孤思庵の仏像ブログ

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今秋後半の巡拝旅行報告 第1弾(その1) by Takさん

「仏像愛好の集」のTakさんより、 長文の巡拝旅行報告が投稿されました。



                今秋後半の巡拝旅行報告  第1弾(その1)

今秋前半の拝観旅行は、心配された天候にも比較的恵まれ、比叡山延暦寺・西塔・釈迦堂内陣・本尊公開を中心に、西塔、東塔、横川地域の寺域堂塔を巡り、予想外に非公開の堂内の拝観や、寺僧による数か所の非公開箇所の案内応対などがあり、また行く先々での思いがけない方々とのふれあいがあり、収穫の多い旅行となりました。また、興福寺・南円堂本尊公開は本尊のみの寂しい拝観となりましたが、寺僧との歓談に花が咲きました。和歌山県立博物館では「道成寺日高川道成寺縁起と流域の宗教文化」展を訪ね、思いがけず「観仏三昧」の「大河内智之学芸員」にお会いすることも出来ました。道成寺では寺僧に本殿「秘仏・北向千手観音立像」の内陣部分を案内していただいたりと、篤く対応して頂き、思いがけない計らいに感激しました。
これらのことは、前回ごく簡単に箇条書きでご報告をした件です。詳細の状況報告は割愛したものです。
 
 
後半の拝観旅行は、10月下旬に始まりました。
1025日(水) 東博「運慶展」へ出かけました。
自宅の庭の手入れなどで、いつも世話になっているお隣のAさんからの声掛けにより、東博へご案内しました。あいにくの愚図ついた天気のなかで、昼前の東博到着でしたが、平成館前で30分待ちの行列に並ぶことになりました。最初の「円成寺大日如来坐像」のところから、渋滞して動かず、Aさんも足腰の調子が優れずリハビリに通っている、といいながらも、熱心に拝観され、最初から時間のかかる展覧会のスタートとなりました。今日は特別に混んでいるのでしょうか?その後でAさんと二人で話しをしているところへ、後から声が掛かり、大阪から来られたという同年配のご婦人Bさんが、話しを一緒に聞かせて欲しい、とのことでした。その方も住まいの近所に「八葉蓮華寺」などがあり、寺院や仏さまに関心が高い、とのことでした。気後れなく声をかけてくるところは、さすが大阪の女性‼ 結局最初から最後まで二人を相手に、混雑した会場内を時間をかけて巡りました。会場内の数少ないソファは、何処もお客さんで一杯で、AさんとBさんに腰掛けて休んでもらうにも難しい状況でした。時間が気になり、先を急ごうとしても、二人ともなかなか展示作例から離れず、特に金剛峯寺八大童子像や、浄瑠璃寺・四天王像、北円堂・無著世親像などには熱心にいろいろ細かいところまで観ていて、私に質問される始末で、私は時間ばかり気にしていました。もっと簡単に観て廻れると思っていたのに、混雑に輪をかけて、二人の熱心なゆっくりとした鑑賞にビックリしました。それでも展示の最後まで巡って、二人は満足されたそうです。結局、閉館時間のアナウンスが流れるまで二人の観賞は続きました。Bさんは都内の娘さん宅に泊るということで、上野駅で別れました。
 
1026日(木): 会津方面巡拝旅行に出発です。
天気予報では台風も近づくということでしたが、一人予定通り出発です。自宅最寄駅から始発電車で東京駅に向かい、640発の東北新幹線郡山駅まで、磐越西線乗換で「磐梯町」駅下車。到着時間は930分。途中猪苗代駅を出た直後から、「朝霧」というより「雲海」で、一面真っ白状態になり、雲の中にいる様な雰囲気で、車窓からは景色は見えず仕舞いでした。盆地特有の朝の気象状況で、霧のなか下車した乗客は私一人という寂しさ。紅葉した色調のなか何もない駅前の近くに、東京芸大の「慧日寺薬師像駅前工房」があるのですが、帰りに寄ることにして、「慧日寺」(えにちじ)に向かいました。思いがけず途中には町役場や大きな中学校などがあり、分かり易い道順で、途中近道をして約15分歩きました。
 
「慧日寺史跡」(えにちじしせき):
何もない駅前を案内看板にしたがってスタートしたが、途中で案内看板の地図から、近道があると思い中学校経由で狭い道を行くと、思いがけず早く着くことが出来ました。国道からは幾分の上り坂が続き、正面に慧日寺史跡、手前左に慧日寺本堂があり、その先に「磐梯山慧日寺資料館」が広々とした小高い丘陵地に建っていました。10時前に慧日寺に到着。慧日寺史跡は、国の史跡に指定されて以来、発掘調査と並行して地域を整備しています。会津磐梯山は、古来神々が宿る神聖な山として、崇められてきました。平安時代の初期に南都学僧の徳一が理想の仏法を追い求め、ここにやって来て、磐梯山を望む地で寺を開創し、教学の研鑽、衆生の教化に尽くしたそうです。古くからの戦乱や火災にあい、また明治初年の廃仏毀釈により、堂宇や寺宝が殆んど消失・散逸してしまったことから、近年の礎石などの発掘調査をもとに、金堂、中門などを復元、寺宝である本尊・薬師如来坐像の復元に着手したものです。慧日寺の復元金堂の中には、薬師三尊の(推定される)大きさの写真パネルが須弥壇の上に並び、お堂の扉が全開で、明るい堂内が隅から隅まで見渡せました。中央の薬師三尊像のスペースが大きく、堂内は本当に三尊像の為だけのお堂です。裏手には、講堂、食堂の、実際の発掘調査をした石組みや礎石などが整理されて保存されており、歩いて大きさを知ることが出来ました。奈良などでの寺院跡地などと比べても遜色ない大きさで、往時はどのような景観だったろうか、と考えさせられました。「徳一廟」は、平安時代の石塔で、寺域の最奥で地元の墓所の中にあり、以前は三重塔と思われていたものが、調査したところ五重の石塔だったことが分かったそうです。石塔を覆う堂は、宝珠を載せた四方3間のもので、扉の窓から中の石塔を拝しました。また、近くの慧日寺山門は「平将門」の寄進されたもので、江戸時代中期再建のものだそうです。その奥の旧本堂は、正面の破風屋根の形状が、観たこともないような珍しいもので、どういう由来か伺おうとしましたが、あいにくお会い出来る方が見つからず、そのままになってしまいました。
 
磐梯山慧日寺資料館」
慧日寺の帰りに、資料館を訪ねました。昨年も開催していた企画展「磐梯とくいつ藝術祭・模刻・模写で学ぶ仏教芸術Ⅲ・如来をとりまくほとけたち」が1130日まで開催されています。昨年は開催のことを知っていて、資料館にパンフの郵送を頼みながらも訪ねられなかったので、今回の訪問となったわけです。東京芸大・薮内教室と磐梯町が中心となり、10点くらいの模刻像、縮尺模刻、模写画像などが、あまり広くない展示会場に並んでいます。「室生寺十二神将・未神像」、「願成就院毘沙門天立像」、「雪蹊寺・膳膩師童子立像」、「かんなみ勢至菩薩立像」、「摩訶耶寺・千手観音菩薩立像」、「慧日寺・薬師如来坐像」、「永保寺・千手観音像」模写などです。館内の男性職員に、埋蔵出土品や仏教法具などの展示について説明を受けました。慧日寺の歴史や発掘調査についての、映写室がありましたが、時間が気になって遠慮しました。資料館では、男性職員にいろいろとお話しを伺い、磐梯町で編集・刊行している「徳一菩薩と慧日寺」という二冊の箱入りのハード装丁の書籍を紹介して下さいました。東洋大学田村晃祐名誉教授が中心となって編集されたもので、慧日寺の歴史や建築、発掘調査説明、徳一上人の生涯と宗教活動、空海最澄との宗教論争のあらまし、東北地方における宗派活動などが、大きめの文字で、比較的分かり易い内容でした。また、「日光・月光菩薩面」は鎌倉時代に造られた舞楽面で、神事奉納用の寺宝だそうで、興福寺などで拝する能面と似通った綺麗な造りの舞楽面でした。「鉄仏餉鉢」(てつぶつしょうばち)は、大きな鉄製の鉢だが、鉢の周囲の文字だか絵なのか不思議な文様が面白いものでした。何に使ったのでしょうか?
特に、徳一上人については、なんといっても磐梯町の歴史に残る人物ということで、多くの場所でその名を眼にします。職員が説明してくれた「三一権実論争」(さんいつごんじつろんそう)は、天台宗法華経に説く「声聞、縁覚、菩提」の三乗は、衆生を導くための方便とみなし、特に最澄がその著書「守護國界章」を通じて一乗に帰すべきものといい、三乗は仮の教えだと考えた。これに対し法相宗は三乗の差別を説き、法華経が一乗を説いたのは宗教的な素質を持たない衆生を導くための手段に過ぎないと主張した。徳一上人の論法は、正統法相学説であって、理論家だったのです。また「自然智宗」(じねんちしゅう)といって、後天的な学習による「学知」とは異なり、生まれながらの知「生知」を得ることで、目標の山岳修業を達成することを考えていたそうです。徳一上人は、「善師なく、独り東隅に居す」とされた会津の地に暮らし、幾つかの著作により、天台側に反駁する一方、法相宗の布教に努めたのでしょう。その中で、「空海」との交流を示す書状も遺されています。徳一上人は、会津に慧日寺、筑波山に中禅寺、を開くなど40ヶ寺もの寺院建立の伝えがあるそうです。
 
館内見学後に、「戒壇跡」、「龍ヶ沢湧水地」について教えて頂き、ちょっと寄ってこようと出かけました。徒歩5分の「戒壇跡」は小高い丘の上の平地に芝の地に石碑が立つもので、観るべきものはありませんでした。徒歩30分の「龍ヶ沢湧水地」はひとしきり山道を登り、「熊・出没注意!」の看板がいくつも眼につく山道で、やっとのことでたどり着いたところに、小さな沢の流れの中で、幾つもの苔むした石組みの中に湧水地が見つかりました。磐梯山麓の湧水群のひとつで、「日本名水百選」にも指定されている水どころだそうです。資料館の庭にも引水されているそうです。大きなポリタンクに水を満たして帰ろうとする家族連れがいて、重いタンクを幾つも大変だな、と他人事ながら心配していたら、資料館からは山道がきついのですが、裏手にはほんの僅か歩けば林道に出られる、ということでした。回れ右をして、赤トンボがたくさん飛び廻る、もと来た山道を一気にくだり、駅へ向かいました。
 
東京芸大慧日寺薬師像駅前工房」
磐梯町駅」の小さな駅舎を通り過ぎ、ほんの僅かで、磐梯町から提供されたという工場の作業場、といった感じのひなびた建物に、工房がありました。平成27年(2017年)から磐梯町からの依頼で、東京芸大の薮内教室が「慧日寺金堂・本尊・薬師如来坐像」を請け負い、模刻というか復元制作に取り組んでいます。坐像は、検討の結果、周丈六坐像(像高約1.9m)であったと推定される像だそうです。入り口を入ると、木材の新しい匂いに満ちた、すっきりとした空気が感じられました。工房用に建物の内装を刷新し、天井には頑丈なクレーンが付いており、土間の奥に2部屋が作業場になっていました。手前には完成間近かの薬師如来像の体幹部や手首、螺髪、光背、台座(宣字座)などが所狭しと置かれており、そのすぐ奥で、大きな作業台の上に置かれた、如来像の頭部の彫りを、職人の方が手拭いでほっかむりをして、熱心に作業をされていました。傍らには非常に多くのノミを並べて、彫りごとにノミを持ち換えて、細かい彫りの作業をされていました。奥の部屋は土間からはよく見えませんが、像の膝部の剥ぎ部分を製作中とのことでした。作業をしている様子と音は聞こえますが、職人さんの姿ははっきりと拝見出来ませんでした。お話しでは、芸大の学生や助手など関係者が、23日前に作業交代で東京へ帰った後で、引き継いでこれから2週間工房で作業をする、ということでした。数日中に「薮内教授」もみえる、ということでした。私から芸大の知っている学生やOBの数人の名前を出したところ、殆んどの方が、応援でこの工房に交代で詰めて作業を手伝っているそうです。職人の方も彼らのことをよくご存知でした。近くに町が用意した宿舎に学生と交代で、泊まり込みの作業だそうです。当初は上野のキャンパス内で粗削りまで進めて、現地の工房に持ち込んでの作業だそうで、そろそろ彫りは完成し、後工程にかかるそうです。来年(平成307月)には完成のお披露目を予定しているそうです。他に人が来ないのを良いことに、職人さんとしばらくお話しをして、作業のお邪魔になったかもしれません。日が傾き、山並みの境界線や薄雲がうっすらと紅色に染まり、肌寒くなった頃、駅へ向かいました。
磐梯町駅では、地元の中学校(お寺の往き帰りに通った学校)の男女生徒が駅舎やホームを清掃していました。といっても見ているとかなりいい加減。でも遊び半分でもその気持ちに拍手。水浸しの階段や通路を通りホームへ上がりました。周囲ははるか遠くの山並みまでスッカリ紅葉して、癒される夕景色でした。会津若松駅に着いたのは午後5時を大幅に過ぎていました。
 
 
1027日(金)只見線初乗車です。
会津若松駅から「只見線」で出発です。時刻表を見ると、朝夕は毎時1本の便がある程度で、昼間は1本も無しという時間帯もある有様。昨日のように早朝の朝霧が低く垂れこめ、電車の行く先は、しばらく真っ白です。それでも短時間で霧の世界から抜け出しました。心地よい天気になりました。
 
「圓蔵寺」(えんぞうじ)
圓蔵寺のある最寄り駅である「会津柳津駅」(あいずやないずえき)へは、会津若松駅から1時間くらいかかります。朝7時台の列車は通学の生徒で一杯です。社内の様子を観察していると、昔は参考書などに眼を通す生徒が多かったと記憶していたが、現在は、会津地方でも生徒はほぼ全員がスマホで、しかもゲーム。またイヤホンで音楽を聴いている者もいて、お互いの歓談などはほとんど無し。乗車45分である駅に到着すると、全員が下車し、駅前の先にみえている中学校、高校に向かう姿が観られました。そこからしばし、会津柳津駅無人駅で、ホームに降り立ったのは、またしても私一人。ここら辺の行動は、殆んど自家用車だということは納得できたが、観光客も、交通手段は観光バスや自家用車が殆んどだということを実感して、なんだかガッカリしてしまいました。小さな駅の隣には、雨風を凌ぐ屋根を掛けただけの、C-11蒸気機関車1両静態展示保存されており、しばらくは周囲を巡って写真を撮ったり、触ってみたり、蜘蛛の巣だらけの運転室に乗り込んだりして(乗って良いのか誰もいないので確かめられず)、久しぶりのSLで遊びました。駅前からはダラダラと坂を下り、いちおう家並のある自動車道を10分くらいで、「圓蔵寺」の裏手口に着き、そこから境内へ入りました。午前9時の開門間近かで、足を延ばせばしばらくで、「只見川」に面した正面参道になるのですが、裏手口のほうがひと気が無いので、気ままだという感じです。案の定境内に入ると、バスガイドが小さな旗を片手に、大勢の観光客を案内している光景に出逢いました。お陰で団体客の群れに入らないように、なるべく別ルートを歩いたり、お堂への拝観も時間をずらしたりして、境内を巡りました。仏都・会津を代表する名刹として、日本三虚空蔵尊に数えられると共に、奥会津最大の仏教拠点だそうです。大同2年(807年)徳一上人によって開創されといわれ、空海にいわれの霊木が只見川を遡ってきて、この地に至ったという伝説があるそうです。本堂である「菊光堂」や山門は、只見川の流れが屈曲した場所で、川岸からそそり立つ岩盤の上に建つもので、川岸に降りて見上げると、只見川を見下ろすお堂の舞台(奈良・長谷寺、京都・清水寺などと同じような)にいる観光客の姿まで眺められ、圧巻の景色です。私の好きな会津藩松平家は、保科正之以来明治維新に至るまで、山林庄田寺領に寄進し歴代にわたって寺には配慮されていた、ということでした。観光客の来ないお堂の裏手の「庫裡」から「奥の院」(重文)に向かう高台の道には、多くの紅葉の樹々が鮮やかな景色を醸しています。奥の院弁天堂に向かう途中、沢を渡る苔むした石垣に掛かる、古びた小さな赤い「弁天橋」を渡ったところで、JR只見線の線路に出る踏み分け道を辿り、人のいないことを幸いに線路を渡って、線路の上に掛かる、静寂の中での紅葉のトンネルを楽しみ、傍らの名の解らない石碑を巡ってから、奥之院弁天堂に向かいました。奥の院弁天堂は、室町時代中期につくられたといわれる三間堂で本尊・弁財天像、内陣に仏画を多く掛ける(非公開)という藁葺宝珠型屋根の小さなお堂です。とにかく、お寺の境内に入ってからずっと、赤とんぼの群がっているのがすごく癒される雰囲気です。煙突から白い蒸気を噴き出している、山門前の「あわまんじゅう」の店で、柳津名物という「あわまんじゅう」を数個買って立ち食いをしながら、午後1時に無人会津柳津駅に向かいました。あわまんじゅうは、その昔に災害が多くて疲弊していた地元の農民が、災害に「あわ」ないようにと願いを込めて、お寺の虚空蔵菩薩に奉納したものだそうです。駅で列車を待っていた若い女性二人組は、近くの「斎藤清美術館」に行って来たと話してくれました。送迎バスが利用出来る美術館だそうです。斎藤清という人物は会津坂下町(あいずばんげまち)出身の画家で、安井曽太郎画伯の木版画に触発されたということで、独学で絵画を学び、戦後初のサンパウロビエンナーレ展に受賞し、海外での活動が多いという経歴を持ち、文化功労者に顕彰され、20年前に90歳で亡くなった画家だそうです。
 
 
「金塔山恵隆寺・立木観音堂
会津柳井駅から乗った列車内で、車掌に次の拝観場所のお寺に行くのに、「塔寺駅」(とうてらえき)下車か「会津坂下駅」(あいずばんげえき)下車か、どちらが良いかを聞いてみた。塔寺下車では寺までの距離は短いが、無人駅で道案内が無い。会津坂下駅下車では大きな駅で駅前は商店が多く、バス路線もあり、分かり易いのは会津坂下駅だという。私が車掌とこのような話しをしていたら、近くにいたおばさんから、「これから自分もお寺の近くに行くので、案内する」と申し出がありました。渡りに船で、案内をお願いしました。会津坂下駅からタクシー利用でお寺の前で降ろして下さいました。顔馴染みの運転手さんだそうで、地方は高齢者に手厚いサービスがあるようです。一応タクシー代を支払い、お礼を云って別れましたが、大変助かり、おばさん様々でした。
下車したところに、会津坂下駅行のバス停があり、帰りの時間を確認してから、目指すお寺に向かいました。午後2時にはお寺に着くことが出来ました。狭く短い参道を行くと、すぐに仁王門です。門内の仁王像は、慶長18年(1613年)に地震によって崩壊された後、再建されたものです。約3メートルの阿吽の仁王像が、運慶作と伝えられているものです。忿怒形の像の顔は、何処となく似てなくもありませんが、体躯は立派な像ですが、子供が造ったような稚拙さがあり、あまりお勧めではありません。仁王門右手に「春日八郎・別れの一本杉記念歌碑」がありました。伺ったお寺は正式名称を「金塔山恵隆寺・立木観音堂」(きんとうさん・えりゅうじ・たちきかんのんどう)といいます。お寺のパンフには、寺伝として、舒明6年(634年)僧恵隆が、ここにあったある庵を恵隆寺として開山するが、東北蝦夷の戦乱で荒廃、その後150年後に空海坂上田村麻呂らが再興する。大同3年(808年)伽藍建立し、本尊・千手観音菩薩立像開眼。江戸時代の慶長16年(1611年)に会津一円大地震に襲われ、観音堂崩壊。宝暦10年(1760年)観音堂再建される。以来何回かの観音堂改修を経て、明治から大正期に堂及び像が旧国宝指定される。戦後の新法でともに重文指定となった、とあります。
 
立木観音堂(重文)
さて、実際の観音堂は、幅5間の寄棟造りの茅葺屋根で、間口の割に屋根の大きさや高さが目立つ造りです。また、正面上がり框の上に掛かる軒庇・向拝(こうはい)の独特の茅の形状が面白く、また屋根最上部の茅葺棟飾(ぐし)というものが、会津地方特有の形状をした建築になっているそうです。長いこと見上げてしまいました。雄大な和様の寺院建築ということで、鎌倉時代建築の特色を具えた貴重な建造物ということで、重文の指定がされているそうです。低い石を廻しただけの簡素な地盤上に建てられた廻縁を巡らしたもので、調査によると建築学上も稀にみる古建築であるとの評価があるという。仏さまの建立の事情により、仏さまが完成してから、仏さまを覆うようにお堂を建設したという、一般的な建設とは異なった方法が採られているそうです。そうでしょうね、納得。お堂の茅葺屋根の高さとは逆で、堂内は仏さまの像高に比して天井が低く、仏さまの数に比して須弥壇が狭く窮屈に祀られている。また、本尊の祀り方もあまりにも大きいので、厨子の中に祀って扉を付けることが出来ず、扉の代わりに斗帳(とちょう)という大きな垂れ幕を天井から掛けている。とにかく狭い堂内で、半分は須弥壇上の仏さまが占有しているので、仏事は斗帳の前で行ない、参拝は斗帳の内側に入って参拝することになるという。あくまでも生木の本尊を中心にしたお堂であることが強調されていました。狭い堂内には「だきつき柱」なるものも、信者の心願を込める際にだきつくという、本尊におすがりする代わりの柱もありました。
 
本尊・立木千手観世音菩薩立像(重文):
堂内に入ると狭い外陣・内陣で、正面須弥壇が左右に5段の台になっており、中央部分だけが基壇の高さで本尊が安置されている。本尊は十一面観音立像で、寺の縁起によると大同3年(808年)建立され、幾度かの改修が施されてきたようです。平成21年(2009年)に文科省の調査官や仏像修復師による調査が計画されたものの、「東日本大震災」の影響で実施予算確保が出来ずに終わり、平成24年(2012年)になって像全体の金箔の剥落止めや持物の修理接着を行ない、同時に像の構造などの調査もされたそうです。基本的には、像正面の材質は髻から足枘まで、ケヤキ材の一木造り、頭上の仏面や像背面、両脇手、台座は別材で造られていることが解ったそうです。お寺の方からは、返り花下のケヤキの根っこという部分を見せてくれましたが、私には根っこのようには見えずに、消化不良で終わりました。左右の5段の台には「二十八部衆立像」が並び、左右天井隅には、柱と壁を使い、板を渡した上に「風神・雷神像」が安置されています。千手観音が本尊の場合は、普通は眷属として「二十八部衆」とともに「風神・雷神」が祀られるということで、案内の方はしきりに天井隅の風神・雷神像について話されていましたが、とにかく暗い堂内で、天井隅の像は、眼を凝らしても、オペラグラスで観ても、殆んど拝せない状態でした。堂内の諸像の姿を隠すように、天井から床までの間を大きな垂れ幕(斗帳・とちょう)が下がっています。案内の方からお話しを伺うと、この斗帳は応永14年(1407年)に「斗帳供養」をおこなって斗帳を掛けたという記録があり、この時以来33年ごとに斗帳を掛け代えるという風習が出来たそうです。堂内は他には何も宗教上の装飾が無い簡素なものです。本尊は、もともとはこの場に生えていたケヤキの大木を掘り起こさず、枝を払い落しただけで、根つきのまま身丈二丈八尺(8.5m)の立像を刻んだという仏さまだそうです。本尊は、お堂の外から拝するのが丁度よいのかもしれません。とにかく足元から見上げる環境での拝観となり、確かに本尊の左右足先や蓮華台座は、多くの人達に撫でられた後の、光ったつややかな跡が広くありました。それだけ足元まで近づけられるのです。本尊は感じとして、かなり均整の取れた姿で、スリムな体躯と下半身の腰回りの細さが印象的でした。像の横方向からの鑑賞が出来ないため、像の体躯のふくよかさは知れませんが、正面から拝した感じだけでも、あまりボリューム感のある豊かな体躯ではないようです。合掌手、宝珠手と40本の脇手の感じも、堂内の狭さに合ったように、遠慮がちに広げられているようで、像の大きさの割に幅狭い感じで、窮屈そうな姿に観えるのは気のせいでしょうか?それでも両肩にかかる条帛や天衣は、衣の薄さを感じさせるほどに綺麗に仕上げられ、彫りもシャープな折り目が眼につきました。裙も腰帯下の折り返しから3段に垂下し、左右に綺麗な衣文線を表現しており、襞の簡素な表現と相まって、すっきりとした下半身の表現になっています。肩から垂下する天衣も一旦左右合掌手と宝珠手の両腕に巻き付き、合掌手肘部から外側に腰細の下半身に沿って足元に垂下するもので、左右対称の流れは綺麗で見飽きないものでした。
 
「眷属・二十八部衆立像、風神・雷神立像」
案内の方の話しでは、観音堂内の本尊左右の二十八部衆像群は、身丈六尺七寸(約2m)で、本尊を彫刻した際に切り落とした枝材や彫りの残材で刻まれた像群であるという。また「千手観音造次第法儀軌」による教えにしたがい、寸分違わぬ構成で残っており、全国でも28躯を拝した寺院は数少ない、とのこと。江戸時代ごろに修復がされたようで、一見して綺麗な甲冑具の文様や極彩色がかなり残る像もあり、像態も動きのある力強く、またリズミカルな姿に造られており、見飽きない像群です。阿修羅像(忿怒形、身赤色、合掌手、日輪・月輪奉)や迦楼羅像(酉面、翼を広げる)が上段に安置されており、面白く拝観しました。風神・雷神像も、かなり高い位置に安置されており、細かいことは解らないが、オペラグラス観察では、それなりの躍動感のある姿に、彩色の綺麗な像に感じられた。像の大きさを伺ったところ、他像と同様身丈六尺七寸(約2m)ということでした。
 
 
「上宇内観音堂」(かみうないかんのんどう)
立木観音堂・仁王門左手の細い道を進むとしばらくで上宇内観音堂に着く。何か工事をしており、境内には立ち入り禁止の札があり、残念ながら拝観出来ず。数日の違いが拝観実現出来ず仕舞いになってしまったようだ。午後5時すぎて結構遅くなったので、他には廻らずにホテルへ戻ることにしました。
 
 
20171114日 午前030 Tak
 

【以上「仏像愛好の集」のTakさんよりの巡拝旅行報告でした。 尚、次の記事に 続編が在ります。】