孤思庵の仏像ブログ

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7/12Takさんからの投稿 「会津地区巡拝報告。」②


(Takさんからの投稿 「会津地区巡拝報告。」① の続 )
7/12Takさんからの投稿 「会津地区巡拝報告。」②



福島県立博物館

正面入り口に、「徳一菩薩坐像」(勝常寺像・模刻)と「薬師如来坐像」(勝常寺尊・縮小摸刻)、「旧山田寺仏頭」(興福寺像)が出迎え、撮影歓迎となっていた。
会場は大きく「興福寺の寺宝」と「徳一と会津」の2コーナーに分かれており、興福寺コーナーでは東金堂安置の「四天王立像」(国宝、2体、多聞天像、広目天像)、維摩居士坐像」(東金堂、国宝、定慶作、〜7/15))、「法相六祖坐像」(国宝、2体、善珠像、常騰像、康慶作)や「慈恩大師画像」、「春日寺社曼荼羅図」、護法善神扉絵」、「成唯識論」、「細字法華経」、「興福寺流記」など。徳一と会津コーナーでは「三鈷杵」、「慧日寺絵図」、「十一面観音菩薩立像」、「十二天図」「釈迦十六善神像」、「四天王立像」(重文、2体、勝常寺像、増長天像、持国天像)、「吉祥天立像」(重文、個人蔵)、「慧日寺旧蔵印影」など。個々の展示作例については私のノートにはいろいろと書き込んでいるものの、ここでは省略。

展覧会場を退出してからは、しばらく資料室やショップで関連資料や書籍を閲覧し、かなり専門的な書籍などを手に出来たが、入手には及ばずだった。



鶴ヶ城

天守閣まで登り外縁を四周巡り、磐梯山のくっきりとした姿を撮影したりしてゆっくりした。天守の各層には、会津藩の重役武士や女性の活躍など、山本八重だけでなく多くの人々の苦労と覚悟を説明している写真パネルや解説パネルがそこかしこに展示されている。一つ一つ眼を通していくとそれなりの時間がかかった。天守最上層は四周開け放たれており、相当な風が吹き付けて帽子が飛ばされるくらいの風で、歩くのにもひと苦労だった。それでも風景はくっきりと綺麗で満足だった。天守閣最上階では入場者も少なく、暇そうにしていた女性職員としばらくお話しをした。なんと私の話しや諸々のことを小さなメモ帳に筆記し始めたので、驚いたり感心してしまった。
歴史や寺社仏閣、宗教について関心があるということで、わずかな他愛ない事柄でも勉強になるという勉強熱心な職員だった。


7月11日(木)夜半からの雨音も止み、早朝から曇天ではあるが眺望良好。只見線磐越西線で行ける鉄道沿線の寺社仏閣を選んで、幾つかの寺院を訪ねる。昨年も同じように巡拝した経緯があり、交通不便だが止むを得ず、地方での著名な寺院、既に昨年拝観済の寺院は敬遠して少し珍しそうな寺院を目指した。実際に訪れてみないことには分からない貴重な史跡や寺院が眠っているもので、面白いが私だけの独自の評価では公開するに当たらないものもある。今回は事前調査時の評価に似合わないものが多く、チョット期待外れだった。疲れたこともあり、メモもあまり取らずに終わった寺院もあり、今回の拝観報告を省略する。でも、行く先々でひなびた里山や丘陵地でのいろいろな草花の咲き乱れるさまが圧巻な場所が多く、眼を奪われることが多く、癒しというのはこういうことだと感じた。日が落ちてから帰宅のために新幹線に飛び乗った。


●7月13日(土)〜15日(月)

早朝から奈良行き予定。興福寺佛教文化講座、奈良博「法徳寺の仏像」展覧会拝観、その他寺院拝観予定。





十津川村天川村、曾爾高原

『夜間、ある不時の来訪者からの「十津川郷の者だ、坂本先生は在宅か」との申し出に、醤油屋「近江屋」の下僕は二つ返事で2階の下宿者に来客を伝えようと、階段の手すりに手をかけたところを、幾人もの男たちが下僕の背中を切りつけ、階段を押し上った。不意を突かれた「坂本竜馬」、「中岡慎太郎」は狭い部屋で応戦する間もなく惨殺された。』ドラマでもおなじみのもっぱらのシーンだ。その時の来訪者の「十津川郷」、「十津川藩」が気になる。「司馬遼太郎」も注目していた十津川藩(名ばかりの京都藩邸を持つ)を名乗る理由が史実では明らかになる。当時それほどに山狭部の食糧困窮するものの、でも「天領」十津川藩、藩士(自分たちで農民ではなく士族だと自負して名乗った)は注目されており、維新時期にも「天誅組」の舞台とな
り、多くの農民士族が関わることとなった。私は、最近には有史以来の歴史の為政者により作られた「十津川共和国」、「滅私奉公」の歴史を知りたくて、奈良時代からこの地域の歴史を掘り起こしている最中だ。

「金光明最勝王経」の「夢見金鼓懺悔品」を典拠に、「會津八一」は興福寺西金堂に安置されていた「華原馨」と「金鼓」について説明を行なっており、論文に金鼓について記している。古くは會津八一が「大江親通」が「七大寺巡礼私記」に「其金鼓上、円盤状台座、合掌菩薩坐像、動揺流転、向方不定也」についての記述があることを伝える。これは「阿修羅像」はじめ「八部衆像」ほかの慈悲面相の遠因になる。また、「小林剛」も「興福寺流記」の「宝字記」を引用し、「…疑問」という論文に金鼓について記している。そして「福山敏男」によって現代の通説が出来上がっているようだ。私が、現在の興福寺国宝館安置の「華原馨」には無いものとして気になるものの一つとして流記にある「坐白石一面」と「基遠川白石云々」については、福山敏男は「造仏所作物帳」の記事を引用して、「十津川・洞川」辺りの河原で石工を擁して切り出され奈良・平城京に運ばれた石材の一部に当たるという。

以上長々と記した「奈良県最奥部」の「大峯奥駈修験道」はじめ、「十津川村」、天川村」、「室生寺古道から曾爾高原火山群へ、そして赤目四十八滝へ」という空間は、私がだいぶ以前の中年おじさんの頃からの注目・憧憬地域だったこともあり、近いうちに体力のあるうちに脚を運ぶことを思い立って、最近になって登山ルートなどを考えることとした。今年中に実現が困難であれば来年中には出掛けたいものだ。五輪にはあまり関心が無いので、五輪開催中に出掛けるとあまり混雑していなくて良いのかもしれない。もっとも当該地域にはあまり外国人も脚を向けないと思うので、いつでも空いているかもしれないが…。



ちょうど今しがた、NHK・BS101チャンネルで「にっぽんぐるりええトコ」という深夜番組で「山のずっと奥へ、行ってみたい」というテーマで「奈良県十津川村」、奈良県五条市」、「奈良県下北山村」の探訪取材を放送していたので、このメールを記しながら横目で見ていた。これからの計画に役立つかも。





2019年7月13日  AM0:30    Tak



★当初メール送信のシステムの都合か?で、文章に段落に不備があるのに気づきました。しかし、転載時に当方に余裕がなくて、やむなく その段落不備のまま、転載掲載してしまいました。
遅ればせながら、やっと本日7/19に修正しました。かように修正作業が遅れまして失礼しました。」孤思庵