孤思庵の仏像ブログ

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Takさんからの投稿 今秋後半の巡拝旅行報告・第2弾

【 以下 Takさんからの投稿文です】




今秋後半の巡拝旅行報告・第2弾です。
 
111日(水): 南山科地方の公開寺院への巡拝旅行に出発です。
 
現光寺(げんこうじ)
いつもの通りの出発で、すっかり晴れた天気のなか、新横浜駅始発新幹線で京都着、JR線で木津駅乗換加茂駅下車。徒歩10分ほどで、まっすぐ今回の目玉拝観の一つである「現光寺」に向かいます。途中、昨秋も伺った「旧燈明寺収蔵庫」、「御霊神社本殿」、「三重塔跡」、「鐘楼跡」などを再び観て廻った後、現光寺の収蔵庫には、9時の拝観開始時間には若干遅れたものの、予定通りの到着です。昨秋には、この時期に現光寺は公開されなかったのと、これまで「海住山寺」に現光寺の拝観依頼をしても、一人では許可されず、やっと念願がかなったのです(海住山寺は現光寺の管理寺院になっています)。特に、今秋の公開は、「十一面観音菩薩坐像」(重文)と「四天王像」4体が同じお堂(収蔵庫)で、お姿を拝することが出来ることで、感動ものです。現光寺・四天王像は、今まで奈良博・仏像館の博物館寄託扱いで、幾度か奈良博で展示しているのを拝観したことがあったが、今秋の同時公開は見逃せないものです。昨秋には、現光寺すぐ近くの「旧燈明寺」に仏さまを拝しに伺ったことがあり、加茂駅からは10分ほどで、ゆっくりと道に迷うことも無く拝観した経験があり、今秋も気楽な気分で現光寺に向かいました。狭い境内は、民家に囲まれたかたちで、敷地を仕切る壁も無く、わずかな雑木林の傾斜地となっている狭い空き地に、本堂と収蔵庫、鐘楼が建つくらいのお寺です。山門があったであろう境内入り口から眺めると正面に本堂、左手には長い平屋の庫裡、鐘楼、右手本堂隣に新しい収蔵庫が広くない境内にまとまっています。収蔵庫の先からは、木津川を挟んで山裾に恭仁の宮跡、手前に加茂の街並と遠くに水田の広がりが見渡せます。
 
寺の創建などは、記録が少なく詳しく判りませんが、聞くところによると、檀家が無く、元律宗寺院で、江戸時代は藤堂家の手厚い庇護のうちに栄えたが、明治後は庇護も無く急速に衰えた、ということです。現在は海住山寺の管理下にあります。本尊として鎌倉時代の「木造十一面観音菩薩坐像」(重文)が祀られていることから、鎌倉時代初期にはこの地にあった寺院なのか、手掛かりの少ない寺院です。それでも、海住山寺の仏事や供養などに、当時の寺の僧侶が出向いているとのことから、鎌倉時代初期には海住山寺との関係が深かったのでしょう。その後の衰退していた江戸時代初期頃に、栂尾山岩松庵で修行していた雲松実道(うんしょうじつどう)が、現場の様子を興福寺一条院真敬法親王後水尾天皇の第十六子)に願い出て、藩主・藤堂藩や地元の庄屋の賛同を得て、堂舎を再建し、律宗の道場としたとされています。実道律師は、後水尾天皇の女御に徳川秀忠の五女和子を入内させるのに、大きな役割を果たし、藤堂家との強いつながりもあり、その後の現光寺の繁栄の礎となったといわれているそうです。具体的には近隣の村落や寺院との間で、幾つかのやり取りをした古文書が残り、多くの寺領を持ち勢力があった模様です。また、「藤堂高虎」の死後も次代の「藤堂高次」と朝廷との親密な関係が続き、現光寺への援助が続いたものと思われます。現在では、地域の人々と海住山寺管理のもとで、「村持ち寺院」として維持されているのです。終戦後の無住となった混乱期に、本堂本尊を拝んでいた信者の火の不始末で、本堂扉を燃やすことがあり、京博への寄託ということも考えられたようですが、この地区の人々の「地元に遺したい」という熱意により、収蔵庫建設・保存という決断がされ、国の補助金とともに、国鉄職員などの協力により地元負担分の資金が出来たことで、昭和43年(1968年)に実現されたそうです。その後50年が経過し、平成17年(2005年)に現在の収蔵庫が建設されたそうです。新築の収蔵庫は堂内素木の板壁が全周に張られ、空調設備の行き届いた建設になっています。また遺されている本堂は、造立時期不明だそうですが、200年ほど前の建物と推定されており、正面3間・側面3間の四角い、結構堂々とした大きな建築物になっており、入母屋造りの妻入り構造の屋根、正面破風の大きな懸魚彫りを垂下させています。お堂の周囲は縁を巡らし、外見の傷みにより、拝観不可なのが残念ですが、内陣は結構しっかりした構造だそうです。格天井構造で、須弥壇には如来像や僧形像、四天王像のほかに、後水尾院や東福門院や関係する高僧の位牌などが並んでいるそうです。他に宮殿安置、収蔵庫に移った本尊の素木の空の厨子や、壁面には十六羅漢の絵が遺されており、外陣天井は化粧屋根裏ということです。
収蔵庫は、本堂の隣に建つ、コンクリート造りで鉄製の武骨な扉があるだけの、窓のない10メートル足らずの四角い白壁の平屋の建物です。内部は全面素木の板張りで、基壇も同様の素木という、質素だが温かみのある造りです。小さい庫内に入って驚いたのは、本当に狭くて10人もの拝観客が入ったら、ギュー詰めで、腰をおろすことなど出来そうにもありません。公開主催者である協会の職員が、受付と説明員として対応して下さっていて、丁寧に案内をしてくださいました。それでも収蔵庫内は狭いので、拝観には長時間とどまることが出来ず、私は、何回も庫内と出入口をウロウロして、少しでも長時間仏さまに接するように苦心しました。他の拝観客は、庫内で簡単な説明を聞いたら、ほんの僅か拝観しただけで退出となり、回転の早い拝観となっていました。そんな混雑した中で、ノートをとるのも苦労して、満足に書き留められなかったのが、残念でした。それでも、説明員の男性にお願いして、説明員の事前学習用の資料を見せてもらい、さらに厚かましくも写真を撮らせてもらうお願いをしたところ、出入口下駄箱の横の台で、資料を数ページ撮影させて下さいました。感謝です。春の公開寺院拝観の際には、ある寺院で、説明員の事前学習用資料を見せてもらったことがあったので、今秋は出来れば、コピーあるいは撮影が出来ないかと考えていたので、幸運でした。
 
「十一面観音菩薩坐像」(重文):
表記では木造漆箔、像高74㎝、鎌倉時代の作となっている。堂内での説明と私の感想をあわせて観ると、以下のようです。観音菩薩は、世間全体に目を向け、耳をかたむけて人々を救って歩く役目を持った菩薩だという。したがってその歩む姿を現わすために、通常は立像であることが多いが、この像は坐像です。観音の聖地である補陀落山上に坐す観音の姿を、象徴するものといわれているそうです。考えるに、この像の背後には解脱坊貞慶と弟子の覚真(かくしん・慈心上人)の大きな影響が、表れているものでしょう。貞慶の補陀落山への関心と、春日信仰の想いの深さから説明できるものかもしれません。説明員からは聞かれませんでしたが、そのハッシとした像容と貞慶、海住山寺興福寺との繋がりも深い、という時代背景から、仏師集団と造像時期もかなり絞り込めるのではないかと、勝手に想像してしまいます。ヒノキ材の寄木造り、高く大きく結い上げた髻の上に仏面を、髻下部に4面と地髪上に小さな阿弥陀立像とともに6面の頭上面を配するもので、すべて造像当初のものと考えられています。体全体は黒漆を塗った上に金箔を押す像となっている。いわゆる「皆金色像」。像内は内刳りし、体内は鑿痕を綺麗に彫ってあるということから、鎌倉時代の造像例に多くある様に、当初は胎内納入品があったかもしれません。あまり頭部・顔部には補修の跡が認められず、殆んど剥落の無い金色の輝き、その表情は穏やかな若々しい少年か、と思われるような生き生きとした活性に満ちています。また、体幹部は胸下や腰を小気味よく引き絞った、それでいて緊張感のある張りのある造形が眼を引きます。斜め横から覗くと、背中もかなりに肉付きが良い様で、若干後ろに反った感じの上半身や胸から腰への抑揚は、円成寺大日如来坐像の体躯を想起させるような雰囲気を感じます。伸びやかな腕や組んだ足の無理のない自然な造形は、仏さまの前面に大きな空間が感じられ、実際の像以上の大きさ、広がりを感じさせてくれる仏さまです。肩にかかる衣、条帛や膝部に施されている、しなやかな流れと明瞭な彫りの衣文線は、まさに鎌倉時代全盛の奈良仏師の手になるものと感じさせてくれます。私の勝手な思いとして、南都復興が一段落した直後に、貞慶が次の平和な安穏とした時代の息吹を込め、信仰の大願を願って、このような優しい姿を現わしたのではないか?お顔は金箔の剥落もほとんど認められず、綺麗な金色の仕上げになっているので、円成寺大日如来像のように、剥落している箇所の変化によるようなお顔の乱れがない。わずかに唇に朱を入れ、玉眼嵌入であることは、職員に了解のもとで、実際にLEDを当てて見て確認しました。外見上は細目でかすかに黒目が覗かれる程度の開きしかありません。頭飾は金属製で左右に宝珠を載せ、細かな細工を施した側飾を垂らしている。瓔珞も金属製で、首から針金で胸前に吊り下げています。左手を屈して胸高に蓮華を挿した水瓶を持ち、右手を右膝頭上で掌を前に向けている姿になっている。また、裳裾が左腰から前へ流れ、上に組んだ右足のかかとを隠して、右むこうずねから右膝頭へ流れる衣文の流麗な流れと、適度な彫りの深さの表現が、何ら不自然でなく、綺麗にまとまっています。とにかく全体に、繊細優美な細工のなかにも、鋭く力強いものを感じさせる見事な仏さまです。これほどの素晴らしい仏さまがそれ程の傷みも無く、こうして保存されていることに驚きとともに、加茂及び木津川流域の地域の奥深さを感じます。これだけの仏さまを造られた願主や制作者は、いつの時期に、どのような環境で実現されたのでしょうか?究明が待たれます。そして、願わくば毎年の定期的な開扉公開を望みたいものです。
昭和43年(1968年)の修理時に像胎内から発見された文書により、元禄10年(1697年)に修復されており、光背と蓮華台座は、その時に造られた可能性が高いと指摘されているという。きれいな舟形光背で、像と同じように全体に金色の、二重円光背の周囲に雲状?の渦巻文様を全体にあしらったものです。魚鱗形蓮華台座の下の框には、伏せた獅子が組み込まれ、敷茄子には法輪の文様がほどこされている、綺麗な造りになっています。
「腰の締まった写実的な作風から鎌倉時代前期の造像と思われる一方で、少年のような涼やかなまなざしや、メリハリのある胸部の衣紋線などには、天平時代の乾漆像を参照したかのようなおもむきがある。このような作風は天平彫刻をよく学習してあらたな様式を生み出した、鎌倉時代の慶派仏師の特徴と考えられている。しかし、若々しい表情は、同時代のこれまでの名の知られている慶派仏師の特徴とは必ずしも一致しない。その作者は、善派仏師のさきがけとなった奈良仏師なども考慮に入れ、あらためて考える必要があるだろう」(京博・淺湫毅氏)
 
東大寺大仏殿様四天王像」
十一面観音菩薩坐像を中央に、左右2体ずつの四天王像が安置されています。堂内はこの5体しか安置されていません。本尊とともに本堂に伝来した一具の四天王像だそうです。像高は62㎝~65㎝程で、海住山寺の四天王像(当初五重塔内に安置されていたとの説あり)の倍近い大きさの像です。各像は少し煤にまみれて、邪鬼の腕などに剥ぎ目付近が緩み剥がれた跡が眼につくものの、目立った不具合はなく、各々に三鈷杵、戟、巻子、筆、宝塔などの持物を執り、肉身の身色も各々緑、赤、白肉、青とハッキリ判別出来る。各々に左右上腕に獅噛みが施されているが、腹獅噛みはすべて無し。各像ははっきりと玉眼であることが視認出来る。各像の足下の邪鬼は当初のものかと思われるが、持物や冠などは後補と思われる。各々の像態は、彩色は当時のままと考えられるが、体躯については本尊と同様、昭和43年(1968年)に修復があったものかと思われるが、本尊、四天王像ともに修復の記録が無いそうです。像は、醍醐寺所蔵の「東大寺大仏殿図」(国宝)の四天王像の像態と一致するということで、これは金剛峯寺像、海住山寺像などとともに「大仏殿様四天王像」ということになります。職員の方ともいろいろと珍しい話しなどを伺ってから、午後1時過ぎにお寺を退出しました。
 
 
常念寺(じょうねんじ・木津川市
現光寺から川沿いの堤の上を歩いて、加茂駅方面に向かい、駅をやり過ごし約10分、次の「常念寺」に向かいました。お寺の直近は民家の中の狭い坂道になっており、お寺の拝観受付の職員に聞いたところ、現光寺からの道に迷う拝観客が多いそうです。確かに駅からの詳細の道順を記したチラシも無く、私も途中で、数人の方にお寺への道順を聞かれることがあったので、ちょっと不親切かな?とも感じました。今秋の公開では、南山科地域のいくつかの寺院が、初公開寺院となっており、拝観客にとっては、最寄り駅からの道順案内は必要かと思いました。因みに、今回の「京都古文化保存協会」の「特別公開」事業のパンフに、常念寺も初公開寺院になっていました。私の今秋の巡拝予定では、優先順位が低い寺院でしたが、予想以上に大きな寺院でした。寺伝では、延徳年間(1490年代)に物資輸送や交通利便な木津川に近い場所に創建されたそうで、以後、信長や秀吉の時代も隆盛が続いたようだが、江戸時代半ばに大雨による木津川洪水により寺も被災し、以降に現在地に移転したという。平成14年(2002年)に新築された本堂は立派で、これまで巡拝した南山科地域の寺院の建物では、もっとも大きなお堂のひとつではないか、と思われます。お寺の方のお話しでは、結構多くの寺宝があるようで、涅槃図や仏画などがあるが、仏さまに限っては、気になった仏さまは数体でした。天蓋が大きくケバケバしく真新しいのが幻滅です。また、金色の大きな華鬘には迦陵頻伽が浮き彫りになり、透かし彫りの大きな幡も目立つ堂内です。本尊の後ろの白壁には、極彩色の「来迎形二十五菩薩」が、多くの雲状の彫り板の中に張り巡らされ、何処を観ても極彩色です。須弥壇の上には、「本尊・阿弥陀如来立像並びに脇侍像」(南北朝時代)、向かって左側に「地蔵菩薩半跏像」(平安時代後期、黒漆厨子入り)、右に「十一面観音菩薩立像」(室町時代)が祀られている。各像の後ろに、「釈迦三尊像」、「薬師三尊像」(時代不明)などが安置されています。お堂そのものも新しく、内部の真新しい荘厳なども相まって、何か仏さまがつまらなく感じられました。
堂内では、住職が他寺院から訪れた僧侶とおぼしき男女3名(僧衣を着た姿)に、いろいろ自慢げに説明して廻っていたのが気になりました。午後3時には早々に退出しました。「西念寺」はパスしました。
 
 
大智寺(だいちじ):
JR線で加茂駅から一駅で「木津駅」です。これまでに木津駅を利用して23ヶ寺の巡杯に出掛けたことがありましたので、駅周辺は結構よく知っているつもりです。なかでも昨秋も駅から徒歩10分の「大智寺」で「文殊菩薩騎獅像(厨子入り)」を間近かで拝観し、今夏の大阪・あべのハルカス美術館で開催の「西大寺展」に、期間限定で厨子から出た「文殊菩薩騎獅像」を拝観したことがありました。今回もせっかく近くまで来たのだからと思い、予定に無かったのに、今日最後の拝観寺院として立ち寄りました。因みに大智寺も協会初公開寺院でした。確かに、西大寺展では、「寺外初出展」と記されていたのを思い出しましたが、それほどにこれだけの秀作が、世間の眼に触れられていなかったのです。ただし、今回は西大寺展でご覧になった方も、足を運んでこられているのではないでしょうか。団体客は見当たりませんでしたが、それでも大勢の拝観客が、狭い堂内に詰めかけていました。長くなるので、これ以上記するのは止めにします。私は昨年の初めての拝観時の報告と、今夏の西大寺展での展示状況などを弧思庵ブログに報告していますので、その寄稿報告に眼を通してみて下されば、様子が知れることと思います。なお、西大寺展で感じた像態と蓮華台座との様子については、再び半ば朽ちたような厨子の中に納められてしまったために、新しい発見はなく、お寺の方に尋ねても、確かな話しがありませんでした。やはり、何か調査記録などを探すしかないようです。協会職員の閉館の案内があり、他の拝観客とともに、止むを得ず午後430分過ぎにはお寺を辞しました。
 
 
112日(木)
恒例になった「朝ドラ」を見てからの、ホテル出発です。ものの5分といったところで、通勤・通学客で混んだJR奈良駅の改札を通り、電車に乗り込みます。深夜というか早朝というか未明というか、とにかくホテルの露天風呂に一人で長湯して、さっぱりしたのは良いが、午前8時過ぎてもまだ外気は肌寒く、身体が冷えてしまいました。今日は、京都方面に向かい、「祝園駅(ほうそのえき)」で下車し、「常念寺」(精華町)に向かいました。
 
常念寺(じょうねんじ・精華町
資料では、駅前からコミュニティバスで僅かとのことでしたが、バスで僅かなら歩いても大したことはないと思い、方向だけ目見当で朝のピーカンの天気のもと、徒歩10分と見込んで出発しました。因みに、駅前のバスターミナルの案内職員に、お寺に行く最寄りのバス停を伺ったところ、そんなお寺は聞いたことがない、とのことでバス停名は分からず仕舞いでした。この寺も協会初公開寺院でした。駅から徒歩10分は正解でした。JR祝園駅の高架橋を跨いで、隣の近鉄新祝園駅」前から、とにかく広々とした通りをまっすぐに行くだけで、よいのです。大通りから「上水道事務所」というバス停すぐの路地に入り、住宅地の中に、協会が公開寺院には必ず立てている幟りを数本見つけたので、確信を持ちました。小さなお寺ですが、路地から一段高く綺麗な石垣を巡らした白壁のお寺でした。1キロほど離れた場所に、「祝園神社」(ほうそのじんじゃ)があり、地元では大きな歴史ある重要な神社だそうです。その神社と関係が深いお寺でした。お寺での様子によっては、後日に神社への参拝も考えて来ましたが、とりあえずはお寺だけとなりました。本堂は、昭和63年(1988年)落慶という比較的新しいお堂です。説明では戦前まではこの一帯に広く寺領を領していたようですが、戦後の農地改革で大幅に縮小したそうです。外陣に「億百万遍功徳円満」、「彌陀所儒融通念仏」との幡が左右の柱に掛かるように、このお寺は融通念仏宗です。開基、年代などは不明ですが、寺伝によると室町時代には天台宗寺院として創建されたようで、その後融通念仏宗に改められ、江戸時代後期に伽藍の再興がされているという。延暦寺良忍上人が、阿弥陀如来から融通念仏を授けられたという伝えがあり、「一人は万人のために、万人は一人のために」というラグビー競技のような教えで、念仏を広めたそうです。
山門をくぐると、本堂までの短い距離ですが、多くの植え込みが出来ており、綺麗な砂利が敷き詰められ、中央には、細長い方形の2列の石に挟まれて、列の中に正方形の石の組み合わせによって作られた石の道が、本堂玄関に向かっています。京都のどこかの立派なお寺にあるような敷石道で、簡素ながら結構綺麗なものでした。石の道の途中右手に、この寺での目玉の「薬師堂」と「九重石塔」があります。薬師堂内の仏さまは、私が今回の巡拝旅行の目玉の一つにしている仏さまです。後で時間をかけて拝したいと思います。
本堂は、入り口左右に石灯籠と大きな水盤が置かれており、堂に上がって正面に須弥壇が設えてあり、天井からは天蓋、幡、華鬘(けまん)、羅網(らもう)下がり、荘厳な雰囲気を醸している。須弥壇中央に簡素な逗子に入った本尊「阿弥陀如来立像」、左右に「地蔵菩薩立像」と「阿弥陀如来坐像」が安置されています。何故か、本堂内の天井四隅に、まだ新しそうな小さな「四天王像」が、背板に囲われて安置してあるのが不思議だった。それにしても天井隅とは、床には安置するスペースが無いとでもいうのだろうか?そうは思えないのだが。「阿弥陀如来立像」は、江戸時代の作だそうで、頂上部まで綺麗な蓮華文様の舟形光背を背負う、端麗な姿の三尺阿弥陀像です。像高100㎝位、彫り出しの螺髪、来迎印を結ぶ、ヒノキ材の寄木造り、玉眼嵌入、着衣部は黒漆塗りで、肉身部は汾溜彩(ふんだめさい)という。着衣部の黒漆は本来は漆箔であったと思われるそうで、像全体の保存状態は、厨子に入っていたせいか、良好のようです。説明員の話しでは、旧本尊は、坐像のほうだったそうです。「阿弥陀如来坐像」は、像高90㎝のヒノキ材寄木造り、漆箔、彫眼で、彫り出し螺髪の江戸時代作との推定。偏袒右肩の姿で、定印を結ぶ。衣文線ははっきりしているが彫りは浅い模様。丸顔に小作りな目鼻や撫で肩の華奢な体躯は、おとなしい仏さまで、この像が以前の本尊と云われているそうです。「地蔵菩薩立像」は江戸時代の作と考えられているそうで、像高70㎝、体躯の割に大きめの顔で、彫眼。遠目で不明だが、左手で衣の端を摘み、右手に錫杖を持つ。袈裟下の衣は通肩のように観えるが、オペラグラスでも遠くて暗いのでよく観えない。
 
「菩薩形立像」(重文・薬師堂)
早々に本堂を出て、山門近くの「薬師堂」に引き返します。小さなお堂は堂内に菩薩立像を正面中央にして、左右に十二神将12躯と、十二神将像奥にそれぞれ毘沙門天立像、不動明王立像が安置されています。
やっとお目当ての仏さまとの対面です。これまで写真でしか拝したことがない仏さまですが、何故か気に入ってしまった仏さまなのです。午前中の陽射しが、小さなお堂の奥まで届き、かなりよく拝することが出来た気がします。本像は、旧祝園神社薬師寺境内の小堂に祀られていたが、薬師寺廃寺により常念寺に移り、現在の薬師堂に祀られているという菩薩形立像ですが、小さなお堂内にキツイ感じで立つのですが、それでも姿がすごく立派に観えます。説明では、平安時代前期の弘仁元年(810年)から貞観11年(869年)にかけて、仏師「春日」によって造られたという仏さまで、蓮華と返り花だけの台座で、台座を含めた総高が2m、像高1.7mという等身大の仏さまで、、ケヤキ材と思われる一木造り、彫眼、肉身部と着衣部の痕跡から当初は漆箔像だったと推定され、背面腰部下半身に大きく内刳りを入れ、蓋板を当てているそうです。ガッシリとした体躯で、大きな宝冠か髻?(素木の大きな髻かとも宝冠とも思われる単純な円柱状で、宝冠状の細工無しだが)、列弁を付けた天冠台、髪際の筋目が僅かにのぞき、条帛は幅広で、彫りのはっきりした衣文が右脇腹まで流れます。腹帯部分の裙裾が、腹前中央で大きく折り返された半円状の造形は、同心円状の翻波式の彫りで眼を引きます。裙裾付近も僅かだが翻波式の彫りが観られ、凝った表現を施しています。両肩から裾までの長い天衣の彫りの流麗さ、特に大腿部から脚部にかけての二連の天衣の複雑な交差、わざわざの絡み具合、そして両端裾の前方への柔らかな湾曲した流れには、前時代的な雰囲気も感じられ、眼が釘付けになってしまいます。天衣の端から流れを追って行くものの、途中で絡み具合が解らなくなってしまいます。お顔は丸顔で、目鼻立ちは造作が大きく、小鼻が張った感じで唇も大きめで、唇すぐ下に顎が後から付け足したかのように盛り上がってついています。唇自体も分厚く、上下唇がともにめくれ上がったようになって唇先が尖った感じです。また、細めで浅い彫りの茫洋とした眼窩ですが、「連眉」(れんび)という左右両眉が真ん中で連なっているように造られていることが、特徴的な顔つきに観えるようです。蓮眉については、「仏教芸術」のある号に関連の論稿があるそうですが、未確認です。この時、私と説明員の話しの間に割って入った男性が、「イモトアヤコ」だといったのですが、訳が分からずノートに書き留めておいたのですが、まだ調べまで及んでいません。全体に迫力のある顔付きに引き付けられる姿です。左手は屈臂し蓮華を持ち、右手は垂下しているが、一見して右肘から手首までが長く、手指は膝にまで達しています。両手首先は後補と思われます。また、現在は左手に蓮華を持つが、お堂内には、江戸時代の作とされる薬壺を持つ左手が残っており、いつの頃か繋ぎ直したようです。つまり最近までは薬壺の薬師菩薩だったことが知れるわけで、お寺では不確かなものとして、「菩薩形立像」として案内しているわけです。
薬師寺の本尊であったことや、脇檀上に薬師如来の眷属である十二神将像が祀られていることから、神将像が江戸時代の作であることを差し引いても、本来は薬師像として造られたものと思えるが、外見上は、いわゆる薬師如来像ではなく、菩薩形の薬師像であるのは不思議です。祝園神社との神仏習合の関係で生み出された仏像ということは確かだろうが、神像であれば一般には僧形などの姿となるのかもしれないが、菩薩の姿をとる例外的なもので、ここに祝園神社との解けない関連があるのかもしれません。とにかく印象に残る私好みの仏さまでした。これからもお会い出来る機会があると、うれしいのですが。拝観の最後に、忘れずに説明員にお願いして例の「学習用資料」を撮影させていただきました。
(薬師堂内の十二神将12躯、毘沙門天立像、不動明王立像の説明は省略。)
 
 
「旧燈明寺」(きゅうとうみょうじ)
常念寺(精華町)を退出後、思いたって予定を変更し、当初午後は「法性寺」(東福寺駅)と考えていたものを、昨日(111日)行った加茂駅に戻って、「旧燈明寺」に出掛けました。この寺跡は、保存協会の特別公開対象寺院ではなく、木津川市観光協会が毎年実施している公開寺院(112日から数日間のみ)になっています。
旧燈明寺(川合京都仏教美術財団が維持・運営管理)は、昨秋に公開された際に出掛けたことがあり、今年は2回目です。午後2時近くになって、加茂駅から急ぎ足で約10分、旧燈明寺到着です。昨日の現光寺拝観の際にも、神社には立ち寄ったのですが、収蔵庫は今日(112日)から3日間の開扉ということで、気にしていました。柵で囲われた敷地内の石塔とともに、小さな収蔵庫が佇んでいます。
収蔵庫には、正面壇上に「千手観音菩薩立像」、「十一面観音菩薩立像」、「不空羂索観音菩薩立像(伝如意輪観音菩薩立像)」、「聖観音菩薩立像」、「馬頭観音菩薩立像」の5観音立像が並び、左右に本堂発掘調査時の出土品などがケース内に展示されており、横浜の「三渓園」に移築された「三重塔」と「本堂」のことも紹介されています。「燈明寺型」として知られるという「石灯籠」や「石造十三重塔」は寺院衰退の折に「三井家」に売却され、その後三井家から京都・真如堂へ寄贈された、ということです。寺の歴史は、江戸時代の歴史文書には「奈良時代行基によって開山された」とあり、また元禄9年(1696年)に記された「東明寺縁起」には、「平安時代貞観5年(863年)に弘法大師の弟子の真暁が開基した」とあり、創建時期については諸説あるようで、よく判りません。安置の5観音像は、「六観音」に含まれる構成ですが、像の構造や表面の仕上げ方法、大きさ、推定制作年代などに差異があり、本来は一具の造像ではないようです。私が拝観した際の5観音菩薩立像の詳細の様子や、寺の歴史や経緯については、弧思庵ブログの昨秋・H2811月の「京都・木津川方面寺院巡拝」の時に、報告しています。収蔵庫内では、ゆっくり仏さまの姿を拝し、職員の方々とも簡単にお話しをさせてもらいました。さして多くない、というより本当に少ない拝観客の中で、拝観中には思いがけず二人の方にお会い出来ました。
収蔵庫内で、ある男性が退出する際に、私に挨拶をされた方がいらっしゃいました。私は不案内だったのですが、彼のほうは私と東京のどこかの教室の講義でご一緒だったそうです。よくぞ私の顔を覚えていたものと、ビックリしました。今後もどこかの教室・講義で、またお会い出来るかもしれませんね、とお話しをして別れました。
もう一人は、仏さまを拝観している途中で、大阪から自家用車で来た、という女性にお会いし、彼女のいろいろ語られる含蓄のある博識を拝聴することが出来ました。彼女は、大阪近辺にある多くの寺院に出掛けているそうで、私の知らない寺院名や仏さまの名前が、次々と話しの中で飛び出していました。途中で、泉涌寺悲田院の話しに及んだ時に、彼女が悲田院の隣の日吉ヶ丘高校の卒業生で、よく悲田院の山門の前の、東山地域や京都市内が一望に見晴らせる藤棚に、出掛けていたということも教えてくれました。私も彼女に云われて、あの悲田院前の展望台の藤棚を懐かしく思い出しました。また、私が1日に現光寺の後に拝した常念寺(木津川市)で、彼女も同じ時刻の頃に拝観していたことが、話しの内容で知ることとなりました。それは私がお寺に伺ったときに、住職が他のお寺から見学に来たと思しき男女3名(僧衣を着た姿)に、よく聞こえる声で、本堂の建設の様子や仏さまの安置について自慢げに説明していたのです。彼女も同時刻頃に、私と同じ経験をしていたというのです。彼女はこの旧燈明寺に安置されている仏さまに、関心を持たれてじっくりと拝観していました。その後二人での立ち話しとなりました。話しは解脱坊貞慶のこと、木津川流域の歴史的重要性のことなどに及びました。またこの寺の仏さまのように、由来や寺院の歴史がはっきりしないのに、優れた仏さまが残っていることに感銘されており、当時の地域の信仰の篤さや、藤堂高次などの援助などが相まって、いつの時代にも廃寺になっても立派に遺っているということを、繰り返し話されていました。午後4時になり、職員の方が収蔵庫を閉めるということで、我々も寺を辞しました。かれこれ1時間以上も彼女と職員を含めて歓談した勘定です。帰り際に、「御霊神社」(ごりょうじんじゃ)奥の五重塔跡地まで同行しました。御霊神社の看板には、重要文化財、もと燈明寺の鎮守社として奈良「氷室神社」(奈良博の通りの向かいにある神社)の古社殿を移築したと記されており、南北朝期の創建で、三間社殿、流れ造り桧皮葺屋根、祭神として早良親王吉備真備菅原道真とありました。彼女は寺の近くに自家用車を駐車させていて、その前でまたしばらく立ち話しとなりました。加茂駅まで送ってくださるという申し出を、「散歩して撮影しながら戻る」とお話しして、その場で別れました。加茂駅まで一人で戻る途中で、朝買ってあったサンドイッチで遅い昼食を摂りながら、夕焼けを見ながら写真撮影をして、駅まで歩きました。結局、旧燈明寺には午後2時頃から4時過ぎまで足を止めたことになりました。
 
 
 
113日(金)
「法性寺」(ほっしょうじ):
今日は、巡拝旅行最後の「法性寺」に伺うことになり、JR奈良線で、京都駅の一歩手前の「東福寺駅」まで出かけました。この2日間の南山科地域の寺院と比べて、京都市内の寺院であり、現在は如何に小さな寺院とはいえ、歴史的には大規模で政治上も重要なお寺であり、国宝指定の仏さまでもあるので、是非に行かなくては、と思いました。そのために、お寺の門が開く時間に間に合うように、早めに出かけました。早朝の通勤・通学客の多い電車で、小さな駅に電車が到着すると、本当に小さな狭いホームが一杯になり、しばらく出札までホームで待たされました。駅を出て、多くの人が向かう先は東福寺方向で、急に人通りの少なくなった京福電鉄路線に沿った狭い通りを、一人で先を急ぎました。5分足らず行くと、狭い通りに面してお寺が佇んでいます。お寺の前の通りは、意外と交通量があり、交通整理の職員が寺の前で立っていました。公表通りの午前9時まできっちり待たされ、時間前にお寺に入れてくれるような配慮はなく残念でした。狭い庭に入るとほんの数歩!で本堂です。10人も座敷に上がれば一杯という小さな畳敷きの部屋で職員の説明を受け、建てつけの悪い襖の奥の仏間に移ります。そこに奥に須弥壇があり、畳敷きの座敷は15畳程度の狭さで、後から来られた拝観客は入場制限をされていました。私は、最初のグループ説明で拝した後も、ウロウロしながらかなり時間を粘り、数回もグループ説明を聞きながら、拝してはノートにメモをしました。
法性寺は、延長2年(924年)に藤原忠平が建立した藤原家の氏寺です。幼いころから才能に恵まれ、菅原道真とも親交があったということでした。朱雀天皇の時代に関白になったという。当時のお寺は桁違いに大きく、いろいろ現在地の地名を聞いて、その大きさを想像するくらいです。平安時代には、京都内での戦乱や火事でお寺が焼失するたびに、道長や藤原家一門の援助によって再建されてきました。「藤原忠道」の時期には、洛中でも有数の壮大な伽藍配置で、名刹として歴史に残ります。忠道は、関白太政大臣として「法性寺殿」の名で宮中で隆盛謳歌し、後に剃髪して圓観、法性寺入道と称したという。また、忠道の息子、九条関白兼実は忠道の跡を継ぎ、一方で「法然上人」との関係を深め、自分の娘と法然との結婚を認め、おかげで貴族仏教から大衆仏教へと変質し、広く世の中に布教されることになったそうです。また、兼実は天台座主慈円や、興福寺別当・真円など高僧が縁者にいたりして、仏教界への影響力もあり、また「玉葉」は自身の40年間の日記で、歴史文献として重要な資料となっています。しかし時代は貴族の政権の統治力は衰え、応仁の乱では無双の伽藍を擁した法性寺も焼失し、その後には、法性寺の寺域に、「東福寺」が建立され、次第に法性寺の寺域が東福寺に組み込まれて行ってしまったという。わずかに残った寺宝が、明治以降に法性寺として復興した、現在の堂宇に安置されたもの、ということでした。
本堂内は、幾つかの畳敷きの部屋が襖によって仕切られ、一間ずつ奥に入っていき、最奥の部屋には、正面須弥壇厨子入り本尊と後陣に阿弥陀如来立像、不動明王像、薬師如来坐像地蔵菩薩立像、毘沙門天像などが所狭しと並ぶ様子が窺われました。阿弥陀如来立像は、施無畏・与願印、扁平な螺髪、舟形光背に九体の阿弥陀坐像形の化仏が付く、三尺阿弥陀如来と考えられる小像で、説明では制作年代不明だが、藤原忠道の念持仏か?との話だった。
 
 
三面千手観音菩薩立像(国宝)
狭い座敷堂内に、大きな天蓋や幡が架かり、護摩壇の後ろに大きな黒漆の厨子(昭和30年の造り)が置かれ、厨子前には台に載った鏡と前立像が祀られています。内側に単に金箔を施しただけの厨子に入った、本尊・千手観音菩薩立像は、法性寺創建の延長年間(923930年)頃の造立とされています。寺伝では、法性寺灌頂堂旧本尊ということです。「日本紀略」紙面の承平4年(934年)1015日の条に、灌頂主催の「尊意」という高僧が熱心な千手観音信仰者であったということから、この時の本尊が、いま眼にしている仏さまという可能性が高いということです。お寺のお坊様からは、条帛を着けない、優しい面相、脛部の衣文の特徴などから、特に唐の檀像、またはそれを模したものが手本になった、ということが考えられている。また、当時は道真の祟りが広く流布していたことから、道真の怨霊を恐れて造ったものとする考えがある、この像は忠平が仏師「春日」に造らせた、などを教えて頂きました。仏師「春日」とは、前に訪ねた常念寺(精華町)の「菩薩形立像」の拝観時にも説明員から聞いた名前で、ちょっと驚きました。説明員はお互いのことや出典のことなぞ分からず、だいぶ時代が違いそうで、私としては気になるところでした。春日という名からは、やはり奈良春日社や興福寺のことが想像され、興福寺造仏所あるいは、藤原不比等の設置した造仏役所など、いろいろと考えてしまいました。また、以前から像の胎内に純金の仏さまが納入されている、との説があるそうで、話しを聞かされました。
像高110㎝、サクラ材の一木造り、像態は、頭円光背を背負う均整の取れた秀麗な姿です。この仏さまを前にして、短時間でお別れするのはもったいないです。特に頭頂部の仏面が突出したような感じで、三面の千手観音菩薩立像で、本面の左右耳後ろに菩薩面と忿怒面を付け、頭上につける2段の髻に載せる24面と、仏頂1面と合わせて28面の仏面を持つもので、経典「調定曼荼羅図」、「千手観音造次第法儀軌」に規定があるそうです。お顔では、広めの額の上に、天冠台の下にわずかに髪が覗かれるが、毛筋は無く、鬢髪(びんぱつ・耳際の髪)は左右ともに渦を巻いて耳を隠し、わずかに耳朶(じだ)を覗かせています。遠目には、かなり伏目がちな目鼻立ちが控えめな表情ですが、穏やかな端正な顔立ちは秀麗です。脇手は左右各19臂で合掌手・宝珠手を入れて42臂の一般的な数になっているそうです。持物は後補のものであろうが、それぞれ教義に基づいたものを持っているようです。すべての腕には臂釧(ひせん)は無く、金属製の腕釧(わんせん)がすべての腕に嵌められているようです。また、肩から天衣を掛け、綺麗な襞を彫って正面膝前で2本のU字形に垂れています。裙は、宝珠を載せる宝珠手の上の腹部分で1段に折り返し、条帛を着けない姿で、飛鳥・白鳳時代以降の菩薩形ではあまり見かけない仏さまの姿のようです。研究者の推論では、造像時期は10世紀前半との考えがあるそうです。
拝観客が落ち着いた頃合いを見計らって、京都女子大学のサークル・美術史研究会の学生説明員に、手持ちの学習用資料を撮影させてもらうことをお願いして、仏間の奥の部屋に入れてもらい、彼女に手伝ってもらって撮影させてもらいました。話しを聞くと、10分程度で退出するような拝観客のなかには、やっぱりこんなことを要求する拝観客はいないそうです。その資料には、「仏教芸術」の参考文献として、かなり古い伊藤史朗氏と福山敏男氏の論文まで記されていました。彼女に感謝、無理を聞いてくれてありがとう。撮影を終えた直後に、拝観客の一人から説明員に、十一面観音さんの正面下の両手に持つ饅頭(宝珠のこと)は観音さんが食べるのか?との質問が出て、彼女とともに笑ってしまいました。お寺での最後の「オチ」となりました。午後1時過ぎに法性寺を辞しました。
 
法性寺からは、京都国立博物館に出掛け、「国宝展」を鑑賞して閉館時間までウロウロして、午後6時頃に次ぎの宿泊先の大津に向かいました。
                                                                            ― 了 ―
(寺院や仏さまの画像・資料紹介は、別途例会の席にて提示・配布などしたいと思います。)
 
20171116日(木)午前030 Tak
 
 
【 以上 Takさんからの投稿文でした】