孤思庵の仏像ブログ

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Tauさんの投稿 11/7 「会津若松市と磐梯町「慧日寺跡」への再訪。」


Tauさんの投稿11/7    「会津若松市磐梯町「慧日寺跡」への再訪。」

会津戊辰戦争150年事業

会津若松市記念事業HP:   

http://boshin.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/ 

全国各地では「明治150年」という企画で文化庁中心に祭事が行われていますが、福
島・会津地域では特にこだわって「戊辰戦争150年」として1年間にわたって県内・地
域内各地でいろいろな行事が開催されています。残念ながら主だった企画(講演会や
現地見学など)は、終了しているものが多いのですが、それでも各施設などで特別な
企画を個別にしていたりで、飽きることなく歴史を知ることが出来ます。特に「松平
容保」を支えた会津藩士の労苦を知る貴重な資料など、最近では新政府に対する会津
藩の戦いが再評価されてきており、今でも脚を運んだかいがありました。某団体の勉
強会に参加して、解散後ひとりで現地の見聞に出かけました。

会津といえば、TVでおなじみの「山本覚馬」、「山本(新島)八重」をはじめ「保科
正之」、「佐川官兵衛」、「秋月悌次郎」、「菅野権兵衛」、「ヘンリー・スネ
ル」、「西郷頼母」、「山川浩」、「山川健次郎」、「河合継之助」、「蒲生氏
郷」、「瓜生岩子」、「奥平謙介」、「小栗上野介」、「松江豊寿」など、私には涙
なくしては語れないほどの人物が列挙できるほどです。「もっともっと歴史を知
れ!」と叱咤される契機が今年の「150年」だと思います。

11月4日(日)、会津はめっきり冷え込んで、シャツだけでは寒さをしのげずにジャ
ンパーを欠かすことが出来なくなりました。「鶴ヶ城天守閣内見学や、「茶室・麟
閣」、「秋月悌次郎詩碑」、「司馬遼太郎文学碑」、「西郷頼母邸跡」、「土井晩
翠・荒城の月歌碑」などを巡って来ました。特に鶴ヶ城域内には紅・黄葉の最盛期
で、何処も色とりどりで、白壁の鶴ヶ城天守が一層映えるようでした。特に本丸跡の
ベンチで休憩中にお会いしたご夫婦は、暇さえあれば会津地方をきめ細かく巡ってい
るそうで、私の好きな秋月悌次郎の「有故潜行北越」の「会津の三絶」(会津の代表
的な七言絶句)についてもよくご存じで、しばらくはご高説を拝聴しました。ご夫婦
で勉強会に通っているということで、さすがに会津地方ならではの勉強会だなと感心
しました。もっと東京や横浜でも会津や奥羽についての歴史や文化についての勉強会
があれば、と思います。私が「五十里越」の「大島圭介」の「南柯紀行」のことも知
りたい、また実際に昔のように五十里越えもしたい、と話したところ、二人して「紀
行」の内容や出かけたことがある五十里ダムのことを教えて下さったりしました。有
難いことに1時間近くものあいだ話し相手になってくれました。また、山形・鶴岡市
内で見た「絵ロウソク」の店があったこと(東北巡拝報告・その1で報告)から、会
津も絵ロウソクの特産品があったはず、との話しでは二人に「絵ロウソクのイベント
が毎年2月に鶴ヶ城内や御薬園ほかの観光地でも開催される」と教えてもらいまし
た。絵ロウソクの店が集まった市内の地域も教えていただきました。またの機会に是
非出かけたいと思います。





●「磐梯とくいつ文化祭」&「慧日寺跡再訪・拝観」

磐梯山慧日寺資料館(磐梯町広報):  

http://www.town.bandai.fukushima.jp/site/enichiji/enichiji_siryokan2018.html
 

・H30年7月30日金堂再建・薬師如来開眼(磐梯町広報):  

http://www.town.bandai.fukushima.jp/site/enichiji/20180730_fukugenkansei.htm
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去る7月30日の金堂再建供養には出掛けることが出来ませんでしたが、大地が紅・黄
葉に染まるこの時期に一人で再び足を運び、お寺と仏さまを拝して来ました。

11月5日(月)、朝方の厚い雨雲にも関わらず天頂は抜けるような青空、天気好天に
なると思い、勝手知ったる?磐越西線磐梯町駅」で降車し、ひとり駅舎を抜けま
す。昨秋の「芸大駅前工房」跡を左手に眼にして、約15分の歩きです。民家の間を抜
けると正面に「慧日寺跡」です。入口の小屋には昨秋いろいろお世話になったおばさ
んが姿を見せていました。

一目で見渡せる境内跡地は朝日に明るく輝いていました。昨秋と異なるところは、再
建「金堂」内に大きな帆布による仏さまの等身大写真ではなく、実際の仏さまが祀ら
れていることです。史跡職員は7月30日の行事のことを縷々教えて下さいました。金
堂前では町長や地元の関係者の挨拶の他にも、「東京芸術大学」澤和樹学長のバイオ
リン演奏、「真義真言声明三宝会」の僧侶による声明公演が行われ、公民館での完成
式典・祝賀会では「東京芸術大学」薮内教授、興福寺・多川貫首の挨拶などがあった
そうです。また5月には、地元の雅楽愛好家の集まり「会津天雅会」の方々による
「春の雅楽」公演会で、「越天楽(えてんらく)」、「五常楽(ごじょうらく)」、
蘭陵王(らんりょうおう)」などが演奏されたそうです。



「慧日寺」は平安時代初期に、南都・興福寺の僧・「徳一」(とくいつ=徳溢)が会
津へ来て開いた寺院で、徳一はここを拠点にして東北地方へ仏教の教えを広めようと
したようです。会津では古くから磐梯山に対する山岳信仰が根深く、その上に徳一以
降の天台僧などの努力などで南都仏教や密教の教えが受け入れられたようです。磐梯
山から西へ伸びるなだらかな山稜の「古城が峰」(標高1,200m程度)の南麓に広が
る緩傾斜地(標高500m程度)の一角にいくつもの堂塔や寺院が建てられたのです。
少し先の小高い丘(道の駅がある)からは眼下に会津盆地が見渡せる場所です。発掘
調査では中心伽藍である「中門」、「金堂」、「講堂」、「食堂」、「仏堂」などの
建物跡の礎石や側溝、石畳などが明らかになり、これまでに中門、金堂が復元再建さ
れています。「講堂」、「食堂」は礎石が整理され、綺麗に確認出来るようになって
います。調査では南北の中軸線上に南から中門・金堂・講堂・食堂が並び、講堂と食
堂の間の一段高い場所に「中堂」があることが判明しており、中堂の後に「三重塔」
が建っていたことも判りました。おそらく当時は仏教拠点として布教活動以外にも、
多くの僧侶たちの修行の場だったのでしょう。資料にある「絹本着色慧日寺絵図」
南北朝時代室町時代初め、現恵日寺蔵)にはそれらを物語る寺院の壮大な慧日寺
の様子がうかがえます。絵図の周囲には寺院建物だけではなく神社の建物も認めら
れ、「磐梯明神」をはじめとした神仏習合の様子が判ります。



すっかり秋色に染まった山域は、叢林に囲まれた一角に慧日寺跡地の一角だけが開か
れた場所で、建立時代の多くの資料をもとに首っ引きで考えてまとめたのが現在の建
物建築に結実しているのです。再建「金堂」は南面を正面にして七間四間の規模で、
中央間のみが11尺(3.3m)、ほか四間が7尺(2.1m)観音開き板扉で、左右の二間
のみが腰高の「連子窓」になっています。また東西は最初の一間に観音扉が設けら
れ、ほかは板壁でふさがれています。基礎は層状に積み上げた切石の低い基壇で、基
壇は側柱(かわばしら)から六尺(1.8m)までの軒下までを支えています。床面は
絵図に膝位置ほどのところに「長押」(なげし)が施されていることから、「板床張
り」を推定しています。建物周りに礎石や穴跡などが無いことから、「縁」(えん)
が無かったものと考えられているそうです。北国で冬季の積雪や風雨を考えると合点
がいくものということです。

屋根は当初の建物のものは「寄棟造」か「入母屋造」かが不明ですが、徳一の育った
南都の寺院や会津地方の中世建築に「寄棟造」の仏堂などが多いことから、寄棟造の
屋根を採用したそうです。葺き材は、発掘調査では周囲から瓦が一枚も出土していな
いことから、植物性の材で葺き材が使用されたものとの判断で、檜皮葺き(ひわだぶ
き)は材料入手に困難であったと思われることから、「茅葺」(かやぶき)は、地理
的にも現在の同地域の寺院でも用いられていることからも一般的ですが、中世には普
及していなかったと考え、同地域の建物に多い「栃葺」(とちぶき)を採用したとい
うことでした。屋根下の堂塔の組み物は「三手先」(みてさき)が普通ですが、地域
の降雪の多さを考えると荷重が大きく、構造上軒先を柱筋から出さない組み物「平三
斗」(ひらみつど)や「大斗肘木」(だいとひじき)だっただろうと考えられるとい
うことです。金堂内は丈六の本尊像が安置されることから、屋根裏は平坦な組入れ天
井ではなく、傾斜して立ち上がる化粧屋根裏天井としています。

中央伽藍といっても金堂を囲む廻廊あるいは築地塀が無く、金堂前庭には広く一面に
石が敷かれていますが、畿内寺院の石畳みなどとは違い、大きな粗い大きさの雑多な
石の敷き詰めで、全く平坦ではありません。また金堂裏には、講堂跡、食堂跡が礎石
を明らかにして整地された跡地に仕切られています。



復元再建された金堂は、朝の弱い陽射しに赤くきれいに映えて観えました。周囲の林
は紅・黄葉がいっぱいで、その中央に金堂が静かに、朱の色調を抑えた堂の柱や扉は
格式の高い感じのお堂に出来上がっています。昨秋に拝した時と変わらず堂々とした
それでいて優雅な雰囲気のお堂です。畿内などの大寺院のお堂のような瓦葺などの
重々しい艶やかな感じの大きな屋根でないことが、落ち着いた静かな雰囲気になって
いるのかもしれません。それでも金堂は復元再建されてからすでに10年を経ているそ
うですが、ほんの最近出来たかのように綺麗です。

慧日寺金堂の本尊は、中央に薬師如来坐像、向かって右に脇侍の日光菩薩(立)像、
左に月光菩薩(立)像の「薬師三尊像」でした。寛文5年(1665年)に記された「陸
奥国会津河沼郡恵日寺縁起」(恵日寺縁起)によれば、慧日寺は大同2年(807年)に
建立され、「丈六・薬師如来像」、脇侍の日光・月光菩薩像、四天王像などの諸像が
安置されていたそうです。

その後、創建時の本尊は南北朝時代ごろまでには失われたものと思われ、「会津旧事
雑考」の観応元年(1350年)の条に慧日寺の薬師像を安置したとあり、この頃までに
再興したと考えられます。さらに応永25年(1418年)にはお寺は全焼しており、先の
縁起には金堂、僧房などことごとく焼失したと記しています。観応元年に再興された
仏さまはこの時再び失われたのでした。その際に薬師如来像の持物の薬壷は、焼失を
免れたということです。史跡の隣の「恵日寺」本堂には「鉄鉢」が奉納されており永
享7年(1435年)の銘記があり、この時分に金堂及び薬師如来像が復興されたのだと
いうことです。その後伊達政宗会津を攻め天正17年(1589年)にお寺に火を放ち焼
失したが、金堂は兵火から免れたということです。寛永2年(1625年)にも焼失し、
万治元年(1658年)頃には薬師如来像の修復完了し、その後の正徳2〜3年(1712〜13
年)には大規模に修復が行われ、本尊薬師如来像以下の諸像(脇侍・日光菩薩像、脇
侍・月光菩薩像、十二神将像、磐梯明神像、賓頭盧像、大黒像、天神像、弘法大師
像、徳溢大師像など)の再興が成就し光背や台座も完成して、正徳4年(1714年)に
開眼供養が行われました。「慧日寺本尊開眼供養文書」には光背・台座を含んだ総高
が二丈(6m)になったと云われます。同時に脇侍の日光・月光菩薩像も新たに彫刻
されたのです。さらに供養文書には「十二神之檀」を新たに造ったとあり、十二神将
像専用の檀に12体の神将像がこの上に安置されたのでしょう。供養文書にはこのよう
に再興造立した仏像が21体にもなり、壮大な寺院堂宇となったようです。このように
慧日寺は幾度となく火災や災害に遭いながらもその都度復興してきました。ちなみに
薬師如来像の薬壷が二度にも火災を免れたという伝承は、この地域の信仰の深さの現
れと云われているそうです。さらに最後と思われた江戸時代に再興された薬師三尊像
も明治5年(1872年)の火災によって金堂と共に焼失してしまったのです。



幾度となく失われた金堂内の彫像は、その姿を推定は出来ても具体像は描けません。
そこで会津地方や東北各地の9〜10世紀ごろの彫像を子細に見比べ時代傾向を検討し
て、創建時の慧日寺の諸仏の具体的な姿をイメージしていったのです。その検討メン
バーは縁のある寺院あるいは関係する研究機関や大学の研究者などでしたが、そこに
金子啓明前館長や長岡龍作教授や薮内佐斗司教授も加わっていました。会津地方の現
存作例を対象・参照し、そこからイメージを具象化していくこととなりました。1.
勝常寺薬師如来坐像及び両脇侍立像ほか12体の仏像群。 2.上宇内薬師堂薬師如来
坐像ほか伝十二神将像(四天王像との可能性も)。そして各寺院の縁起や「新編会津
風土記」、「会津旧事雑考」、「弘法大師行状集記」などの古文書に記載されている
関係個所の内容を抜粋し、仏さまの分厚い体躯や重量感溢れる肉身部の像態、二重ま
ぶたや切れ長の眼差し、相貌、通肩という着衣形式、頭部肉桂部分、奥行きの狭い脚
部の組み方、台座の形式、脚膝部の縞の細かい彫りの深い翻波式衣文の状態などな
ど、中央寺院の平安時代初期の仏像とも比較しながら、具体的な姿を絞り込んでいっ
たそうです。記録による「丈六」像とは像高が1丈6尺、すなわち立った姿が1丈6尺
(約4.8m)ということで坐像ではその半分の8尺となり、約2.4mとなります。今回
の再興復元は、金堂の大きさから丈六像ではなく若干一回り小型の「周丈六」像とい
うことです。この寸法は丈六の4分の3程度になり、実際の再興復元像の寸法は像高1.
9mとなっています。ちなみに台座床面から光背頂上部まで約4.1m、台座面上から光
背頂上部まで約3.0mとなっています。



私は、昨秋、ちょうど今時分に東京芸大が「磐梯町駅」前に設けた「駅前工房」に、
薬師如来像の制作をしている様子を訪ねたことがありました。集いの会のブログにも
投稿したことがありましたが、金堂内の作業場では顔部の最後の仕上げ作業をしてお
り、すでに身体上半部、光背、光背の光脚、台座、裳懸け部、脚膝部、手指部、螺
髪、光背化仏などが綺麗に素地仕上げが出来上がっている状況でした。それからいく
つもの工程、彩色、古色付けを経て今般4年ほどかかって、先に完成していた金堂に
安置されたのです。あとは薬師如来坐像の1体のみでは寂しい金堂内ですから、本来
の姿であろう両脇侍像の検討、制作、安置が出来ることを期待したいところです。い
ろいろな調査・検討によっては十二神将像も考えられるかもしれません。あるいは護
国の観点でいけば四天王像かな、とも思い廻らしてしまいます。



金堂を辞してから「徳一廟」や「薬師堂」や隣の「恵日寺」の本堂の特殊な形状をし
た屋根の様子を拝して、「戒壇跡」、「龍が沢湧水」は昨秋見学しているので省略
し、その先の「磐梯山慧日寺資料館」に向かいました。資料館の周囲は紅・黄葉の
真っ盛りで、心を奪われるほどの鮮やかさです。資料館内では昨秋と同じような様子
ですが、夏からの慧日寺での行事の写真パネルでの紹介がいっぱい掲示されていまし
た。奥の展示室に、慧日寺の薬師如来坐像の光背化仏(7体)のうちの4体の模刻があ
り、化仏の裏側の光背取り付けの細工までが間近かに観られました。これも東京芸大
の学生の作品か?表示が見当たらなかったです。受付カウンターで、慧日寺のシンポ
ジウムの記録がないかを伺ったところ、磐梯町教育委員会が小冊子を発行していると
いうことで、紹介してもらい入手しました。



去るH27年10月には、慧日寺近くの「磐梯中学校多目的ホール」にて「歴史的まちな
み創生シンポジウムー慧日寺金堂の薬師如来像に迫る」が開催されており、第1部の
基調発表と第2部の質疑応答が行われました。

基調発表:

1.「古代の薬師如来像について〜その造形と特徴〜」金子啓明(当時・興福寺国宝
館長)

2.「みちのくの薬師如来〜信仰と造形〜」長岡龍作(東北大学大学院教授)

3.「慧日寺金堂の歴史と仏像〜薬師如来坐像再興の変遷〜」若林繁(東京家政大学
教授)

4.「慧日寺金堂薬師如来復元研究の現場から〜見えてくること・仏像技法史の側面
から〜」薮内佐斗司(東京芸術大学大学院教授)

私は、今回シンポジウムの詳細についての磐梯町教育委員会編集・発行の小冊子を入
手しました。4名の方々の講演内容と随所に挿入された説明に合わせたカラー画像
(講演時に画面投影して紹介?)と古文書資料などと、質疑応答の一部始終について
質問点と先生方からの個々の回答や説明など、かなり子細にわたって記載されていま
す。

薬師仏の検討委員会では、「慧日寺の薬師仏はどういったものであったのか?」、
「復元制作するためにはどういうものでなければいけないのか?」ということを数回
の検討会で討議した経緯も紹介しています。



また、市内の県立博物館では10月24日(水)に開催の「会津×奈良シンポジウム」で
薬師寺長老や西山厚・手塚山大學教授の出席があり、両市の交流の歴史について話し
合いがあったそうです。



もう一つの磐梯町発行の小冊子「史跡慧日寺跡金堂内復元展示物 完成記念」は、7
月30日の金堂薬師如来像復元開眼に際しての小冊子で、県知事、町長、多川俊映・興
福寺貫首、松久保秀胤・薬師寺長臈、森清範・京都清水寺貫主網代智明・室生寺
主、薮内佐斗司・東京芸大教授の挨拶とともに、薬師如来坐像の記録による再興の歴
史や彫像の詳細採寸と構造、復元完成までの工程説明(カラー画像付き)が掲載され
ています。

森清範・京都清水寺貫主の挨拶の中に、『「私聚百因縁集」という書によると、大同
元年(806年)に「奥州会津石梯山(いわはしやま)に清水寺を建立す。会津大寺こ
れなり」とあり、当初清水寺と号し、のちに弟子今与(こんよ)という僧に和歌一首
を添え授けたといいます。その歌に、“縁あらば我また今与石梯の山の脚(ふもと)
の清水の寺”(我また来む世は磐梯の山の)と詠まれております。まさに慧日寺は私
ども京都清水寺と清らかな水の縁で結ばれた寺であります』とのことが紹介されてい
ます。



徳一の空海最澄との「三一権実論争」についても、資料館で昨秋にお会いした学芸
員の方に再度お話しを伺いました。昨秋頂いた図書の疑問点などを伺い、もやもやと
した頭の中がすっきりした感じでした。やはり自分一人での読書だけではイメージで
きないことが、一言でもお話しを伺うと分かった気持ちになるのは不思議です。

磐梯町駅まで戻る途中に「道の駅ばんだい」に寄り道して、そこからの会津盆地に夕
方の陽が傾く淡い紅い山並みと天空全体を覆う薄雲が綺麗で、澄み切った空気が身体
に沁み込むような感じが気持ち良く、しばらくは熱いコーヒーを飲みながらのんびり
としてしまいました。昨秋に訪れて以来、1年ぶりの慧日寺跡・資料館の再訪でした
が、昨秋訪問の模様は当時の会への投稿をご確認くだされば分かると思いますが、ど
のような理由でこの地に僧徳一が寺院を建立したのかをもっと知りたく思います。盆
地を望む緩傾斜地で、周囲は何もなくお寺自体も何もない場所ですが、当時の壮大な
寺域に多くの僧房などが立ち並ぶ様はどのようだったのか?それらが跡形もない現在
の寺域は、畿内などの寺院と違って何故か落ち着く、心なごむお寺に感じる場所で
す。



メーリングリストが使えるようになったら試験的に会津若松&慧日寺関連の画像
や、羽黒山神社関連の画像を送ってみたいと思います。とりあえずこれまで私が「ア
ルバム」に掲載したいくつかの展覧会ポスターや、書物から転載した画像など、容量
軽減のための削除作業から始めます。





●東北歴史文化講座—東北6県の未知なる魅力を学ぶ時間—「山形と福島の歴史を知
る」開催。

東北にこそ未知なるおもしろさに満ちたこの国の魅力が詰まっているのではないか?
長い歴史の中で培われてきた東北の文化を多角的な視点で捉えることで、知られざる
日本を再発見。11月、山形と福島のさらに奥を知る、新たな好奇心の扉が開く。とい
うようなキャッチでパンフに紹介されています。有料、事前申込終了。

ちょうど私が最近出かけた羽黒山出羽三山神社と今回の会津若松戊辰戦争につい
ての2連発の講演会です。ナイスタイミングです。

・東北歴史文化講座案内HP: 

https://www.jreast.co.jp/tohokurekishi/ 

JR東日本広報: 

http://www.jreast.co.jp/press/2018/20180809.pdf#search=%27%E6%9D%B1%E5%8C%97
%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%96%87%E5%8C%96%E8%AC%9B%E5%BA%A7%27 

2018年11月23日(金・祝) 秋葉原

第1部・山形:12:00開場、13:00開演(15:00終了予定)

「感じる知性が導く修験道への扉—出羽三山に生きる羽黒山伏の辻説法—」星野文紘
師(羽黒山伏—冬の峰百日行)

第2部・福島:15:30開場、16:30開演(18:00終了予定) 

「古戦場に秘められた会津戦争の真相—明治に花咲かせた会津人の「義」のこころ
—」石田明夫氏(歴史家)





2108年11月7日  AM0:30  Tak