【報告】11月4日の「仏像愛好の集in東博」 午前の部(仏像鑑賞会)
11月の「仏像愛好の集in東博」は定例の第一土曜日4日に行われました。
秋の行楽シーズンの三連休の真ん中にも関わらず、ご参集の方々には、有難うございました。
10時に 東京国立博物館 本館 エントランスロビー 11室前に 集合
本館 エントランスロビー ↑ 此処のベンチ
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10:05~12:00迄 【仏像鑑賞】 &ギャラリートーク
総合文化展 (ジャンル別 彫刻室) 11室イメージ
14室(特集 運慶の後継者たち―康円と 善派を中心に)
11室(彫刻室)
★11室 展示作品リスト 14件
http://www.town.miyashiro.lg.jp/0000002608.html← 左クリックで 画像のあるウエブが出ます。(尚、画像の三尊形式の両脇侍は今回展示されてません)
次回は蓮華座を説明します。構成する蓮華,上敷茄子,華盤,下敷茄子,受座,反花,蛤座,上下框座を積み重ねる。その重ねの数によって五重座,七重座,九重座と称される。その重なる 蓮華の花弁の様が上から下へと、時間的変化を示しています。
流れる川が転じて、流れるもの全て(言葉・弁舌や知識、音楽など)の女神となり、弁才天に・・・、また「才」 が「財」の音に通じることから「弁財天」と表記する場合も多いです。
本作品を見ますと弁天の頭部に、人面蛇身のとぐろを巻く肖像が乗ってます。それは宇賀神と云う名の神です。宇迦之御魂神(穀霊神・福徳神)として民間で信仰されていた神ではないかと推測されています。
全国を遍歴して修業した仏教者を行者あるいは遊行僧などと称したが、円空や木喰はこうした遊行僧の典型であり、全国訪れた先に一木造の仏像を刻んで奉納した。
本作品キャプションには、木喰自身像、木喰作とあり、 木喰を名前のように思いがちですが、 木食とは火の入った食物をとらず、木の実や 果実のみを食して、肉類、米穀、野菜を常用しない修行の事でして、この木喰戒で修行する僧を木喰(木食)上人(しょうにん)と言う。ですので木喰と呼ばれた人はあまた居ます。この作者の木喰は22歳の時に相模の古義真言宗に属する大山不動出家したという。「木喰」と名乗るようになるのはそれから20年以上を経た1762(宝暦12年)、すでに45歳になっていた。彼は常陸の真言宗羅漢寺で、師の木喰観海から木食戒を受けた。当初「木喰行道」と称したが、76歳の時に「木喰五行菩薩」、さらに89歳の時に「木喰明満仙人」と改めて、生涯に三度改名した。
http://image.tnm.jp/image/1024/C0046145.jpghttp://image.tnm.jp/image/1024/C0085071.jpg http://image.tnm.jp/image/1024/C0046145.jpghttp://image.tnm.jp/image/1024/C0085071.jpg↖ 左クリックで2 画像が出ます。
毘沙門天 ヴァイシュラヴァナ、( Vaiśravaṇa)は、須弥山 中腹に住す、四天王の一尊で、北方守護の武神であり、四天王では多聞天として表わされる。
毘沙門天の尊名は梵名のヴァイシ、ュラヴァナからの音写で、 漢訳(意訳)の多聞天は 「その名を多く聞く(=有名な)」の意訳です。 四天王の身色に青・赤・白・黒 があるを知ってますか?その色は東方の持国を青(現代名称緑)、南方 増長を赤、西方 広目を白、多聞北方を黒(現代名称青)に塗り分けてます。 四方位神獣にはそれぞれ司る方位、季節、そしてその象徴する色などがある東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武 青春・朱夏・白秋・玄冬と合致します。 ここで知りたいのが この配色はインドでが先か、中国のそれの方が先か知りたいです。(← 御存じの方はお教え願います)
ちなみに東南西北は知れましたが、 その中央は何色でしょう?! 黄(金)です。 中国では黄は皇帝の色としています。 仏教では四天王に囲まれる中央は 仏です。 仏身、仏像、を金人と呼びます、金色の仏像は納得ですし、仏像が在るお堂が金堂ですね!
阿弥陀如来坐像 鎌倉時代 12~13世紀 静岡・願生寺 蔵
http://cotys.client.jp/unkei2_03.jpg ←左クリックで 画像が出ます。
伝来は不明であり、現状は、脚部が分離し、左手首先などが欠失していて像容を損ねているが、堂々とした体躯や張りのある面部の肉付きなどが運慶の作風に近く、鎌倉時代初期、12世紀末から13世紀初頭の運慶周辺仏師の作とみられる優品である。 この時期の東国における慶派仏師の活動をうかがわせる遺品として意義が深い。
重文 獅子・狛犬 1対 平安時代 12世紀 広島・吉備津神社 蔵
神殿前の獅子・狛犬の1対は・・・、雌雄の1対では無しに、獅子と狛犬の1対なのです。一般的には、向かって右側に角がなく阿形(口を開いた)のが獅子で、左側には一本の角があり吽形(口を閉じた)の狛犬がいるようです。
この作品には、目印の角が無いので迷いましたが、向かって右の(阿形)方が獅子で、向かって左の(吽形)が狛犬でした。、獅子には金箔押し、狛犬には銀箔金箔押しの 痕跡が残っているそうです。双方の股座を観察しますに・・・、判然とはしないですが、獅子が雄で、狛犬は雌の様でした。
重文 不動明王立像 平安時代・11世紀 東博蔵 C-1525
不動明王 、梵名アチャラ・ナータ(अचलनाथ [acalanātha])は、密教特有の尊格である明王の中心的の一尊。恐ろしい形相は、(悪業が深く、なかなか仏の教えに耳を向けようとしない) 強剛難化の衆生を強引に教えに導く役割を負っているためでして、大日如来の教令輪身たる化身とも、あるいはその内証(内心の決意)を表現したもので あると見なされている。不動明王、又その身体は基本的に醜い青黒い色で表現される。これはどぶ泥の色ともいわれ、煩悩の泥の中において衆生を済度せんことを表しているといわれる。その躯体は肥満であります。此れは 行者の残飯を食らっているからでして・・・、この残飯とは、煩悩の比喩です。不動明王の髪形 服装は、シュードラがモデルと聞きました。
頭頂には七髷か八葉蓮華(頂蓮)、その目は眇(すがめ)で、天地眼と云う、口元は右の牙を上方、左の牙を下方に向けて出す(利牙上下出相)、衣は赤土色、右手に煩悩を断ち切る剣(倶利伽羅剣)を持ち、左手には 強引に引き込むために羂索と云う鳥獣をとらえる縄を持っていいます。
不動像の型式には「大師様」と「十九観想型」 の型式が在り、当初の比較的優し気な造形を空海(弘法大師)の創意に基づくという意味で「(弘法)大師様(よう)」と呼び、後に10世紀 、天台僧・安然らが不動明王を観想するために唱えた「不動十九観」に基づくものが出て、これを玄朝様、「不動十九相観」による姿 とします。 当初は東密系が「大師様」、台密が「不動十九観』型 (玄朝様)と区別が在りましたが、後は互いに干渉しあい、混然と成ってきました。
重文 男神像 平安時代・11世紀 京都・大将軍八神社蔵
仏教隆盛以前は、神の像は無かったです。 鏡。剣・勾玉・石などが御神体でした。仏像に倣って 神像が作られる様になりました。 制作の担い手は仏師でした。 仏像に比べ神像は 精緻で無いです。 特に下半身 脚部は大さっぱです。如何なる理由なのでしょうか? 御存じの方は御教授ください。
重文 阿弥陀如来坐像 平安時代・久安3年(1147)
京都府船井郡京丹波町・長楽寺伝来 文化庁蔵
像内に約860年前の久安3年(1147)に書かれた銘があり、平安時代後期特有のおだやかな作風をいまに伝えてくれます。この作品を見ながら、手首の欠失の訳や、衣皺による平安仏像と鎌倉期仏像の見分け方をトークしました。
また、根津美術館の地蔵菩薩像の像内にある久安3年(1147年)の銘に記される人名のうちに、この木造阿弥陀如来坐像(半丈六、重文)にある同年銘の人物と共通する者がいるので、この2躰で三尊の本尊と脇侍(一方)を構成していた可能性がある。また銘文の姓氏名から本像の旧所在地が丹波国多紀郡あるいはその周辺だったことが推測できる。平安時代後期における地方の造像の実体のよく分かる貴重な作例だそうです。
二天王立像 平安時代・久安3年(1147)
京都府船井郡京丹波町・長楽寺伝来 文化庁蔵
この前の展示作品(重文 阿弥陀如来坐像)と 同所 同年の 墨書銘から、 作者も近いと理解がゆきます。作風も その様にあると キャプションに在りますが、 如来像と武装天部像との異なる造形での比較は 判りずらくありましたが、キャプションの指摘を読んでからはその様に見えてきました。
台座ごと作る傾向の一木造り、この作品も足下の邪鬼も同じ木材から掘り出しています。
作品名には二天王立像と・・・、資料不足で、何尊かが判らないのです。 四天王の、 その尊名から姿勢・持物が判るのは、宝塔と戟を持つ 多聞天(毘沙門天) だけです。
他の四天王はその尊名から姿勢・持物は判りません。 広目天は 筆と巻子を持つとのご意見が出ましたが・・・、確かに 筆と巻子を持って居れば広目天とみてよいでしょうが、それを持たない広目天も多く在るので、筆と巻子は広目天の十分条件ですが、必要条件では在りません。 その様な訳で宝塔と戟・筆と巻子を持って居ないので何尊かは言えないのです。 言えることは 多聞天で無いとだけで、広目天でないとの否定もできないのです。
重文 千手観音菩薩立像(493号) 院承作
鎌倉時代・建長3~正元元年(1251~59)
京都・妙法院(蓮華王院本堂安置)蔵
院承作 湛慶作 隆円作
三十三間堂の千手観音菩薩立像 は統一のため 大きさ形をそろえて居ますが、其々の流派の特徴が出て居ます。院承作 (493号) は、定朝様を厳格に守ってます。
定朝様の系譜作風を最も変えずに受け継ぐのが、院派です。 定朝様は和様と言われまして、優しく、優美etc、具体的には、薄い肉体、浅い彫り、平行して流れる衣文と瞑想的な表情これらは平明優雅で仏の本様と称され、貴族社会に愛されました。それにたがわず、院承作像は 躯体も薄く、 身体つきも 下への直線的で 変化のない像です。 重文 千手観音菩薩立像(504号) 隆円作
鎌倉時代・建長3~文永3年(1251~66)
京都・妙法院(蓮華王院本堂安置)蔵
院派と並んで、定朝様の系譜作風をあまり変えずに受け継ぐのが、円派と思います。院派に比べ円派の方が幾分 写実的に思えます。像の厚みも院派と慶派の中間ぐらいです。 また裙の裾の広がりも中間ぐらいです。簡単に言えば、 院派と慶派の中間ぐらいの線のように思えます。この隆円作の像も、院承
と湛慶の中間的 造形が見られます。
重文 千手観音菩薩立像(40号) 湛慶作
鎌倉時代・建長3~8年(1251~56)
京都・妙法院(蓮華王院本堂安置)蔵
慶派は 奈良東大寺・興福寺などの復興の造仏と関東武士団からの仕事がが中心でした。 京都の貴族社会には、あまり受けなかったようです。そんな環境で、慶派は、奈良時代の傾向と武士好みのニーズで写実的が進んでいったのではと思います。瞑想的な表情これらは平明優雅よりは写実の像の様です。
湛慶作品は 其の他とは相違の、肉体に厚みが在り、正面観にも変化が見られます。
11:45 14室(特集 運慶の後継者たち―康円と 善派を中心に) を鑑賞しました。
愛染明王は梵名でラーガラージャという。縁結びの秘佛でもある。 ラーガは性的な意味 をも持つ愛欲、ラージャは王を意味する。愛欲に染まった王の意味で、最も盛んな情欲を肯定との使い道を目指した尊と思います!国家鎮護の密教とは相違の貴族の個人的願望の修法の尊です。図像も特有の宝瓶に生かる紅蓮華台座、の愛染明王の図像学的特徴を数例トークし、又 個人的願望の成就を目的の密教修法の 愛染法成るをトークしました。
の前では、 四天王に家来が居ること 其服装に身分の差を見ました。四天王の袖口は広く、その従者達の袖は筒袖で、袖口の広さが ステイタスを表現しているをトークしました。
春日地獄・春日地蔵 の話をしました。春日地蔵の特徴は御復調の合わせの襟の内衣を着て居ます。雲座に乗って居ます。
唇に水晶を嵌めた菩薩像です。鎌倉時代から盛んに行なわれるようになった写実技法に、玉眼が在りますが、これを唇や爪、歯(歯吹阿弥陀)などに応用するようになるのは、運慶の息子世代あたりからのようです。天平の写実はプロポーション・鎌倉の写実はパーツの写実の持論を披露しました。
「文殊」は、梵Mañjuśrīの音写「文殊師利」の略。妙吉祥・妙徳と意訳す》智慧を象徴する菩薩。と文殊菩薩の入口の話だけで・・・、「渡海文殊」の話には入れませんでした。 3室の 仏教の美術―平安~室町 に珍しい 反故紙(ほごし)の仏像
近世の一閑張 :竹や木で組んだ骨組みに和紙を何度も張り重ねて形を作る。また、木や粘土の型に和紙を張り重ねた後に剥がして形をとる方法もある。形が完成したら柿渋や漆を塗って、色をつけたり防水加工や補強にする。張り子と作り方が似ている。
その原型 の「 張貫製 仏像 」 張貫(はりぬき) 木彫りの人形などの原型のまわりに,紙を幾重にものりではり,のちにこれをきり割って 原型をとり出してはり合わせ,もとの形に復して描彩を施したもの。
その製法で 造仏 当初の紙製の像底と足は 剥離して 近くの展示ケースに 別展示、 像の像底と足は 木製で後補されています。
12:45 【第2集合】 博物館正門前(構外)に集合 TEX分乗にて 移動しました。 http://www.ina-shinkenchiku.com/works/photo/bu-0011-01.jpg 午後の勉強会場 台東区生涯教育センター 3F 304会議室 【 午後の勉強会の報告は 別途ブログに 掲載します】
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