孤思庵の仏像ブログ

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1⃣Taさんから寄稿 H27年・秋『京都旅行』に行って来ました。Ⅰ



メンバーのTaさんから投稿がありました。ご紹介します。」孤思庵



最近の観仏紀行を纏めたものをお送りします。3日間の拝観旅行の最初の一日分です。後の2日間は後日別途とします。一日分でも非常に長くなりました。ごめんなさい。
 
 
27年・秋『京都旅行』に行って来ました。
27年(2015年)111日(日)~3日(火) 行先: 京都市内 数寺院  記: 髙橋 哲夫
 
111日(日)
早朝430分、いつものように、かすかに白んで来た空を見上げながら、自宅を飛び出した。
肌寒い感じの空気が、胸の中に入ると、急に心臓の鼓動が早まった感じがして、覚醒した。
 地下鉄の最寄り駅までは歩いて15分、駅の改札口はまだシャッターが上がらず、10分近く待たされたが、始発電車は、三浦方面に釣りに行く支度姿の人、行楽地へ行く家族連れ、早朝勤務の社会人などがちらほらだ。
 新横浜駅は、それなりに通勤客や旅行客などが、足早に往来しているが、それでも週日や日中の比ではない。
6時発の、新横浜駅始発の「のぞみ」5号車の定位置のシート(進行方向右窓際、富士山が見えるよう)に、腰を下ろす。着席してから、550分までしばらく、窓から見えるホームの駅弁売店の開店を待つ。時間になったのを見計らって売店に飛び込み、食糧調達をしてすぐ戻ってくる。何年も何度も経験した作業になってしまった。
 
 面白いもので、私と同じように、いつも同じ頃に来て、着席してから売店の開店を見定めて食糧調達に席を立つ習慣の男性が、いつも私の眼の端にいる。同じ5号車(ホーム売店が眼の前)で、私より5列シート前の同じE席の男性。彼は旅行客でなく、何か仕事をしている人とみえ、小田原駅で下車するのも、いつもと変わらない。
 
 京都駅に着いて、南口から最初の1歩を踏み出す。南口は、あまり人混みに会わず、いつも歩きやすい。同じ目的地に向かうと思われる、数人の後ろを着いて行き、10分ほどで、東寺(教王護国寺)に到着する。
 
1東寺(教王護国寺
今日は、境内で早朝から、恒例の「市」が開かれており、午前830分頃に大宮通りに面した「慶賀門」から境内に入ったところから、沿道の両側はテントと発発(発動発電機)、軽トラックなど境内の奥まで、いっぱい。発発の軽快な音や、焼き鳥の匂い、おでんの鍋の匂いなど種々の匂い・香りがごったになり、店を開いている人、商品を並べている人、既に商品を品定めしている人など、賑やかな様子であった。古美術品などばかりでなく、古い玩具や日用品、和洋混淆の衣服売り場、漫画からCD、レコード盤など、よくぞ集まった、と感心する。
 
「灌頂院」
ゴチャゴチャした足許に気を付けながら、境内の奥まったところにある「灌頂院」の東門に着く。看板が大きく掲げてあったが、中に入る人は、僅かしかいない。それでも門内の受付にハッピを着た関係者が数人いるのが見える。830分で時間的に早いからだろうか、市の会場から一歩門をくぐると、そこは寺の空気が満ちていた。
「拝観料800円は高いではないか」心の中で一言つぶやいて、まっすぐ堂内に歩を進めた。
十二神将像」が安置されている薬師三尊像は、薬師如来像の像内に納められていた銘札により桃山時代を代表するという「仏師康正」(こうせい)、康理といった京都・七条仏所の仏師によって、慶長八年(1603年)にほぼ完成したとなっている。また、「本朝大仏師系図幷末流」に、豊臣秀吉の命により慶長七年(1602年)から本尊薬師三尊像を、そして同九年(1604年)から十二神将像が造られた、ことが記されている。
 
十二神将は、薬師如来を説く経典を信ずる者を守護する護法神で、薬師如来の十二の大願を守護する神と云われている。そのため、薬師如来像と共に造像され、眷属として安置されることが多いという。
十二という数は、十二支の数と一致するため、十二神将と十二支を結び付けて、像の頭部に十二支の支獣(干支)を区分として取り付けるようになった、といわれる。
東寺の総合寺誌と云われる「東宝記」に創建期の薬師三尊像の形状について、その概要が記されているそうだ。「光上七仏薬師三尺下十二神将三尺」とあり、これは、光背に三尺の七仏薬師が、そして下(台座)に同じ大きさの十二神将が取り付けられていることを表わしている。
参考に持参した写真で見る限り、光背に付けられた七仏薬師の化仏が「東宝記」の記述のような三尺というのは、観た感じでは小さくておかしく、化仏が坐像なので立像として考えて像高三尺というのが納得出来る点だ。
この金堂・十二神将像は、修理のため平成78年(19951996年)に美術院によって解体修理された。その過程で貴重な銘文の発見とか、多くの新しい事実を知ることになった、という。
 
最初、堂内があまりにもガランとしているので、びっくりしたが、お寺の方の「連日、早朝はこんなものだ」、とのことで合点した。さすがに堂内は、一段と暗く、手許でメモを取るにも難儀である。ボランティアの女子学生に小さな懐中電灯を灯けてもらって、ノートの先を照らして手伝ってもらうことが、この先何回かあり、女子学生に大変お世話になることとなった。
 
手許のノートに記したメモで、十二神将像を明らかにしていく。
堂内左手の階段を数段上がり、壇上で最初に出会ったのは、
・「巳神将」・因達羅大将(いんだら)・地蔵菩薩・南(ヘビ)
 桧材、寄木造り、玉眼嵌入。顔部金色残り。甲冑腕脇に彩色残あり。右手下げて「斧」を持つ、左手頭上にかざす。背面尻部に大きな獣皮を垂らす。左足膝を曲げ右足前へ踏み出す。
・「午神将」・珊底羅大将(さんてら)・虚空蔵菩薩・南(うま)
 桧材、寄木造り、玉眼嵌入。顔面赤色大部分残り、下向く。右手三鈷杵振り上げ、左手腰に当てる。甲冑彩色多く残り、尻部に獣皮垂らす。天衣を左右に垂らす。
・「未神将」・額倆羅大将(まにら)・摩利支天・南(ひつじ)
桧材、寄木造り、玉眼嵌入。右手に剣を持ち、左手は剣の刀身を受ける形。甲冑の金色縁、裳が後部に大きく広がる。尻部に獣皮を大きく垂らす。右足に重心を置き左足を前に出す。
 
一旦階段を下り、奥の区画に向かうが、そこは一段とうす暗く、すぐには全体を見渡す事が出来なかった。それでも概略の会場の様子を掴み、ノートに四角い線を引いて堂の図を書き、分かったことを書き加えていった。その際も堂内の女子学生ボランティアに、手許を懐中電灯で照らしてもらう手間を掛けた。
入った場所と奥の対面に板壁があり、その各々に「日光菩薩」、「月光菩薩」の種字が、スクリーンに投映されて、そこだけぼんやりと明るくなっていた。向き合ったスクリーンの間の土間に9躯の「十二神将」が、腰高の新しく造られた白木の台の上に載り、グルリと立ち並んでいる。本当は何も無い堂内だが、堂内の高い天井と、うす暗い土間に直接祀られた、多くの像の全体の様子が、まさに修業、灌頂の場としてふさわしいもののように思えた。
 
4躯目からは、……
・「酉神将」・迷企羅大将(めきら)・阿弥陀如来・西(とり)
 桧材、寄木造り、玉眼嵌入。左手を肩の高さに上げホラ貝を持つ。右手は剣を持つ。甲冑に金色、赤色などの彩色がかなり残る。尻部に大きな獣皮を垂らす。右足脛当てに緑色彩色残る。はだしで岩上に立つ。
・「戌神将」・伐折羅大将(ばさら)・勢至菩薩・西(いぬ)
桧材、寄木造り、玉眼嵌入。顔面青黒く、口ひげ、あごひげをつける。左手下げて宝棒持つ。右手手首から欠損。甲冑、着衣は極彩色残り、甲冑前部に緑色、青色、赤色の紋様明瞭に残る。両足は二王立ち。
・「亥神将」・宮毘羅大将(くびら)・弥勒菩薩・北(いのしし)
 桧材、寄木造り、玉眼嵌入。左手ひじ曲げ胸前に指開く。右手下げ剣を持つ。甲冑金色縁きれいに残る。左右足脛当ての紋様明瞭に残る。
・「子神将」・毘羯羅大将(びから)・釈迦如来・北(ねずみ)
 桧材、寄木造り、玉眼嵌入。顔面黒色で斜め上方を向く。左手の掌に宝珠を持ち上方へ持ち上材げる。右手は下げ持物を持つ。甲冑、裳にわずかに彩色残る。裳が腰部後方に大きく広がる。獣皮を前後に垂らす。頭に兜をかぶる。
・「丑神将」・招杜羅大将(しょうとら)・金剛薩垂菩薩・北(うし)
 桧材、寄木造り、玉眼嵌入。顔面全体に緑色彩色はっきり残る。両手にも緑色彩色。甲冑、裳に明瞭な赤緑金色の彩色が鮮やかに残る。裳の内にも紋様彩色明瞭にあり、腰後部に大きく広がる。天衣が腰から左右広がる。獣皮が背面より腹帯を経て、尻部に広がる。
・「寅神将」・真達羅大将(しんだら)・普賢菩薩・東(とら)
 桧材、寄木造り、玉眼嵌入。兜をかぶり、左手下げ、右手を肩高に上げ、棒状のものを持つ。甲冑の彩色、金色、赤色、緑色がよく残る。獣皮を背中から腹帯を経て尻部に大きく広がる。
・「卯神将」・摩虎羅大将(まこら)・薬師如来・東(うさぎ)
 桧材、寄木造り、玉眼嵌入。顔、腕、足の身体全体すべてが緑色彩色。左手を腰に当て、右手は下げ拳を握る。甲冑に紋様・彩色がわずかだが明瞭に残る。獣皮は背面から尻部に垂れる。
・「辰神将」・波夷羅大将(はいら)・文殊菩薩・東(たつ)
 桧材、寄木造り、玉眼嵌入。顔面、腕、足にわずかな緑色彩色残る。甲冑は金ふちのみ残る。胸部はだかではだける。左手に宝珠を持ち、右手は持物を掴む。はだしの両足で、左足を一段高い岩座に立つ。裳は後方に大きく広がる。
・「申神将」・安底羅大将(あんてら)・観音菩薩・西(さる)
 桧材、寄木造り、玉眼嵌入。右手こぶしを顔前面にあてがい、左手はひじを曲げ前へ出すが手首欠損。甲冑脛当て、彩色紋様が青色、緑色、金色が良く残る。獣皮は背中から腰、尻部に垂らす。
 
これだけの像の木札を読み、ノートに転記し、特徴を顔部、甲冑、裳、獣皮、彩色、持物に絞り、各像を観て巡り歩いたが、最後の方になると、書写が間違っているのかどうかも分からないくらい、同じように思えて、頭がゴチャゴチャした。
 
いくつもの像を巡り歩くうちに、拝観客の人数が増えてきて、順番にゆっくりメモを取りながら巡ることが、難しくなってくる。はじめは正面から順に観て廻り、端に行き着くと、グルリと後側に廻り、像の背中側の姿を観ることになる。
うす暗いお堂の壁際には、八祖師の画額が掲げられている。一般には、近づかないと分かりにくい隅の方にあるため、堂内の多くの人は像の方に気を取られ、気付かないかもしれない、と思った。堂の一方の壁には、「空海」、「不空」、「金剛智」、「龍智」。反対側の壁に「恵果」、「善無意」、「一行」、「龍猛」が掛かり、他に修法時の「壇」が置かれている(これはミニチュア?小さい感じ)。
 
「灌頂院」は、毎年正月に「後七日御修法(ごしちにちのみしほ)」という秘法を修する時と、「伝法灌頂」、「結縁灌頂」があり、一般の人は、空海の命日の421日のみに門内に入れるのだそうだ。
普段は何も安置されていなく、ガランとしたお堂が、こうして多くの人々を連日迎えることは、灌頂院始まって以来のことかもしれない、などと考えながら、退出することとした。
お堂の出入り口は、出る人・入る人で押し合いのようで、やっと出たと思ったら、眼の前には、お堂に入るのに並んで待たされている、観光客の順番待ちの行列にぶつかる。二曲がりほどになる行列が出来ていたのには、本当に驚いた。自分が入堂する時など、何の抵抗もなくすんなり入れ、数人しか観光客がいなかったのに比べ、雲泥の混雑さに、改めてモットー「目玉は、朝一番の拝観を励行」を実感した。お腹が「グー」となったので、腕時計を見たら、1230分だった。
 
「灌頂院」の東門を出る前に、お寺の方から声が掛かり、自分がいろいろとお寺の方に話しかけていたり、メモをしているのをご覧になっていたものだから、と、説明用として用意していた資料を、寺務所でコピーして、提供して下さった。予想外のことに感謝‼、感謝‼。
お堂を出て帰り際に、お寺の方に、像の彩色について伺った。お寺の方のお話しでは、十二神将像の「酉神」像の首枘背面から「十二神綵色絵所徳悦」の墨書銘が、そして今回の修理でも「寅神」像からも同じ銘が発見された、という。「徳悦」という絵師は、幾つかの作例があるそうで、秋山光和東大教授の著わした簡単な論文のコピーも頂くこととなった。
 
 
「金堂」
一時期「灌頂院」に移った「十二神将」の抜けた、金堂の薬師三尊像を拝観に向かった。
金堂は、歴史を紐解くと、唐より帰国した空海が、嵯峨天皇から「東寺」を賜った時に、まだ東寺全体が出来上がっていなかったが、唯一金堂だけが出来上がっていたという。その後焼失したが、慶長8年(1603年)に復興したもので、今でも東寺内では最大の建物で、外観は二階建てのように見えるが、内部は、天井無しのように吹き抜けとなった一層のみの構造になっている。
大きなお堂の内には、見上げるばかりの「本尊・薬師三尊像」が須弥壇の上に安置されている。脇侍の日光・月光菩薩立像も大きいのに、中尊はもっと大きい。立像の脇侍像の像高は2.7メートルだが、本尊薬師如来坐像(七仏薬師)は、像高だけで2.9メートルもある。大きな像が、高い須弥壇の上に安置されているので、本当に見上げるばかりだ。首を上げっぱなしで疲れた。
薬師三尊像は、薬師如来像内に納められた銘札により、桃山時代の仏師「康正」を中心に、康理、康英、康猶という京都・七条仏所の仏師によって、慶長8年(1603年)に完成したことが明らかになった。
本来は、本尊の八角形台座(裳懸座)の下の框(かまち)に、ズラリと並んだ「十二神将像」の群像が、今日は「灌頂院」に出ていて、ポッカリと空間が広がっている。これまでは、金堂のかなり遠くの場所から、それもうす暗くてよく判らない正面からと、斜め横からしか眼に出来なかった仏様が、ゆっくりと今だけでも、各部位などや細かい細工の様子など拝観出来るのだから、うれしいの一言だ。                                                                                            
三尊像とも、金色の姿で巨大なきらびやかな存在が、大きなお堂内に祀られている圧倒的な存在感が、半端ではない。特に、講堂のように所狭しとなった堂内と異なり、ガランとした装飾も何もない堂内で、異様な対比で、何故か心騒ぐ。いつの間にか1時間を過ごしてしまっていた。
 
「講堂」
いい加減疲れたところだったが、ここも「立ち寄らなくてはならない」、と大きなお堂の石段を上がり、扉を開けた。一歩堂内に入ると、突然の圧倒される空気と、冷えたような気配が、一緒に自分を包んでくる。金堂を拝観の直後だったので、余計強く感じたようだ。
講堂は、真言密教の根本道場とすべく建設され、堂内は、大日如来を中心にした、大きな21躯の尊像が立ち並び、埋め尽くされている。今回は、その詳細を各々連ねるのは止めておく。当時の僧侶が、この伽藍に入って、どのような感慨に耽ったか、各人の想いを想像するには、あまりにもこの堂内の諸像の姿が、厳粛でありすぎるようだ。
 
五重塔
金堂の向かい側、「瓢箪池」のある庭と歩道を巡ってから、「五重塔」に向かう。
京都のシンボルのひとつで、塔高は55メートルで日本最高の塔だという。塔の完成は、空海没後50年を過ぎた頃だったという。その後焼失を繰り返し、今の塔は、5度目の建設により、徳川家光の寄進によって再建されたという。
華美な装飾や特別な構造などの特徴も無く、シンプルな外観に似つかわしくない初層の内陣は、以前にも拝観したことがあり、既知のものであった。しかし、改めて塔内に入ると、天井の意匠と装飾、内壁の真言八祖画像、内陣の4本の柱に描かれた曼荼羅諸尊画像、四角の中央心柱の絵柄、中央須弥壇上の金色の諸尊像の配置、構造上の梁にまで細かく仏画などが描かれ、彩色が細かく施されており、改めて眼を見張るばかりであった。
初層内の回廊を何度も巡り、心柱を中心とした伽藍には、細かい細工や絵画の紋様、彩色の多様な配色にも感心した。また、心柱の最下部が見られるよう須弥壇下に窓を作り、下層の様子を見られるようにしている。塔内部の世界がこうして長い時間を経ても変わらず、荘厳さを人々の心に滲みこませて行く、意匠のものすごさに関心し、再見してよかった、と満足感いっぱいだった。
 
「御影堂」
「大師堂」とも呼ばれ、弘法大師信仰の中心のお堂で、弘法大師像を安置し、御影供(みえく)が始まったという。
瓦葺き屋根の諸堂と異なり、一見して優美な雰囲気を醸しているのが「御影堂」で、赤茶色くなった檜皮葺き屋根の伸びやかな曲線を描く平屋の大きなお堂となっている。信者とおぼしき人々が、靴を脱いでお堂の中に入っていく姿が見られる。
 
「宝物館」
東寺は、密教美術の宝庫で、諸堂塔以外にも多くの貴重な宝物を蔵している。寺の方に伺うと、重文指定以上の宝物だけでも、二万点以上になるそうだ。宝物館は、昭和40年(1965年)に開館し、今年50周年を迎えたという。今回は、空海ゆかりの書と名品が展示されていて、「風信帖」が久々に展示されていた。これは、流麗な筆致で有名な書でもあり、こうした宝物や、2階には「兜跋毘沙門天立像」が、諸像の一番奥の片隅に安置展示されていた。
 
東寺から京都駅まで戻り、いい加減足腰が「疲れた」と音を上げているのを気にしながら、その足で今日最後の「平等寺」へ向かう。
 
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翌日からは、
112日(月):泉涌寺雲龍院、即成院)、妙法院(普賢堂)、建仁寺金戒光明寺
113日(火):法然院、西方寺
を巡った。