孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

Takさんの 近況 投稿


思わぬ長患いを致しました。 ちょうど今日で、風邪の症状(鼻詰まり・咳込・微熱・倦怠)を自覚して、1か月になります。風邪を拗らせた にしては??と思い先週 病院にて 諸検査しまして、肺炎との診断でした。 処方薬が変わりました。 それをネット検索で調べましたら、 医者はマイコプラズマ肺炎を疑っているようです。 その後徐々に回復してきました。 明日1週間後の再診に行きます。診断を又 報告させて貰います。

そんなで、大部分を 就寝してました。かような仕儀で・・・、Eメールの受信ボックスを見ないを続けてしまいました。 ようやく回復の兆しで、メールを開き、溜まった受信の中に・・・、Takさんからのメール・投稿を発見しました。すごい長文です、 かかる大作を放置してまして、すみませんでした。 遅まき乍ら、以下 掲載します。」孤思庵




以下、Takさんの近況です。


●5月17日(木)京都・東寺「東寺の菩薩像」展(3/20~5/25)+「観智院・五大虚
空蔵菩薩像(5躯):

朝から薄曇りの蒸し暑い日になりました。例によって午前8時に京都駅到着。その足
で東寺へ出かけ、いつもの道を歩いて10分程度でひとけの無いお寺につきました。境
内は各所で工事や修復などをしており、少しゴタゴタした感じです。五重塔初層開
扉、金堂・講堂拝観を手短かに済ませ、午前9時過ぎに「宝物館」へ向かいました。



東寺・「東寺の菩薩展」:  
http://www.toji.or.jp/ 



「東寺・宝物館」:

宝物館は昭和40年(1965年)から一般公開され、寺宝の保管・調査・整理を行なって
おり、東寺の寺宝(国宝・重文約80件2万点以上、未指定文化財5万点以上という)の
中から、毎年テーマを決めて春秋に特別展を開催しているそうです。今回は「東寺の
菩薩像」として境内各所に安置されている仏さまや仏画などに絞って拝観していくも
のです。金堂・薬師三尊像をはじめとして、講堂・五菩薩坐像を久し振りに拝観して
から宝物館へ行きました。2階の展示室では、常設の「兜跋毘沙門天像」は、昨年に
「宝塔」後補が左手上に載り昔の姿に戻り、また中国請来の本物の「金鎖甲」(きん
さこう)を久し振りに拝しました。

中央に展示の「旧食堂」本尊の「千手観音菩薩立像」(重文)が、修理完成50周年と
いうことで、大々的にポスターにもなっていました。昭和5年(1930年)の「弘法
市」(終い弘法・12月21日)に旧食堂が失火し、千手観音菩薩立像をはじめ四天王像
も焼損したが、食堂の建物は昭和9年(1934年)の「弘法大師1100年遠忌」に間に合
わせて再建されたそうです。しかし戦前の事で炭化した仏さまを修理する技術が無
く、金堂内に仮安置されたまま長期間過ぎたそうです。戦後の昭和41年(1966年)か
ら、炭化した部分を合成樹脂で硬化し、その上から木屎漆(こくそうるし)などで修
正することで修復し、昭和43年(1968年)に現在の場所に安置されたそうで、以来半
世紀を経て現在に至っているのです。完成前の昭和35年(1960年)に行われた修理前
事前調査で、仏さまの右大脇手の前膊内側から発見されたのが「桧扇」(ひおうぎ)
でした。扇面の古木に墨書銘があり、最古レベルの「草仮名」や花鳥、樹木などの軽
いタッチの墨書きが確認出来、「元慶元年(877年)」の墨書から、「桧扇」が重文
指定になっています。仏さまは修復再建されたものの、脇手、持物などは後補だった
りしますが、左右両脇で欠失した天衣の流れが脚腿部分に色の変わった部位の痕跡が
認められます。以前は両肩からの天衣の垂下部分が、膝脚部前面に2段にわたって天
衣が掛かっていたこと、宝鉢をささげていた下段宝鉢手の両腕の腕部に天衣が掛かっ
ていたことが推測出来、おおよその旧像態を知ることが出来ました。また後で職員と
話しをしていて、わざわざ仏さまの焼損する前の大正時代の写真を持ってきて見せて
下さいました。写真では「千手の脇手」の取り付け方が奇抜で、上半身はありきたり
の像態で脇手を取り付けているのですが、だんだん下へ向かい下半身の左右膝部ま
で、脇手が取り付けてあるのが確認出来ました。身体の膝部分にまで腕があるという
こと?下半身部分の脇手は裙の後ろに取り付けているようでした。「桧扇」や「千手
観音の脇手」など面白いことを知ることが出来ました。

他には、「夜叉神立像」(雄夜叉・文殊菩薩像・平安時代・重文)が堂内隅に展示さ
れていました。最近、東博にて「国宝・重文新指定展示」の会場で「木造夜叉神立
像」として展示されていた、今春新たに重文に指定された仏さまです。東寺中門に安
置されていた「樹神像」で、2m近い大きな像で、大きな怒髪で嵌入した眼玉を見開
き大きく口を開き、両肩から先を欠失した体幹部や脚部も足首から先が無い、像の体
裁をかろうじて保っている感じで、胸・腹部に多くの虫食いやらをたくさん残した霊
験像です。



「東寺・観智院」:

午前10時30分に「宝物館」を退出した後、「北大門」をくぐり、ほんのすぐの洛南高
校の向かい側にある「観智院」に向かいました。観智院は東寺一山の「勧学院」で、
所蔵する密教聖教の量と質では国内最高といわれているそうで、徳治3年(1308年)
後宇多法皇が東寺に帰依し、西院(御影堂)にこもって真言密教の研鑽に努めら
れ、東寺興隆を発願されました。弘法大師以降傑出した学僧が輩出し、観智院が創建
されて東寺教学の基礎が出来たということです。さらに徳川家康が発行した「黒印
状」をもって、真言一宗の勧学院と定められたということでした。「客殿」は、長い
こと東寺の長老が住した場所で、非常に大きくそびえる入母屋造り、軒唐破風を脇に
つけた桃山時代の書院造りの典型的な建物だそうです。客殿床の間には、大きな壁紙
に二羽の荒鷲が勢いよく描かれて、一方の竹林の淡い図柄と相まって二刀流・宮本武
蔵の筆になる「鷲の図」が観られました。「長者の庭」を外縁伝いに巡り、枯山水
式の白川砂利や隠岐島・赤松、平石の石橋、吉野石など寂静感溢れる庭になっていま
す。外縁を巡りながらいくつもの仏間や襖絵を覗きながら、「本堂」へ向かい「仏殿
の間」に入ります。手前が畳敷き奥が板敷きの間で、大きな天蓋が下がる護摩壇の奥
正面壁際が、一段高い須弥壇になっており、板状の台に各々「五大虚空蔵菩薩像」
(5躯・重文)が立ち並んでいます。各々鳥獣台座に載った結構大きい像のように拝
しましたが、床から段差のある2段の台(須弥壇らしからぬ台)の上に載るせいか、
頭部が天井に近く感じます。「虚空蔵」とは無尽蔵、広大無辺の知恵を無尽に蔵して
いることを意味している。「虚空蔵求聞持法」の像として伝えられ、一説には空海
徳島辺りの寺でこの法を受けて真言密教を学ぶきっかけとしているそうです。五大虚
空蔵は、その知恵を五つに分けてあらわしたもので、除災招福の祈願の本尊という教
えがあるそうです。五躯が揃って中国・唐・長安の「青龍寺」金堂本尊であったもの
ということで、承和14年(847年)入唐僧・惠運(えうん、けいうんとも云う、入唐
八家のひとり)が請来した仏さまだという。仏さまを持ち帰った後は山科・安祥寺を
開創して、安置している。説明では、各像とも広葉樹一木造りです。左足を上にして
結跏趺坐した姿で、仏さま本体の彫りと瞳や装身具は、土を練った練物を盛っている
という独特の製法を使っているそうです。その面貌、姿態の特徴は宋代彫刻に見られ
る傾向で、造像時の晩唐の時代様式が出ているということです。確かに各像ともに、
四角い面長な凡庸な悲喜の感じられない無表情な下膨れの面貌と、着衣のパターン化
した浅深の変化のない表現は、日本での造像とは思えないものです。向かって右から
(東)金剛虚空蔵像(獅子座)、(南)宝光虚空蔵像(象座)、(中)法界虚空蔵像
(馬座)、(西)蓮華虚空蔵像(孔雀座)、(北)業用虚空蔵像(迦楼羅座)で、
各々菩薩像のみでは約70㎝~75㎝程度だそうです。部屋に詰めているお寺の方に伺う
と、孔雀や迦楼羅の台座は観智院に安置した時分から欠失していた模様で、以降の天
災にも会い、他にも損傷・欠損した部分が多いそうです。お寺の方に伺いました。各
像は入唐僧惠運が請来したのちに開創した山科・安祥寺に安置された後、中央・法界
虚空蔵像の台座框裏面の墨書によって、安祥寺が台風により損壊し、本尊も大きく損
傷し無残な姿になったという。安祥寺を見舞った僧賢宝が各像を観智院に移し、修理
を行なったことが記されています。また、墨書銘の下段には、元禄16年(1703年)の
修理記録で本像が中国・長安青龍寺金堂の本尊で、「恵果」(けいか)の持仏だっ
たと記しています。お寺の方からは、尊像を乗せる台座である獅子像のX線画像で
は、獅子の胎内に古銭多数が納められているのが分かる、とのお話しでした。

 

隣りの仏間(東の間)には「愛染明王坐像」(江戸時代)が安置されています。約1
mという像高の大きめの仏さまで、一瞥して大変迫力のある愛染明王像です。カッと
見開いた両眼がはっきりと「玉眼」であることが遠目にも解かり、頭上の大きな獅子
冠が目立つ丸い顔に、左右両牙は口唇上方に剥き出し、額に小さめの第三眼が刻され
ています。六臂の太く力強い腕には持物を持ち、身体の随所に装飾、瓔珞が付けら
れ、肉身は朱色彩色、条帛や裙には胡粉を盛り上げて彩色が施されている。組んだ膝
脚部の裙には派手目の文様彩色が目立つ、意匠を凝らした像態になっているようで
す。像の背後には大きな円光背と内側には金属板で作られた火炎が貼り付けられてお
り、何故か愛染明王像はどれも工芸美術的なものになっている気がします。



午後2時前に東寺を後にし京都駅へ向かいました。京都駅からJR琵琶湖線の電車に飛
び乗りました。





●5月17日(木)三井寺(あお若葉―もみじ―の競演)(4/28~5/20)+「観音堂
開」:



三井寺「あお若葉の競演」: 
http://miidera1200.jp/aomomiji2018/



三井寺」:

京都駅からJR琵琶湖線大津駅」で降り、15分程しばらく歩いて、琵琶湖疎水の取水
口水門まで行きました。狭い疎水には小さな観光船が観光客を乗せているところでし
た。観光船はその先は三井寺の山懐に向かいトンネル(暗渠)に入ることになるはず
です。山を潜ると、京都市内の蹴上に繋がる疎水の流出口に出るはずです。それでは
暗渠が長くて、観光客にとっては暗い暗渠ばかりの船旅になるのでしょうか?観光船
の関係者に聞けばわかるのでしょう。今日は聞かずに次に来るまで知らずに置きま
しょう。その光景を横目にして「三井寺」に向かいました。昨年には「三井寺・唐
院、灌頂堂、五重塔公開」ということで出かけていますので、勝手知ったる拝観コー
スになりました。

2018年は、「西国三十三所・観音巡礼」草創1300年に当たることを記念し、2016年~
2010年の間に33の寺院が、順次行なう公開の構想に基づいた行事の一環です。三井寺
では、今年から数年先までお寺を挙げた行事を計画しているとのことで、今春の「あ
お若葉の競演」をはじめとして、今秋には国宝「黄不動尊画像」の公開も予定されて
いるそうです。またまた期待したいです。

三井寺は、天武天皇15年(686年)に、大友皇子の子、大友村主与太王(すぐりよた
おう)によって創建されたと云われます。「園城寺」の名前も与太王が自らの荘園城
邑(しょうえんじょうゆう)を献じて創建したことから、天武天皇から「園城」とい
う勅額を賜ったことに起因しているそうです。もともとは大友村主家の氏寺だったの
です。大寺になったのは智証大師・円珍による密教修学場として、天台根本道場と
なったことからでした。「三井寺」の名前は、境内に天智、天武、持統の三帝が誕生
の際に産湯に用いた霊泉があり、円珍が灌頂の法義を行なったことに由来しているそ
うです。



観音堂」:

三井寺観音堂」は、本瓦葺き重層(2階建て)入母屋造りの大きな建物で、西国三
十三所・観音霊場の十四番札所になっています。本尊は「如意輪観音菩薩坐像」(重
文)で、33年に一度の開扉の秘仏になっています。本堂は江戸時代の再建で、金堂に
次ぐ大建築物です。秘仏如意輪観音菩薩坐像の脇持として祀られる「愛染明王
像」(重文・平安時代)、「毘沙門天立像」(平安時代)、「蓮如上人坐像」などや
「絵馬」「陶芸品」などが展示されていました。



「金堂」:

「金堂」では、普段は公開されていないのですが、今回のような特別公開であっても
簡単には入れません。俗人は内陣拝観が出来ないとのことで、堂内外陣でお坊様から
俗人から僧侶になる法義を施してもらってから内陣に入ります。短時間ではあります
が、お坊様から受けた茶色い粉を掌でこすり、お坊様が挙げる呪文の間に額・口・胸
の各部に指ですりこむカタチです。薄暗い内陣で、須弥壇の上に載る大きな厨子内に
祀られる秘仏の仏さまは「秘仏弥勒仏」で、お参りするのは順に「文殊菩薩
像」、「秘仏厨子入り弥勒仏」、「普賢菩薩坐像」、「大日如来坐像」です。今回
公開される仏さまはすべて初公開です。そして、文殊菩薩坐像は北院・新羅善神堂に
祀られる新羅明神本地仏普賢菩薩坐像は南院・三尾明神の本地仏大日如来坐像
勧学院本尊。

文殊菩薩坐像」は、「北院」の「新羅明神」の本地仏ということだそうです。鎌倉
時代の作、天冠台が欠失しているものの、髻が綺麗に結ばれ、髪の筋目も細かくはっ
きりと手を入れられています。伏し目がちで穏やかな眼窩の浅い平凡な顔立ちをして
います。条帛や裙の衣文は単純で彫りは浅く、印象に薄い像態です。左手には経巻、
右手には剣を持つ姿で、あまり肉感的ではない体躯に感じました。また天衣が背中側
を通り、両肩から腕に絡めて肘後ろ側で環状のひるがえりを形造っています。大きな
連弁の台座と装飾的な返り花は大きく印象的でした。

秘仏弥勒仏」は大きな重厚な切妻式屋根を掛けた漆黒の厨子入りで観音開きの扉
を閉めた形で、残念ながら仏さまのお顔を拝することは出来ませんでした。それもそ
のはず、三井寺金堂本尊として「絶対秘仏」つまり絶対に開扉されない秘仏中の秘仏
で、仏さまを拝した人物はこれまでにも極く限られた人物だと思われます。写真もな
く学術調査も行われていないそうです。秘仏は何も手を掛けないことが本願です。何
時までもこのままで。

普賢菩薩坐像」は、「南院」の三尾明神の本地仏だそうです。鎌倉時代の作で、思
いがけず玉眼造りで、大きすぎるほどの過剰なまでの金属製の精緻な頭飾と蓮華台
座、金属製の日輪・月輪、宝珠側飾、瓔珞、蓮華台座から下部の円形台座までの装飾
の淡麗・荘厳さが目立ちます。顔立ちは穏やかで、丸型の輪郭に端正な目鼻立ちが綺
麗な仏さまです。左右の手で持つ蓮華茎の先には、蓮華台座とその上に立つ独鈷杵
の剣らしき物(私にはどういうものか判らず)が付いていました。頭飾の正面に環状
の枠があり化仏でも収めているかと気になったが、分からず仕舞いだった。

大日如来坐像」は、「勧学院客殿」の本尊で、鎌倉時代の作、左足を上にした結跏
趺坐で玉眼嵌入の面相、高い髻、大きな精緻な宝冠と宝珠を付けた側飾、精緻な瓔珞
と、腕釧は別材かと思えるほどで大きな飾りでカタチ造られていました。着衣は彫り
の深めの襞のはっきりした綺麗な彫りの様でした。蓮華台座も大掛かりな蓮華から敷
茄子、返花まで手の込んだ精緻な意匠で造られていました。顔立ちは眼鼻の小さめな
抑制された穏やかな相貌が好感もので、智拳印を結ぶ両腕はスマートで、体躯はあま
り肉感的でなくバランスの取れた姿です。

私の後から内陣に入ってきた拝観者がほんの僅かの短時間で、私の前を通り過ぎて出
て行きます。私もかなり粘って居座っても30分程度の拝観に終わりました。



文化財収蔵庫」:

最後に山内にある「三井寺文化財収蔵庫」に立ち寄りました。「国宝・黄不動尊」で
有名な「微妙寺」の向かいに立つ、2014年に開館したお寺の収蔵庫で、多くの文化財
が収蔵されており常時約50点の文化財を展示しています。暇そうにしている女性の職
員に入館料を払い館内展示場へ入ります。入館者は誰も居ず我一人で寒々としていま
した。入口すぐに「銅鍾」(高麗時代、11世紀、口径50㎝、総高80㎝の小型の鐘)の
展示があり、胴を巡る文様は精緻で幾何学的な文様のほかにも、2体の天女像がきめ
細かい図柄で何処から見ても均整の取れた綺麗な銅鐘です。天女像の陽刻部分が二体
とも展示正面の見やすい場所でなく左右脇になっており、展示の向きを少しズラして
欲しいくらいでした。メインの展示は、館内展示場の過半を占める「勧学院客殿障壁
画」(国宝、狩野光信筆、桃山時代、金地着色)です。客殿は1600年建立で初期書院
造りの建築として国宝に指定されています。一之間と二之間には桃山絵画の傑作のひ
とつとされるこの障壁画が設えてあるそうです。勧学院客殿の部屋の真ん中に立って
四周を見まわしているような気分で、十数枚の襖に書かれたものとは思えない圧倒的
な緊迫感の空間を感じます。障壁画の向かいに、私好みの仏さま「十一面観音菩薩
像」(重文、平安時代、像高約80㎝、壇像様)がかわいく展示されており、東博の伝
多武峰・十一面観音立像の同系で少し体躯が寸詰まり状態の、極端に下半身を縮めた
愛嬌のある仏さまです。背後からの拝観が出来ないのが残念です。そして「智証大師
坐像」(重文、鎌倉時代、像高約40㎝)、「吉祥天立像」(重文、鎌倉時代、像高約
70㎝)などを観て回りました。気が付いたら午後4時過ぎになっていました。突然に
お腹の虫が悲鳴を上げたのは、今朝から何も食べていなかったからです。のんびりと
一人帰路につきました。





●5月18日(金)石山寺(あお若葉―もみじーの競演)(4/28~5/20):



石山寺「あお若葉の競演」: 
https://www.ishiyamadera.or.jp/guide/event/aomomiji

 

石山寺」:

色鮮やかな色使いで漫画が描かれた車体の2輌編成の「京阪電車」で、終点「石山
駅」の小さなホームに降り、ゆっくりと瀬田川沿いに歩き始めました。なぜゆっくり
か?それは「朝から蒸し暑い」からです。見慣れた沿道の景色を眺めながら、午前9
時に石山寺・東大門に到着。5月20日石山寺屈指の学僧だった朗澄律師(ろうちょ
うりっし)の遺徳をしのぶ「青鬼まつり」が行われるということで、今日は門前の公
園で「青鬼まつり」協賛の市が開かれており、洋服や骨董品などを並べた出店がいく
つも出ていました。東大門から「硅灰石」(けいかいせき)から「天智天皇の石切り
場」、「本堂」、「多宝塔」を巡り、「光堂」(ひかりどう)へ向かいました。



「光堂」:

緑濃い樹林の山道を巡っていくと、小高い山頂間近くの高台の傾斜地に建ち、お堂の
半分が石山寺本堂のように「懸造り」の多くの柱の上に載る構造です。お堂の外縁か
らは周囲の緑濃い景色が四周巡り、せいせいとした環境です。鎌倉時代には存在した
というお堂の再現で、9年前の平成21年(2009年)に建立された新しいお堂で、今回
の公開が「一般拝観初公開」だそうです。堂内は生木の香りがするほどの間新しい素
木の内装です。広々とした外陣と、護摩壇と須弥壇のしつらえられた内陣は跨ぐほど
でもない柵で仕切られています。堂内の格天井に埋め込まれた照明は拝観するには不
足しない明るさです。頭上の内陣仕切りの欄間の梁には「華鬘」、護摩壇上には「天
蓋」が間新しく輝いています。須弥壇は3体の仏さまに合わせた厨子状に仕切られた
形状で、天井から下がる梁兼庇が低く、仏さまの頭上を遮っています。そこが欠点で
す。出口横の壁には、「浄土曼荼羅」が掛かり、縦横1m×2mほどの大きさに編まれ
たカーペット様の極彩色の色調で、遠目にもはっきり分かるものです。拝観客はめっ
たに姿を見せず、見えてもほんの僅かでお堂を退出されて行きます。ノートを取りな
がら暇つぶしに受付の男性職員と話しをしながら、3像を拝して回りました。左右側
面からも拝せるスペースがあり、時間をかけて拝観出来ました。

向かって右手の「如意輪観音菩薩半跏像」(重文)は、本堂の旧お前立像で像高約40
㎝、「澱殿」の寄進により桃山時代の慶長年間(1596年~1615年)に造像されたそう
です。お前立像ということで、本堂本尊の像に似ている二臂の姿で、頭上に大きな宝
冠を刻み、岩座の上で右足を折り曲げ、左足を踏み下げて坐ります。正面から拝する
とバランスの取れた姿で、上半身の脇腹の括れが綺麗に観えました。お前立像は小像
なので外陣からは細緻な文様や瓔珞、踏み下げた左足の文様彩色などがはっきりとし
ません。オペラグラスで観れば十分に綺麗に観ることが出来ますが、肉眼でよく拝し
てみたいものです。仏さまの背後は素木の板壁になっており、壁一面に鮮やかな彩色
の「胎蔵界曼荼羅」が上から掛けられてれています。

私が2年前の本尊御開帳で本尊に拝したことがある話しをすると、男性職員は2年前の
本堂本尊「如意輪観音菩薩半跏像」の「勅封」御開帳の時の様子を話されて、何とか
いう皇族の方もお見えになったそうで、「封印」を解かれるところからお聞きするこ
とが出来ました。そして本堂本尊は、次の御開帳の30年後まで待たずに、2年後にな
ると平成からの「元号改元による本尊御開帳」とのことを話されました。それは「天
皇即位の翌春」ということで、まず間違いのない話しだそうです。

中央の「阿弥陀如来坐像」は、光堂の本尊として安置されています。説明板では鎌倉
時代の作とあり、来迎印を結ぶ姿です。職員に伺っても仏さまの由来ははっきりしま
せん。蓮華台座下の八角台座は立派な装飾の台座で、各層が精緻な装飾が施されてお
り、框部分に一頭の「獅子像」が寝そべっているような這い蹲っているような姿が認
められました。また光背は船形で渦巻き状文様が全面に施されたものですが、上部が
梁の構造上隠れてしまい、目線を床面すれすれにして見上げても確認出来ませんでし
た。私は光背頂上部が大きく前面に湾曲した形状で、かなり時代が降った後補ではな
いかと思いました。仏さまは上半身は堂々とした体躯ですが、心なしか組んだ膝脚部
の造りが力強さに欠けて薄い肉付きのようです。全体の衣文の彫りはあまり深くな
く、流麗な彫りとなっています。頭部は肉付きのある丸顔で、螺髪は細かく髪際は単
調に直線的な表現をしています。

左手には「大日如来坐像」(重文)が安置されている。平安時代中期頃の作という。
現存しない旧多宝塔の本尊と伝わるドッシリとした重量感のある仏さまで、智拳印を
結ぶ金剛界大日如来坐像です。頭部に内刳りは無いが面相部を髻の前面部を含んで
両耳の前を通る線で仮面状に剥いでいる、との説明がありました。それは顔部の表情
が気に入らなかったからなのか?内刳りをした胎内に銅製経筒と三十七尊陀羅尼経1
巻を納めていた一木造りの約1mほどの像です。顔が四角っぽく、細めの眼の下に頬
との間に各々筋が1本ずつ刻まれており、東寺などの密教仏にも感じられない雰囲気
を醸す相貌になっています。仏さまは均整の取れた姿ですが、衣文の彫りなどは阿弥
如来坐像に似た皺襞の表情をしており、落ち着いた感じになっています。胸部や腹
部は肉付きがよく、腰の括れも他の著名な大日如来像に似てスマートで綺麗です。仏
さまの背後の板壁には、彩色鮮やかな「金剛界曼荼羅」がかけられており、右辺の如
意輪観音菩薩半跏像の背後の曼荼羅図とともに両界曼荼羅の二幅になっていました。
仏さまの背後の光背は、大きな白色の単純な円盤状のもので、内側の二重円光背には
単純ながらきれいな文様の造作になっています。両腕の腕釧は何となく別材での制作
かとも思わせるものです。膝脚部の造りは薄く、足組みの様子も体躯からの前張り出
しが小さく、下半身が貧弱に思えました。また、脇下あたりなどに木漆による塑土造
りをしている感じが見られます。天冠台は大きく、髪際部や地髪部は筋目のない単調
な造りで、宝冠があればそれがよかったのでしょうけれど。気になる智拳印を結ぶ両
手首先は、あまりポッチャリでなくスマートといえる表情でした。丸形台座はそれな
りに細工も立派で、各層共に意匠を凝らした造形ですが、大きな欠損箇所も見当たら
ないのでかなり時代が降るものかもしれません。



如意輪観音菩薩半跏像の宝冠と胸部に「転法輪」が付いているか否かで、職員から話
しがあり、私が本尊を模しているのだから、お前立ちとして付いているはずと答え、
阿弥陀如来坐像の台座の框に這い蹲った姿の「獅子像」が、台座を支えているのが僅
かに認められるが確認したい。また、光背は船形光背で渦巻き状の文様までは正面か
らもはっきりと認められ、後補と判断出来るものですが、頂上部に宝塔か宝珠が付い
ているのか、前方に湾曲しているものか、いくら護摩壇近くまでの柵にへばりついて
見上げても確かめられなかったので、確認したい。大日如来坐像では…といくつか疑
問点や確認したいが出来ない旨を、ボソボソと話しました。

そのことを男性職員に何気なく話してみたら、退出間際に職員から「減るものでない
から、柵をどけて仏さまの間近かまで行って確かめてから帰ったら」とのお言葉!。
ラッキー!。さっそく何度もお礼を言いながら、イソイソと柵をどけて護摩壇を通り
須弥壇の前まで進んで、仏さまに触れるほどに近づき、各々の仏さまをじっくりと拝
観させてもらいました。遠くからでよく判らないところなど、気になっていたことな
ど、ジックリと拝観させてもらいました。拝観客がお堂に入って来ないか、職員の方
が見張っていてくれるとの事で、スリルのある気になりながらの拝観となりました。
獅子像については、男性職員も知らなかったそうで、私が外陣に戻って来てから話し
をすると、ご自分も柵を跨いで観に行かれ、納得して戻って来られました。



また職員から、ないしょで「多宝塔」の大日如来坐像(快慶作)が「今日は幕を開け
ているので、初層扉の格子窓の一つの網が張っていない個所から拝むことが出来る」
とのこと。ないしょはないしょということで伺い、帰り際に日本最古級で最美といわ
れる多宝塔に立ち寄り、仏さまにほんのちょっとパシャパシャと帰りのご挨拶をしま
した。暗い堂内で仏さまの大きな白目が目立って印象的でした。多宝塔内陣の着色板
絵の装飾絵と格天井、四天柱などの絢爛な荘厳は内陣が暗く、格子枠に入れたカメラ
が向けられる範囲が狭くて、よく観えませんでした。帰りの新幹線車内でカメラを確
認して、仏さまの姿は「我ながらよく撮れた」と満足しました。心配した天気にも恵
まれ、暑くもなく寒くもなくで、曇りで蒸し暑い感じくらいでした。



2018年5月21日 AM0:30  Tak


以上、Takさんからの近況と題した投稿文でした。