孤思庵の仏像ブログ

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素人趣味の限界、院派と円派の特徴

2012年08月03日15:10
下段の様なメールを後輩仏友から貰い、返事を書きました分を日記にします。

【質問】
3回目の仏像講座に行ってきました。 今日は仏像の写真をテレビ画面に映して説明!
法隆寺聖観音 夢殿の救世観音 元興寺薬師如来etc.

その中で三十三間堂の本尊の千手観音は湛慶の作というのは知ってましたが、その湛慶が院派、円派の人たちもあつめて周りの千手観音を作ったので それぞれのお顔が 違う との説明がありました。
そこで 円派 院派の 特徴を教えてください。

【返事】

質問をといったら、これまたいっぺんに そんな難題な質問を・・・・! 我ら素人の趣味人には、先ずは時代の見極がヤットですよ!。ご質問の円派 院派の 特徴を語る様な一般向けの書籍は あまり見た事がありません。

次回の講義で講師先生に聞いてみてください。もしかしたら先でも系譜や著明仏師名は出ても、特徴のこと迄は良く説明できないかもですよ。

その先生は仏教や思想分野の専門家ですので、美術史的な、しかも細部の質問は厳しいかもです。時代別はともかく、仏師の派毎の特徴は美術史の分野でもかなりの専門的な分野に当たるかと思います。

わたしたち趣味の仏像愛好家のレベルでの領域ではないと思います。美術史の先生か仏像分野の学芸員の知識レベルでしょう。(さらにその上には時代を区切っての研究者が専門域で研究や論文を書いているようです)

ですので的確なストレートな お応えは私には無理ですが、知ってる範囲でお話ししましょう。

定朝は知ってますよね。その系譜・作風を比較的に変えずに受け継ぐのが、院派・円派です。定朝様は和様と言われまして、優しく、優美etc、具体的には 、薄い肉体、浅い彫り、平行して流れる衣文と瞑想的な表情・・・これらは平明優雅で仏の本様と称され、貴族社会に愛されました。そして定朝様式は定番となり、その貴族達の注文の要求に応えるあまり その後の仏師達は,その形をなぞる事に専念して 進歩、変革、脱却が無く、形式化やがて形骸化していったようです。

当時の都、京都で朝廷やその周辺の高級貴族連中には慶派の写実の表現が、あからさまで品が無く感じたのでした。ですから用いられた仏師は定朝様をそのまま踏襲している、院派・円派の仏師たちが主で、院派・円派が京都の政権を中心に活躍しました。一方、奈良仏師の慶派の活動は、東大寺興福寺などの復興事業での作仏でした。そうして、それらの場所に在った天平の仏たちに様式を学ぶところ大でした。そうして写実の様式が磨かれたのだと思います。

本題に戻します、院派・円派の仏師は旧来の同様にでして、慶派のように像に署名をする事が殆んどありませんでした。それですから仏師の個々の極めが難しくなって来るそうです。 それと署名を遺さないという事は、自己主張が無い事とも通じます。つまり伝統的であり、慶派の様に各自が自己の工夫をしない様にみえます。良く言えば伝統的、悪く言えば形式化そして形骸化に進む作風です。署名した遺作が少ないので、標準作が定まりにくく、研究は難しく、誰誰作との極(きわめ)も難しい様です。

院派・円派は当初は中央貴族社会では主流で、仏像造りの職業的、「仏師」としての趣が 強いと解釈してます。一方の、慶派は「芸術家」タイプでして、自分なりの作風の主張する姿勢があったのではと思ったりしてます。ですから慶派の仏師は、像に自著するのではと思ってしまいます。院派・円派の仏師たちは、施主に遠慮してか、自著が少ないようです。(蓮華王院本堂の場合は群像の中での識別の為、院派・円派仏師も自著しました。半分の500体程に作者銘が残るそうです)

慶派では、比較的に個性が目立ち、快慶の安阿弥様は初心者でも区別が付きますし、その他の後代の慶派仏師達も個々自分なりの特徴を持つようです。未だ良くは勉強が進んでないので良くは分からないのですが、端整で四角ぽい顔は快慶、顔の造作が下の方にあるのが善慶とか、顔の造作が中央に集まるのは誰でしたっけ?まそれぞれ特徴がある様です。私達のように間口広くの勉強ではそこまでは難しく、これを論じますのは時代を区切っての専門家の研究者の領域ではないかと思います。

東京藝大大学院の保存学の研究発表で、東博所蔵の善円通じると見られてます。玉唇で有名の菩薩立像を模刻発表しました作者と話しをした時に、「善派の特徴は?」と聞きいた事を思い出しました。模刻の作者は、研究テーマですので、流石ににて、目の位置が低い、唇の巾が狭い、衣文が同じ巾の並行的である。天衣が腕に掛かり一度外を廻ってからまた内側に垂れるなどと明確に答えてくれました。

で、今回のご質問にも同様にお応えしたいのですが、残念ながら未だその様な知識はありません。基本の定朝様の特質とか、また主流に取って代われた代表的の慶派の特質は語れるものの、院派と円派の特質はおいそれと語れ無いのが現状です。何時かはそこまで知識したいものです。

言い訳的の代替えですが、蓮華王院の千手観音、慶派・院派・円派が1躯づつの三躯が東博に寄託されてます。年に1度ほど同館11室の通常展示に陳列されます。その時のキャプションが参考に成るかと思いますが、詳細は記憶にありません。ですが けして解り易くは無かった気がします。3躯の像の大まかな相違印象はかろうじて残っています。

慶派のそれは身体に厚みのあり写実的でして、衣文も写実 だったかと・・・(衣文も違うのは覚えてますが衣文の調子など詳細までの記憶がありません。) 申しました身体の厚みの記憶は明瞭でして、慶派が厚く、院派が意外なほどに薄く、円派が慶派と院派との中間的にあった事は間違いありません。各派の傾向を示すものかと 思いますが・・・仏師の個人的なとも言えるものかもです。その辺も含め、次回の11号室での陳列を期待しましょう。その時には学芸員に質問してみましょう。

1000躯の1割強(120何体でしたね)の平安末の創建期の像も残りますが、大半は鎌倉の中期の復興時造像のものとの二部構成なのです。院派と円派の違いというのですから、後者の鎌倉中期の修復時のお話に成りますが、そうすると院派,、円派の違いもさる事ながら、古式を意識するか否かも問題も起こってくるようです。現に院派の補作の像の内に創建当時風の古式の像と、形式化でありながらも鎌倉風が現われた像の2系統あるそうで、一概、簡単に院派,、円派の作風を一言では言いがたい様です。  

素人の観賞方法として、これだけ数があれば自分に、または思う人に似ている顔を探せると言います。その程度の見方の方が、無難なのではないでしょうか・・・・

ストレートにお応え出来ないので、お茶を濁した感の事を述べてしましたが、終わりに蔵書を調べまわりましたらやっと下段の様な内容を見つけましたのでご案内しておきます。

【平安後期の円派】基本的に定朝様式を踏襲。截金、色彩など美麗の仏を追及の美意識が在ります。
作品例:仁和寺旧北院薬師如来坐像・安楽寿院阿弥陀如来坐像・西大寺四天王堂十一面観音立像・峯定寺千手観音坐像・大倉集古館普賢菩薩騎象像

【平安後期の院派】作風は四角張った頭や体、整理された衣文線と全体硬質的な印象を与えます。この期の蓮弁浮き彫り模様は美しく円派同様に院政期的と在ります。
作品例::法金剛院阿弥陀如来坐像

【鎌倉初期の院派】は院政政権や周辺貴族に重用される。 この期の遺作は無く具体的な作風はたどれない。

【鎌倉初期の円派】後継者の早世などの事情で院派に比して劣勢であった。以後衰退傾向


此処までがヤットでした、興味があれば、図書館で調べると解ると思いますので、一緒に頑張ってみますか?どなたかこの分野にお詳しい方が居られましたら、是非にご教授お願い致します。