く確認されていて、どうやらちょっと運慶とは造像環境が違っていたようです。近年、さらに快慶工房の作例が発見され、興味深い事柄が分かりつつあります。それらの紹介をしながら、鎌倉初期の快慶工房の様子を垣間見てみたいと思います。』(れきはく講座案内より)

三井寺から歴博に向かうと、周囲は自家用車がいつになく多く路上駐車しており何事かといぶかしく思ったが、歴博の2階奥の展示室で「新年書初め展覧会」が開かれており小中学校の生徒や家族が大勢で押しかけて来ており、表彰もされているようで、館内はすごくにぎわっていました。それでも正午を過ぎると騒ぎも落ち着いてきて、私もロビーでのんびり本を読む余裕が出来ました。顔馴染みとなった歴博女性職員は私の顔を見かけただけで、歴博カードの提示をしなくても展示室への案内をしてくれるようになりました。伺うと歴博のメンバーになっている人たちはほとんどが地元の方々で、遠方から来館してくれるお客様はすぐ覚えるということでした。私から尋ねなくても「今日は鯨井学芸員は休暇です」などと声をかけられました。講座の会場はいつものライティングデスクで天板が邪魔で腰掛けにくい感じだったのですが、先に入場した方の様子を見ていて今回初めて分かりました。天板はヒンジが付いていて片方を上に挙げることで楽に腰かけることが出来ました。今までの苦労は何だったのか?

寺島典人学芸員の講義内容は大略以下の通りでした。

1. 快慶基礎知識

・快慶の仏師関係系図、・快慶造像銘記、・快慶弟子関係と実存作例、作例の願主と宗教団体の関係、・現存作例や古文書記録から所在地分布、・快慶工房の推定所在地、近江地域での大寺院での造像工房(派別)の振り分け、

2. 快慶の造像上のくせ、こだわり

・耳環・耳朶、・裙(裳)のあわせ位置、・安阿弥様阿弥陀如来立像の着衣表現、・後半の作例に独特の歩行表現、造像銘記の変遷

3. 近年発見の快慶工房の作例

・快慶37番目の作例(2009年):京都・泉涌寺悲田院 宝冠阿弥陀如来坐像(墨書銘による確認)

・快慶38番目の作例(2011年):和歌山県高野町金剛峯寺 執金剛神立像・深沙大将立像(墨書銘)

・快慶39番目の作例(2015年):三重県松阪市安楽寺 阿弥陀如来立像(墨書銘)+地蔵菩薩立像(墨書銘なし)

・行快7番目の作例(2010年):大阪河内長野市金剛寺 不動明王座像

・行快8番目の作例(2011年):滋賀県大津市西教寺 阿弥陀如来立像及び脇侍像

・行快9番目の作例(2012年):滋賀県長浜市・浄信寺 阿弥陀如来立像

・行快10番目の作例(2018年):京都市・聞名寺 阿弥陀如来立像及び脇侍像

4. 立像の立ち姿の工法上の工夫

5. 安楽寺像、聞名寺像の各部位詳細画像説明

6. 快慶の「追分如来」(笈分如来、負分如来)逸話について

仙台市泉区阿弥陀堂京都市五条下寺町蓮光寺の2寺院、13世紀前半の3尺阿弥陀如来立像

*特に阿弥陀如来立像の裙裾のあわせについては、以前聞名寺の作例の件で足枘とともに報告をした際に前か後かということを伺ったことがありましたが、私もお話しを伺った後にはこれまで注意をして眼を凝らして裙裾をジックリ拝してもなかなか判断がつかない仏さまが多いようです。たしか私が「快慶の裙裾のあわせ」についてお話しを伺った時に、整理して足枘の違いとともに集いの会に報告をした覚えがありました。

 

  • 大津市歴史博物館「れきはく講座」(古墳時代の終焉 大津の後期・終末期古墳)を聴講して:

2月8日(土)大津市歴史博物館、講師・福庭万里子大津歴博学芸員

古墳時代の後期、6世紀になると、古墳の規模は小さくなる一方、その数が一気に増えていきます。しかし、その後7~8世紀初めには造られる古墳の数が減り、古墳時代も終わりを迎えます。大津市内の後期古墳群(和邇・真野・堅田の古墳群や坂本から錦織までの渡来系の古墳群など)、そして数少ない終末期古墳(瀬田の若松神社境内古墳や横尾山古墳群など)を紹介しながら、大津の古墳時代の終焉をみていきます。』(れきはく講座案内より)

参考文献:「企画展 大津の郁と白鳳寺院―大津京遷都一三五〇年記念―」(2019年10月開催図録、福庭万里子)と「渡来した人々の足跡―大津の古墳群と集落跡―」(2016年8月、文化庁主催・全国巡廻展示「発掘された日本列島2016」、福庭万里子)

事前に眼を通して行きましたが、やはり講座聴講ナシでは理解できない事ばかりでした。今回の講座の中心は大津市域に数多くある古墳群の特徴と墳墓の形状の変化や副葬品の時代による推移など、よくぞこれほどに狭い地域に集中している史跡を発掘調査・解明されてきたものと感心しました。大津市内の坂本から錦織までのさして広くない地域に隣あって密集した古墳群があり、しかも同時代史跡は広く点在しているという複雑な多くの史跡がある特殊な地域のようです。それも中央(畿内、大和、難波)からの伝播とともに、土着・渡来の帰化人の史蹟とが混在しているようです。そして知ったのは大半が山麓、山中、谷あいなどの地理的にあまり適していないような場所に存在すること、古墳群に埋葬される人々の僧が拡大していったこと、同じ横穴式古墳群でも「石室」の石材の組み立て方などの変化、副葬品も須恵器や土師器の土器類、耳環(じかん)、かんざし、釧(くん)などの生活品、装飾品がほとんどで、武具や馬具など武人の存在を象徴するようなものがほとんど見られないということです。そして私が初めて知ったのは、多くの石室の中にミニチュアサイズのカマドのセット(ミニチュア炊飯具、カマド、カマ、コシキ、ナベの4点セット)の副葬品があったことです。そして「土器棺」、「陶棺」も珍しい話しでした。発掘調査では大きな遺跡・遺構の中には「床暖房施設・オンドル」とみられる遺構も見つかっています。このように古墳群や集落跡には半島渡来人の生活を偲ばせるもので、この地域の渡来人の生活が分かるものです。

 

  • 奈良・薬師寺の拝観、講座聴講して:

2月7日(金)薬師寺慈恩殿・薬師寺東塔大修理落慶記念講座(薬師寺復興について) 講師・大谷徹奘・執事長

薬師寺HP:    https://yakushiji.or.jp/

『680年、天武天皇の発願により飛鳥、藤原京に造営され、平城遷都とともに今の西ノ京の地に移転した薬師寺。1300年の歴史の中で天災や人災により「竜宮造り」と呼ばれた壮麗な伽藍が消失しました。1968年以降の写経勧進により金堂、西塔、中門・回廊、大講堂、食堂が次々に再建されてきた薬師寺白鳳伽藍復興の軌跡について、今春の国宝東塔大修理落慶を記念し、これまでの道のりや思いを法相宗大本山薬師寺執事長の大谷徹奘師からお話をうかがいます。今回は元総理大臣の細川護熙(もりひろ)氏が2013年から構想を練り、昨年2019年に奉納された障壁画のある薬師寺慈恩殿を特別にお借りしての講座です。この機会に是非ご参加ください。』(参加募集しおりより)

午前8時に京都駅に到着。近鉄に乗りまっすぐに「西ノ京」駅へ向かいました。ただでさえ狭い駅前はすぐに踏切があり往来の自動車が多く混雑はしていましたが、観光客は全くというほどに姿を見かけませんでした。最初に「玄奘三蔵院伽藍」方面に向かい、伽藍の奥に建つ今日の講座会場である「慈恩殿」を確認してから、本坊近くの梅樹の多くの紅白の咲き始めた花を愛でてから「白鳳伽藍」境内に向かいました。お寺の拝観料は本日の講座の案内状を見せるだけ。すぐに「東僧坊」の薬師如来須弥壇模造を確認して、売店の男性職員としばしの歓談。「今日は拝観客・観光客はまだお見えでない」 というショックな話しがありました。私が一番くらいに早くの拝観客だそうです。そこで眼についたのが売店の土産物の隅の刊行物の中に「行基菩薩」の小冊子を発見しました。

 

私が手にしたのは「行基菩薩」(千二百五十年御遠忌記念誌)で、B5版の100ページほどの紙厚の厚い冊子で掲載画像はすべてカラー画像という贅沢さで、最初はなぜこの冊子が薬師寺に置かれているのか?と訝しがったのだが冊子の最終ページの「奥付」に冊子発行事務局「行基菩薩ゆかりの寺院・事務局」が薬師寺となっていたことから合点しました。奥付の前のぺージには「行基菩薩千二百五十年御遠忌法要実行委員会」として、霊山寺、家原寺、薬師寺西大寺東大寺元興寺浄瑠璃寺、長弓寺などで構成される委員会組織が活動されて、法要が平成10年11月7日(土)に執り行われたようで、その際に発行されたのが記念誌だそうで、内容は私の期待以上のものでした。行基菩薩の生涯と活動、「道昭和上と行基」、「瑜伽師地論と成唯識論」、「行基四十九院」、「大仏造営勧進」、「行基墓所竹林寺」、「律令制と庶民の税負担」、「東大寺四聖御影の讃」、「行基菩薩墓誌破片」など細かい文字で誌面いっぱいに掲載されており、この冊子を読んでから昨年11月の「東大寺グレイトブッダシンポジウム」を聴講すればよりよく理解できたのでしょう。

私が以前薬師寺を訪れた時には、しばしば近鉄線を渡ってしばらく先の住宅地の灌漑池の「大池」に出掛けて「東塔」、「西塔」、「金堂」の堂塔伽藍が大池を手前にして綺麗に望める好適地を巡ったものです。今回はまだ東塔がクレーンと背の高さを競っている工事中の時期なので、数か月して東塔落慶以降にまた大池に脚を伸ばしてみようかと思います。

売店の方々とは會津八一の歌碑(西塔横にある)の話しで盛り上がる。その後は鐘腹に亀裂の残る鐘を吊り下げる鐘楼を観てしばし大型クレーンの設置された足場の組まれフェンスで囲われた工事中の「東塔」、「金堂」を挟んで奥に「西塔」を望んでしばしの撮影タイム。さっそく西塔横の「會津八一歌碑」と横に並ぶ「佐々木信綱歌碑」を拝観し撮影三昧となる。昔は各々各塔の横に分かれて建っていたのだと思うが、あるいはどちらかの歌碑が無かったのか、東塔工事のために信綱歌碑を移設したのか?その逆だったか?でも二つ並んだ歌碑も結構なもの。特に會津八一の歌碑に使われている石材は全体に青緑がかった色の石材で、何処の産の石材か知りたいと思いました。信綱歌碑の四角い形状とは異なり、自然採掘したもので趣がある。境内は広く遮るものが無いこともあり、強い風に身体が冷えるのが辛く早くお堂に入ろうと思いました。早朝と云うこともあるせいかまず寺院関係者や東塔工事の業者の方々の姿だけで、拝観客・観光客の姿はまず見かけません。まして歌碑の場所などは全く誰も立寄らないのでしょう。

 

佐佐木信綱:ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲

會津八一: すゐえんの あまつをとめが ころもでの ひまにもすめる あきのそらかな

 

「金堂」堂内の「薬師三尊像(国宝、白鳳~天平時代)は、大きな金堂堂内伽藍に正面に大きく開いた9間の柱間連子窓と交互の扉が観音開きになり、朝の陽ざしを目いっぱいに取り込んでおりこれ以上の明るさはないだろうという風景です。須弥壇上の三尊は厳かな佇まいで私がその昔に数度拝観した時と同じ様に待って下さっていたようだ。それでも当時を思い出してみても、何故か一回りくらいこじんまりとした感じがしたり、両脇侍像の天衣の脇側と外側の垂下部分や、両肩を廻り込む背中側の衣が欠けていること、「月光菩薩像」の頭上中央頭飾が欠けていることなど些細なところが受ける感じを減じているかの様な気持ちにさせるのはなぜだろうか?それでも各像共に黒光りする肌の張り詰めた緊張感はやはりただものではない雰囲気がさすがです。私の余計な感想は省略します。

「大講堂」は金堂より大規模な建物で古代伽藍の原則に則ったものだそうですが、何しろ真新しい建築物で堂内の天井や天蓋などの豪華華美な面が眼につき創建当時は康だったのか、と思い廻らしなあまり感慨が湧きません。堂内の「弥勒三尊像」(重文、白鳳時代)は最近の調査により白鳳時代の創建時の仏さまと描くにい出来たそうです。西院弥勒堂本尊の安置から一時薬師三尊として旧講堂に移安されされたが、平成の復興調査にあわせて弥勒三尊として大講堂に安置されたと云うことです。本尊向かって右側に「法苑林菩薩立像」、左側に「大妙相菩薩立像」のの脇侍が並び立ち、その間に「阿僧伽」(アサンガ・無着)、「伐蘇畔度」(ヴァスバンドゥ・世親)のインド僧兄弟の立像の姿が拝せられます。しかし興福寺北円堂の両像とは似ても似つかない痩身、肋骨の浮き出た胸部、薄地の僧衣、どう見ても貧相なお顔と、両人のイメージとは全く違う姿です。これは北円堂の両像のイメージが強すぎるのでしょう。 

 

「慈恩殿」の前に到着したら数人の聴講の方が既にお待ちで、事務局が準備終了後靴を脱いでお堂内に案内されました。大きな広間で正面に仏壇が一面に広がり、畳敷きの広間には折りたたみいすが並びます。事務局の方に聞くと約50名ほどの参加だそうです。堂内の壁面や襖面には色とりどりの彩色の数多くの天女や中国風の衣装を着た遊興する男女の姿や動物の障壁画が綺麗な空間を形造っています。これは「細川護煕」元首相が2013年から構想を練り2019年の慈恩殿に奉納された障壁画「画題・東と西の融合」で、2019年夏には細川護煕氏が公開に際して挨拶・説明をされたそうです。真新しい仏の姿を四周に廻らした広間は綺麗としか言えません。

講師は昨年12月に大手町よみうりホールで開催された「奈良楽講座」(薬師寺東塔を掘る)で、國學院大學・青木敬准教授による講義とチェリスト・西山牧人氏(奈良高校卒、東京芸大大学院卒、東京交響楽団チェロ主席奏者)のチェロ演奏とともに、薬師寺・大谷徹奘・執事長の法話があり私も出掛けたことがありました。その時にステージで大声で立て板に水の如くいろいろな話しをされた方が、今回の法話の講師・大谷徹奘師でした。大谷徹奘執事長はガッシリとした体躯で元気なお坊様で、大きな声で淀みなく多くの言葉が飛び出します。昨年秋の大手町の講座でも大きなステージを一人で左右に動き廻りながら、薬師寺の歴史やご自分の修業のこと、師として長いこと背中を見て活動してきたという「高田好胤」師の教えなどでしたが、今回も基本的には同じパターンでした。執事長が師事された「高田好胤」師は、戦後の荒廃を見て「大事なものは志し、師匠、仲間、金銭」と考え、その根拠が復興のための物質主義ではなく「物で栄えて心で滅ぶ」を信条に「写経」を多くの人々に行なってもらい全国を行脚して薬師寺伽藍を一つ一つ造り上げていくことを考え、特定のスポンサーを拠り所にせずに最後までそして師の死後も現在でも写経が寺の目玉にして信仰・慈善活動をおこなっているという。それでも経典のことや仏さまのことなど初めて耳にする話しもあり、それなりに充実した講座と感じました。私は参加者が慈恩殿を退出するまでの時間を、大谷執事長に挨拶と前回の東京での様子などしばらくお話しを伺うことが出来ました。

 

講義の後に、薬師寺中門建設より「西岡常一」棟梁に師事、現在は東塔解体修理に責任者として携わっている薬師寺宮大工兼薬師寺職員「石井浩司」氏をお呼びして、東塔修復についてのお話しを伺いあわせて講義会場に設えた木材の切削作業の実演を披露していただきました。『塔組は木のくせ組』という西岡常一棟梁の掛け軸が掛かる前で、石井氏の古代寺院の修理・解体の難しさ、前時代の修復の跡を見て学習(1300年前の大工の建築作業は造作が汚い=古代の建築道具は十分でなかったからで、渡来人のおかげで古代寺院は遺った)する気概、宮大工棟梁として大勢の工人の組織化など経験に基づいた緻密な作業が積み重なって来た大工職人人生だったとおっしゃる。そして50㎝角×3mほどのヒノキ角材を前後の台で固定して普段使っているご自分の「手斧」(ちょうな)、「槍鉋」(やりがんな)で、木材の横からあるいは木材に半身に腰をかけたりして、木材の切削方法を私たちの眼の前で実演して下さいました。削られた木っ端は綺麗に長く渦巻いて鉋の刃先からくるくる回りながら切れ落ちます。参加した皆さんは退場時にこの木っ端(手に取っただけですごく香りが匂いたつ)を幾つも持ち帰っていました。その後大谷執事長の案内で白鳳伽藍内の「東僧坊」内に展示してある「薬師如来坐像の台座模造、「東塔」心木の輪切り材の説明、そして金堂堂内に入り「薬師如来坐像及び日光菩薩月光菩薩像」の須弥壇上に上り、参加者のために般若心経を詠じ、参加者の健康と多幸を祈ってくださいました。

冬の陽は既に西塔の奥に傾き、薄暗く風の強い境内に出て解散となりました。

帰りは近鉄西ノ京駅」前から「春日大社行」の路線バスでJR奈良駅までガラガラの車内でのんびりと帰りました。西日が山並みのスカイラインに沿って鮮明で輝いてすごく綺麗で、私の眼に焼き付きました。

 

展覧会開催案内:  https://www.narahaku.go.jp/exhibition/2020toku/bishamon/bishamon.pdf

2月12日(水) 奈良国立博物館 14:30~16:30 講義(岩田茂樹学芸員)+観覧

早朝の京都駅も普段に比べて心持ち空いている感じ、近鉄急行もガラガラ。天気は良くて雲一つない青空を見上げながらも、奈良駅地下コンコースも駅前広場の行基菩薩像の噴水広場も東向商店街も、普段の早朝に比べてウソみたいにガラガラ閑散として人けがありません。こんなガラガラの商店街などは初めての経験だ。いつもの経路の興福寺北円堂から興福寺境内、奈良公園、奈良博まで本当にガラガラ。観光客がどこかに隠れているのかと思うほどに薄気味が悪いほどに閑散としている。これも中共の所為だから憤慨だ。近年の日本(韓国はもっとそうだが)は、経済面で中共一辺倒・超依存症のところが災いしたもので、観光のみならず経済にまで影響しているのですが、中共にはまったくひどく迷惑をこうむっています。鹿までが食物の「シカせんべい」がもらえず少し寂しげな元気が無い様子です。

当初は「カミ展」オープン時に拝観し、その経験をもとに「特別鑑賞会」に参加する予定だったが、特別鑑賞会は夕方からなので午前中から夕方までの時間に展覧会を拝観してから特別鑑賞会に参加すれば時間を無駄にせずに効率的だということで、いつものように早朝から奈良博へ午前9時30分には数名の入館者と一緒に入館しました。展覧会の展示構成は、1.独尊の毘沙門天像、2.毘沙門三尊像、3.双身毘沙門天像、4.兜跋毘沙門天の順に展示されており拝観者に分かり易い展示のように考えているようです。

「如法寺・毘沙門天立像」入館すぐの仏さまです。そして日本国内における彫像としてはかなり古い製作の仏さまだそうです。この仏さまについては2018年10月に奈良博で個別に展示(正面及び側面の姿のみ)があり、発見者の岩田茂樹学芸員からは別途2019年2月に奈良博で詳細の説明があり私も拝聴しました。配布された資料に仏さまの背面の画像や彩色のカラー画像があり、感心したものです。また「MUSEUM」676号(2018-10月)に岩田学芸員によって詳しく解説されており、私も展示を実際に拝した後で講演会と研究誌で再認識することとなりました。実際の仏さまの背中姿は今回の拝観が初めてで、着衣の彩色とともに予想以上に得をした感じです。像高約30㎝程度ではあるが、短躯の像態からもっと大きく感じられる仏さまです。

「和歌山・道成寺像」は、幾度も拝した仏さまですが、口元がクシャとした感じで横顔は額から鼻筋までが見慣れている日本国内の仏さまの感じがありません。

「岐阜・華厳寺像」は一見して顔部の小さな像態が道成寺像とは違って大人の仏さま風ですが、顔付きは「連眉」(れんぴ、私は連眉の仏さまは木津地方のあるお寺でお逢いして以来です)で口元をへしゃげた今にも噴き出しそうな感じにも思えます。体躯は甲冑、鎧などの単純な意匠でありながらはち切れそうな重量感があり、運動感よりも重量感強調の仏さまだ。眼につくのは着衣の袖、裙、腹帯の彫りの深い凝った文様、袖や裙の背部の襞の彫りには「翻波式」様の衣文が著わされ、また渦巻き状裙の細かな工夫が見られ、漆黒のような全身からの迫力が感じられます。

「京都・弘源寺像」は、極端な顔・手足のポーズをあらわした個性的な仏さまで、像態から考えると本来は独尊ではなく四天王像として祀られたものかと思いました。彩色もかなりよく残っており特に私が以前から注目している文様彩色についてこの仏さまでも認められました。それは、「海住山寺・大仏殿様四天王像」、「霊山寺・大仏殿様四天王像」など奈良博・仏像館で拝した際に、甲冑下の着衣・裙の裾の裏地面、像の足元後ろ側のたなびく状態の場所に各々龍、酉、胸鰭の大きな魚(名称を忘れた)、植物文様が表わされているようで、奈良博で岩田茂樹学芸員及び山口隆学芸員に伺ったところ、規定に無いことから自由に習慣として文様として裏地面に描いているものと考えらえるそうです。この仏さまは像そのものが大きく見やすい感じで、両足中央の衣部分に龍身と思しき動物の姿、左足後ろの裙裾裏地面の植物文様風の両所共に彩色の綺麗に残る仏さまです。

「京都・誓願寺像」は、動きの少ない憤怒形にも乏しいおとなしめの仏さまですが、私がすぐに気になったのは頭上の髻の前に開花した頭飾(花冠?)の上に蓮華台上?に「宝珠」を頂いているのが分かりました。

「滋賀・高雄地蔵堂像」は、標準的な持物である「宝塔」を持たないで「戟」を持ち、右手は腰にあてがう形をしている。私が知る限りこれを「鞍馬寺毘沙門天像」というと教えられていましたのですぐ分かりました。後世に手を加えて綺麗にしたので全身に木肌・木目が顕われています。

「出雲・放光寺像」一見して極彩色に覆われた甲冑、着衣と背中側の肩から尻下までや籠手の「虎皮裙」文様、顔部は肌色で仏さまではなく人間の顔そのもの、全身にケバケバしい姿だ。兜が別材で作られており頭に被っている状態で、兜を脱がすと頭部は黒色の頭でまさに人間だ。腰部の表鎧にあらわされた墨書による孔雀羽根文様が気になったが、像横の説明板に「奈良・東大寺法華堂・執金剛神立像」に似た文様があるという説明だった。

「京都・泉屋博古館像」面白い仏さまに出会いました。まさに「願成就院像」に似た「東京藝術大学像」ともよく似た仏さまで、制作された時代的に「玉眼」、「邪鬼」も玉眼、そして驚いたのは腹部の「帯喰」の獅子の眼にも玉眼嵌入になっているのです。仏さまの正面に立っただけで腹が光るので何かなと思い眼を凝らして近ずいてみて玉眼だということが分かりました。

「奈良・常光寺像」「京都・清凉寺像」は大小と大きさは違うが各々左脚膝下を岩座の前に踏み下ろした坐像の姿です。特に清凉寺像は大きく漆箔や彩色が残り細かいところまでよく拝することが出来ます。

「高知・雪蹊寺三尊像」はお馴染みの湛慶作の像とともに「吉祥天像」、「善膩師童子立像」の三体が揃って拝観出来ます。鞍馬寺三尊像に比べて吉祥天像、善膩師童子立像は穏やかな様子で親しみが湧き、好きになれます。

京都・鞍馬寺三尊像」は、同じく二像とともに三体が横並びで雪蹊寺三尊像の向かいで拝観出来ます。像の大きさからも鞍馬寺像は3体ともに一回り大きく、体躯もガッシリとして重量感があります。しかし、私には「吉祥天像」、「善膩師童子立像」の2像がかなり昔の記憶と異なり骨太の姿が馴染まないものでした。また善膩師童子立像の「美豆良」(みずら)が耳かと勘違いするような位置に大きく付いて、顔も少年らしくない感じで近づきがたいものがありました。

「カウンティ美術館像」については、像高約2mと云うことで展示会場で一番大きいのではないか。キャプションによれば元は島根県・出雲寺所蔵と云うことが分かっており、三尊像として並んでいる古写真があるという。日本国内で制作されたとは思われないような像態で部位の隅々まで細かな荘厳細工と彫りの深さや、絢爛たる彩色の仏さまで武将像とは思えないほどです。頭部の兜には龍面のかざり、肩喰いや帯喰いの髭面の鬼顔や鎧各所に描かれた植物文様の盛り土顔料の細かい彩色や鎧の装飾的な華美な意匠は仏さま、特に武将像としての過剰なものと思えます。

「奈良・東大寺双身像」は、岩田茂樹学芸員の論文「MUSEUM」665号に眼を通して行った予備知識があったものの、やはり実際に姿を拝すると感動ものです。有名な八幡殿の「僧形八幡神像」の近くに建つ経庫でつい最近の2006年に発見されたということで、最新の仏さまなのです。口唇端から伸びたひも状の「牙」が奇異に感じましたので、今回はその牙の行方を仏さまの身体を辿ってみました。幸いに天衣などの荘厳は無くすっきりとした仏さまの左右体側腰部を凝視すると、やっぱりありました。牙の先を辿ると各々体側腰部に一本の牙がきちんと表されています。岩田論文には「阿娑縛抄」の「双身法」に毘沙門天の形相の特徴として「八牙相」を解いていて「牙上方指白下方長白牙」と云うことで長い牙を示している。講座後に伺ったところ画像・図像では散見する牙だが、彫像ではまだ他にはあまり確認が出来ていない作例のようだ。

「京都・浄瑠璃寺双身像」がもうひとつの彫像かもしれない。浄瑠璃寺像は「馬頭観音菩薩立像」の像内から多くの小さな菩薩像とともに発見されたそうで、像高10㎝足らずの小像ですが面白い姿で表・裏の体躯で合掌する腕の向きが上下(一方は胸前、もう一方は股間)で違う、同じような兜・鎧の表現は可愛いくらいで、注目点は東大寺像とともに口唇から「牙」が左右下方に伸びていることですが、体側腰部に注目しても東大寺像のようにはっきりと牙の存在を確認しようとしたが、天衣が残っているだけで牙を認めることが出来ませんでした。

第一会場から第二会場へ移動するところに「毘沙門天の源流を探る―インドからガンダーラ・西域へー」、「唐宋時代の毘沙門天像―王朝の守護神―」として説明パネルが壁に貼ってあります。この内容は図録にもある「宮治昭」龍谷大学名誉教授と「佐藤有希子」奈良女子大学准教授の論考と同じ様でした。なおお二人と岩田学芸員の公開講義が奈良博で行われる予定で、私も聴講をしたいものと考えています。

 

次は「兜跋毘沙門天像」というところですが、思いがけないことがあったので、「兜跋毘沙門天像」の展示作例の紹介は後刻報告あるいは中止します。

午後1時頃に第二会場へ中央の廊下を渡って説明パネルに眼を通した後で、第4章のコーナーで「東寺・兜跋毘沙門天像」のほかに目当ての「奈良・朝護孫子寺像」「岩手・浅井智福愛宕神社像」(鉈彫像)に向かった矢先で、展示会場入口で金沢文庫・瀬谷貴之主任学芸員にお会いしました。昨年のある展覧会の時に奈良博のスロープのところでお逢いして以来、奈良博では2度目の偶然です。過日は奈良博での仕事と云うことでしたが、今回は高齢のご夫妻と思しき2人連れの方をお連れして説明していました。コートを脱ぎ上着も脱ぎワイシャツとネクタイ姿で熱心に説明しているようでした。顔が逢ったので軽く会釈をしました。それで私は私のペースで拝観して行きましたが、後刻に私が「特別鑑賞会」に参加するために館内地下のレストラン横のレストコーナーでソファに腰かけて本を読んでいたら、ショップに立寄った帰りということで瀬谷氏がお二人と連れ立って通りました。そこで私は「奥様の講演会を聴講に伺うことと、文庫のリニューアルオープンの時期について期待している」ことを伝えました。文庫は工事の予定がまだ確定していないのでオープンの日時が決まらないそうです。

 

「特別鑑賞会」の講義と拝観について

午後4時に講堂前に集合し入場開始。午後4時30分から30~40分間で岩田茂樹主任研究員から展示作例の各々についてポイント、特徴、見逃せない部位や姿など面白可笑しくご教示頂きました。その後午後6時30分まで展示会場全体を開放して参加者約50名が銘々勝手に拝観して廻りました。講義後に参加者からの質問が無く解散となったので、私は会場に行く前に岩田研究員にMUSEUM誌の岩田研究員の論文を開いて「東大寺・双身毘沙門天立像」と「浄瑠璃寺・双身毘沙門天立像」の「牙」について伺いました。お話しを伺った後で会場へ急ぎましたがそれでも約1時間強はガラガラの会場でゆっくりと拝観出来ました。幾人かの鑑賞客の方と簡単な話しを交わしました。職員に伺ったところ、私は「特別鑑賞会」は初めてでしたが、奈良博では特別展開催の際にはほぼ必ずと言っていいほど、人数は少ないものの展覧会開催中にこうした「特別鑑賞会」を実施しているそうです。これから注意していましょう。

 

2020年2月15日 0:30  Tak