孤思庵の仏像ブログ

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今秋後半の巡拝旅行報告 第1弾(その2) by Takさん

「仏像愛好の集」のTakさんより、 巡拝旅行報告 の続編が投稿されました。



「しつこく、その1の続き。第1弾(その2)をお送りします。」Tak
 

                           今秋後半の巡拝旅行報告 第1弾(その2)

1028日(土):
会津若松駅前バスターミナルから路線バスで出発です。早朝でもあり、通勤・通学とは縁の無さそうな路線で、乗客は私を含めて45人程度でした。
 
勝常寺」(しょうじょうじ):
会津若松駅からバスに乗って3040分、田園地帯の平坦な場所の交通量の少ない通りで、「佐野」バス停で下車して、帰りのバスの時刻を確認しようと待合の小さな小屋に入ったところ、時刻表よりも先に、「掃除当番表と掃除実施日記」の模造紙にマジックで書かれた張り紙が、眼に入ってしまいました。こんな朝夕だけで日に何本もないバス路線の、停留所とその周囲を清掃する近所の家庭の持ち回り当番や、実施した人の状況が書き込まれていました。雑草を取った、蜘蛛の巣が多かったのでホウキで払った、屋根から雨漏りがしている箇所が見つかったので修理しよう、長いこと自転車が放置されているので、処置を考える、などいろいろと書き込んであるのが、微笑ましい。と同時に当番で清掃を実施している家庭の人達が、すべてバス利用者なのかどうか気になった。なかにはバスを利用していない家庭もあるのではないか。でも皆仲良く、地域の協力・団結などまとまりのよい場所だということが、模造紙の掲示を見て心和む気がしました。
バス停近くの「勝常寺本通り」の案内看板にしたがって、早朝の朝霧のなかを、田んぼの中の一本道を辿って約10分。トンボやカエルの飛び跳ねる道を先に進むと、土蔵や古びた住居の間に「勝常寺」の境内が見えて来ました。境内を仕切る塀などはなくすべて見通せて、正面に仁王門、奥に薬師堂、右手に宝物館、仁王門左手奥には本堂・寺務所があり、仁王門横に小さな池泉庭が見られます。拝観は9時からとなっているので、30分程、落ち葉を踏みしめながら境内を巡ってブラブラし、シマヘビやネズミとおぼしき小動物に出くわし、ハトや雀の群れているところに遭遇したり、のんびり時間を潰しました。お堂の縁下は基礎の柱が丸見えで、その細さに驚きながらも覗き込むと、基壇の石組みと柱とが堂全体に何十本も細かく立てられ、本尊・薬師如来坐像の重い寺宝などを容れた建物を支えているのが分かります。江戸時代に編纂の「新編会津風土記」によれば、大同年間(806810年)に空海がこの地に来て自ら薬師の像を刻み、会津地域5ヶ所に安置したと記述されているという。しかし、現在では勝常寺は、確証はないものの慧日寺とともに、徳一上人が9世紀初期に開いたとされています。門前の看板に書かれているように、本堂と収蔵庫に安置される国宝・重文の指定を受けた仏さま9体を有する勝常寺は、東北でも有数の名刹です。東北の地で、勝常寺という1ヶ所の寺院に多くの文化財が遺されているのは稀有のことで、隆盛時には12の僧坊と100を数える末寺を持つ大寺院だったとも伝えられている。なかでも残された薬師堂は、室町時代初期に「蘆名氏」の家臣によって再建されたという、桁行5間、梁間5間の寄棟造りということで、中世建築の遺構として重要だそうです。
 
薬師堂
薬師如来坐像(国宝)
副住職が予定時間の15分前に薬師堂を開扉して下さり、私一人堂内に導かれました。お経をあげた後、ひとしきりお寺の概要を説明して下さり、ゆっくりと厨子の扉を開扉して下さいました。堂内須弥壇上には本尊厨子と、「徳一上人坐像」と、前面に「十二神将像」12体が一列に並ぶ風景が展開されます。本尊安置の厨子内は暗く、正直はっきりとお顔を拝することが出来ません。副住職が須弥壇正面に置かれたスイッチを押すと、厨子内に設置された蛍光灯が点き、よく拝することが出来るようになりました。この処置は、拝観客からの要望でそのようにしたそうですが、お寺としては、自然光での安置に執着したとのことです。記録では、像高・142㎝、ケヤキ材(両腕はカツラ材)、一木割剥ぎ造りでは最古の作例だそうです。後頭部寄りで前後に割り剥ぎ、像内の頭体部は首まで内刳りをほどこしているという。部分的に乾漆併用し漆箔だが、かなり剥落している。左手に薬壺をとり、左足を上にして結跏趺坐する通常の如来坐像だが、大衣を通肩にする点が特徴となっています。多くの書籍などに掲載されたりして、その姿は割と知られていますが、間近く拝する像は画像などよりも大きく感じられるほどのボリューム感があります。衲衣は大きく両肩を覆い、衣文は単純に流れているが、その彫りは深く力強いものです。右手は掌を前に向け指を伸ばす。ケヤキの一材で、頭部から体躯、脚部まで彫り出し、前後を割り、内刳りの後に剥ぎ合わせる、割剥ぎ造りでつくられているという。頭部に大きな粒の螺髪が植えられ、高く大きな肉髻を持つ。額は極端に狭い。緊張した強い頬の張りが感じられ、鋭いきつめの二重瞼の眼や三角形の鼻や、目鼻立ちのはっきりした面相に似合わない厚い唇と小さな口元、とってつけたような小さな二重顎などなど、森厳なお顔に堂々たる体躯、二重円光背(スギ材、唐草文、化仏は1体のみ残)も大きく、印象深いお姿です。あまりのふくよかさと顎の丸く大きいことからか、首の三道が二道にしか見えない。腹部から脚部にかけての衣襞の表現は翻波式衣文が全面に用いられており、力強い彫りの表現が、観る者を圧倒する。胸前の袈裟の折り返しの波状の表現、膝部の同心円状の衣文の深い彫りが印象的です。像の背後には、舟形の板光背が背負われ、二重円相の外側には葡萄唐草文の彫りをほどこす。副住職の話しでは、光背取り付けの飛天像は1体のみで、大正年代に台座の下から発見され、当初は光背最上部に取り付けられていたと思われるが、現在飛天の向きを考えて、現在の位置に取り付けられているそうです。
拝観がひとしきり終わると、その後は、仏さまの螺髪の話しや顎のことなど、開創当時の地域の様子や、大きな寺域のこと、徳一上人と中央宗教宗派との関係や、事後の天台文化の流入など、お互いに推測での、責任の無い話しが弾みました。また、国宝指定になった際に、文化庁からは寺宝すべてを防火・防災の新造の収蔵庫に移すよう要求されたが、薬師如来坐像のみは、地域の住民の篤い信仰心から本堂に遺され、他の仏像寺宝がコンクリート造りの建物に移ったことなど、当時のいきさつなども聞かせてもらいました。2年前の東博「みちのくの仏像展」では、搬出について、如来坐像の安置されている厨子の前に同じ高さの足場を造り、水平に厨子から前へ出して梱包し、3日掛かりで搬出した苦労話しを、教えて下さいました。
仏さまについては、体側部分で前後剥ぎをしており、綺麗に剥ぎが分からないように処理しているのは、当時の技術では結構な大仕事だっただろう。会津近郊に多くの薬師如来はじめ尊像が残るが、やはり中央からの仏師の下向があったと思うが、資料が乏しく、天台宗徒や徳一上人の関係で研究がされているが、進まないようです。現在、本尊は大きな切妻屋根を載せた厨子に安置され、観音扉があり幕が掛かっているが、今回は幕を上げて下さり、本尊を拝することが出来ました。大きな厨子ですが、幕の掛かる幅は本尊のみで、正面左右には扉や幕はなく、むしろ板壁になっている。日光・月光菩薩の両脇侍像は、収蔵庫に移される前の昭和40年代には三尊として厨子内に安置されていたそうです。本尊の左右に安置されていた時は、当然板壁ではなく扉があり幕が掛かっていたのでしょうか?両脇侍像を移した後に、わざわざ左右に板壁をほどこしたのでしょうか?聞きそびれました。
 
徳一上人坐像
徳一上人坐像が本尊向かって左手に安置されています。堂内表記には「徳一菩薩坐像」となっています。徳一上人の唯一といってよいほどの姿が、勝常寺薬師堂のこの像です。前に「十二神将像」がズラッと並んでいるので、拝し難いのですが、確かに僧形坐像としてのお姿です。今にも朽ち果てるかと思える保存状態ではあるが、体躯的には、がっしりとした単純な表現の造作のようで、大きめの顔、大きめの鼻、大きめの脚部の脚組み、両手を膝頭の上に置き瞑想する品格を感じる姿の像です。「元亨釈書」に「麁食弊衣、恬然自怡たり」(そじきへいえ、てんぜんじいたり)とあるようなそのままの像なのだろうか。意外と大きく、1mくらいの坐像で単純な顔付きに眼窩の頬骨の存在が、妙に強調されているのは、彼の性格を表わしているのかもしれません。徳一上人は、生年不詳で、若い頃奈良の東大寺興福寺で「法相宗」を学び、弱冠(20歳前後?)にして東国に移り、会津に居住した学僧だったという。空海最澄と交流があり、空海は弟子の「康守」をして新来の真言密教の書写弘通を依頼した書簡を寄せていますが、歯の浮くような美辞麗句で徳一上人に賛辞を送っています。また最澄とは、「法華経」の解釈の相違から「三一権実論争」(さんいつごんじつろんそう)を戦わせたという。庶民のための施策も行われ、「仏都会津」の祖といわれる人物です。入寂地と廟については、諸説あるようだが、現在の「徳一廟」からは、骨壺といわれる9世紀頃の土師器(はじき)が出土しているということです。徳一上人は、山岳信仰と祖霊崇拝の土壌を基本に神仏習合本地垂迹による、仏が人間を救済するため神になって現れる考えにより、民衆へ仏教を進化させたという。「慧日寺縁起」によると、「清水寺」(慧日寺の最初の寺名)では丈六薬師金銅仏、日光・月光菩薩十二神将、四天王像が須弥壇上に安置していた、そうです。徳一上人は、5体の薬師如来像を造り、会津5ヵ所に寺を建て本尊として祀ったという言い伝えもあるそうです。勝常寺はその中央にあたることから「中央薬師」といわれ、当時の勝常寺は大きな七堂伽藍の、学問寺として隆盛を極めたそうです。
 
「収蔵庫」:
収蔵庫には、須弥壇正面中央に、本尊脇侍・日光菩薩像、月光菩薩像が並び、その脇左右に四天王像が、その外に各々地蔵菩薩立像が立つ構成になっている。また、庫内左右後側(須弥壇に向かう形)の左右に、十一面観音菩薩立像と聖観音菩薩立像が安置されている。
月光・月光菩薩立像(国宝)
像高・170㎝代のケヤキ材・一木造り、内刳り、漆箔仕上げ。日光菩薩像は左手胸前にあげ、右手は垂下して掌を伏せる。月光菩薩像は左手を垂下し掌を伏せ、右手は胸前にあげ腰を外側にひねる様子。一応左右対称の姿になっていると観える。両像ともに額が狭く、頭部は単髻を結い、眼は浅い彫りで、一瞥して天衣の腰から膝への弛みの流れが、一旦像中央で湾曲している物理的な不自然さが目立つ。天衣は両肩から二本ずつ下がり、一本は各々腰部で後ろに流れ、一本は脚部前に流れるが不自然な表現となっている。両像ともに全面から観るとスマートなスタイルのようだが、側面から観ると体躯は立派で、特に正面観ではあまり感じられないが、下半身の腰から下が極端に太く大きく感じられる。腹部の波状に刻まれる裙の折り返し下の、腿から膝部にかけての裙襞が無く、肉付きによって張りつめているような緊張感と単純さが、印象的です。天衣下では、うって変わって脚部の肉付きから解放された衣のゆとりが豊かな衣文線を作り出す表現をして、膝上の張りつめた量感と対比を際立てています。
 
十一面観音菩薩立像(重文)
庫内正面に向かうと、背中側の左右に、十一面観音立像(重文・右後ろ)と聖観音立像(重文・左後ろ)が安置されています。十一面観音立像は、カツラ材かヒノキ材の素地で造られており、勝常寺の他の像とは別種の材で造られているという。像高220㎝、勝常寺の諸像のなかでは最も像高が高い像だそうです。髻頂部の天冠台上正面に阿弥陀如来の化仏を戴き、他の仏面同様に後補。右手は垂下し掌を内側に向けて指を自然に伸ばす。左手はきつく屈曲して左胸に接するように蓮華を生けた華瓶を持つ。頭円光背には、放射光が何本も放たれる様子があらわされ、全体にスラリとした体躯からは優雅さが感じられ、若干腰を捻る感じで、左足に重心がかかっているようなスタイルとなっている。顔は、丸い顔面に大きく広がる目鼻立ちのはっきりした顔立ちだが、唇を強く結び、引き締まった顔つきであり、反面柔和な雰囲気が醸し出されている。額は狭く、白毫の上はすぐ髪際となり、髻は大きな単髻で大きめの仏頂面が載る。頭上の化仏、持物、蓮華台座、両手先は後補だが、堂々とした体躯や衣の表現は観る価値があると思う。私が注目したのは、幅広の条帛が左肩から斜めに、右腰下、大腿部半ばまで長く掛かり、高めの腰部には腹帯である「石帯」(せきたい)を付けているのが、ハッキリ判る。これはズボンのベルト状のもので、単なる紐状のものではなく、幅広で腹廻りを巻き、左右の腰部には、何やら当て布状の楕円形の立体的なものが付いているのが気になります。天衣は片肩から垂れ膝前を渡り、反対側の肩にかかる形になっている。裙は、薄い衣の質を表わして浅い彫りながら単純な表現で、大腿部には衣文が無く、天衣が膝部に掛かる下側にはしっかりした彫りの深い翻波様の表現がされており、肉感の張りの違いを強調しているようでもあります。左右両脇で釣り上げた裙裾が眼に止まる。
 
石帯(せきたい):副住職からは明確な説明を受けられず、帰宅してから調べました。
公家の正装である束帯や準正装の布袴(ほうこ)の時に用いられる、袍(ほう)の腰に締める帯。牛革を黒漆で塗り、銙(か)と呼ぶ方形または円形の玉や石の飾りを、背に当てるところに並べて縫い付ける。装束着用の時につける帯で、飾りに玉や石などを縫い付けるために、「いしたい」または「石の帯」などと呼ばれた。本来、通常のベルトのように彫金をほどこした金属製のバックルでとめていたが、平安時代中期以降になって、腹前部分は紐で結ぶように変化した。貴族の位により、三位以上は玉、四位・五位はメノウ、六位は烏犀角(うさいかく)などのように、官位の上下、儀式の軽重により、用いる種類を違えていたようだ。お雛様も背中の腰部に石帯を巻いているそうです。でも何故仏さまが、公家の装束と思われるような服制をしているのか、お解りだったら教えて下さい。まずはこれから調べてみます。これも神仏習合に関係する?
 
 
私に付き添って薬師堂、収蔵庫や境内を案内して下さった、まだ若く見える勝常寺副住職は、「薬師三尊国宝指定20周年記念事業実行委員会」の副委員長だそうです。委員会は指定20年の区切りに、平成2810月に、仏像彫刻のみならず両界曼荼羅図、真言八祖像掛軸、十二天画像ほか仏教具などの寺宝や、無形文化財の「踊り」などを紹介する図録「勝常寺の仏たち」を刊行したということで、今回頂くことが出来ました。
 
「たから館」:
副住職の紹介で、お寺の裏手にある地域活性化施設「湯川たから館」というところを訪れると、アポなしなのに、男性職員が事務所に入れてくれて、本格的なコーヒーを出して下さり、地元・湯川村のことや勝常寺の事など、熱心に説明して下さいました。日頃地元の人以外に訪ねてくる人はめったにないそうで、話しが止まりませんでした。併設した資料室には、当村出身の「高羽哲夫」映画監督(山田洋次監督の「男はつらいよ」シリーズの映画監督)のポスターや遺品、また彫刻家・佐野文夫氏の多くの彫像作品が、遺族から寄託展示されていました。私は、もったいないので会津若松市内の市役所や商工会議所など人のあつまる目立つ場所に展示したほうが良い、など勝手に無責任なことを話して、たから館を辞しました。職員の方が、わざわざ館の小型トラックでバス停まで送ってくださいました。最後までいろいろとお世話になりました。感謝・感謝!です。帰りのバスの乗客は私一人で、のんびり会津若松駅まで戻りました。
 
帰途は、会津若松駅から会津鉄道野岩鉄道ルートで、鬼怒川温泉経由浅草までの会津高原の紅葉に染まった峡谷・山岳風景を満喫する、長時間の電車の旅となりました。列車内は昨日とはうって変わって、年配の団体観光客で、食べるは飲むはしゃべるはで、すごくにぎやかな車内になりました。それが会津田島鬼怒川温泉駅まで続きました。おとといの郡山→磐梯町駅間のひっそりとした列車内とは、真逆の有様でした。
                                                                                  ― 了 -
 
(寺院や仏さまの画像紹介は、別途例会の席にて提示・配布などしたいと思います。)
 
20171115日(水) 午前030 Tak


【以上前の記事の 続編で、 「Takさんよりの巡拝旅行報告 その2」 でした。 】