孤思庵の仏像ブログ

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7/12Takさんからの投稿 「会津地区巡拝報告。」①


7/12の Takさんからの投稿①



●福島・会津地区巡拝:

7月9日(火)、私は早朝に、『行無輿兮帰無家、國破孤城乱雀鴉、治不奏功戦無略、微臣有罪復可嗟、・・・』(『戊辰150周年プレ事業冊子発刊「信念を貫き通した会藩士秋月悌次郎」』、「有故潜行北越帰途所得」北越潜行の詩冒頭)と『落花は枝に還らずとも』(中村彰彦著、新田次郎文学賞受賞作、中公文庫、上下巻)、そして『徳一菩薩と慧日寺』(磐梯町教育委員会発刊、1・2巻)を持って、だいぶ嵩張る荷物になったが會津の地へと出掛けた。

天気予報では雨模様の時期だったが、幸いにも旅行中はほとんど曇天あるいは晴天で、雨には遭わずに快適な行動が出来た。列車内からはあいにく磐梯山も雲の中だったり、頂上部分が雲に隠れたりで、満足には姿が拝せなかった。馴染みとなった「磐梯町駅」で降車し、のんびりと「慧日寺」に向かった。



史跡・慧日寺跡:

県道の先の「薬師橋」の袂に「史跡・慧日寺跡」と刻した大きな石柱が目印になっているが、今まで気が付かなかった興福寺・多川俊英貫首の筆になるものでした。橋の先は一本道で慧日寺跡に突き当たる。主要な寺域範囲はここ数年の馴染みとなった場所で、「徳一廟」の先、「今与供養塔」、「磐梯神社」と「不動院龍宝寺不動堂」、「乗丹坊供養塔」など、これまで工事中だったりであまり脚を向けなかった寺域まで出かけてみた。入口の小さな受付では、2人の女性職員が拝観受付をしていたが、昨年秋の拝観時にもお会いしていたので、しばらくお客様が見えるまで、と云っても小一時間あったがいろいろとお話しをして過ごし、暇つぶし兼業務妨害まがいなことをして過ごしました。復元「金堂」内では昨年夏に復刻落慶薬師如来坐像」の姿をいろいろなアングルから撮影し、制作期間の記録ビデオや写真パネルを幾度も拝見した。史跡の先の「旧本坊・恵日寺」の山門と本堂に向かい、これまでお寺の方にお会い出来なかったが、今回は初めてお寺の方(女性)にお会い出来た。そこでまたしばらくの立ち話しで、私が以前から気になっていた本堂の屋根の「向拝」というか
「庇」の金板葺き屋根の形状が特異なことを伺ったが、形状の由来は不明とのことだった。豪雪地域のお寺なので、積雪対策としての屋根の形状という考えが出来るのではないかと思う。様式として出来た形状ではないと思う。



磐梯山慧日寺資料館:

その後に隣の「磐梯山慧日寺資料館」を訪れ、「磐梯町教育委員会学芸員」という山中氏にお会いして、しばらくの歓談や質問に対応していただいた。山中氏は名刺に文学博士、日本考古学協会会員ということで、考古学・発掘調査を中心に活動をされてきたそうで、明日は喜多方市方面での調査があるということだった。彼の話しのなかで、徳一は厳密には興福寺僧とは言えずむしろ東大寺学僧ということで、兼学道場としての学僧で、法相宗でも大きく2系統の教えがあるうちの1系統に属していたのではないか、ということまで教えていただいた。徳一が会津地域から福島北部に寺院創建などにより、大きな影響力を持って仏教信仰を広めた後のことや、空海最澄との宗教論争を超えたつながりがあったから、徳一以降の天台、真言の浸透、勢力拡大につながったということが彼の主張だった気がするが、その通りだっただろう。ここでは複雑な話しなので伺った内容については省略する。彼のおかげで徳一の後継者となった「今与」の活動や慧日寺の「衆徒頭乗丹坊」のことも知ることが出来た。彼には史跡+資料館+県博入場券をそろえての料金割引やらドリンク割引などのサービスがあったり、期限なしの次回入場料割引などの特典を教えてもらった。しかし知るのが遅かった、残念。資料館のパンフレットによると、6月には県博の塚本麻衣子学芸員が講演済で、7月20日(土)には東北大学・長岡龍作教授の講演会が予定されているようだ。長岡教授の講演会は都合がつかず聴講不可で残念。

資料館退出後には、毎回立寄る「龍ヶ沢湧水群」、「戒壇跡」を巡って下山し、「道の駅」には寄らずに磐梯町駅へ戻った。曇天の一日約6時間の滞在・拝観だった。会若松駅に着いた頃に小雨が降り始めた。それでも行く先々には色とりどりの多くの花が咲き乱れており、散歩にはもってこいの一日を過ごせた。





7月10日(水)、早朝から雲一つない上天気で、快適な出発となった。「鶴ヶ城」方面に脚を運び、県博会場までは、「西郷頼母邸跡」、「山本覚馬新島八重生誕地碑」、「日新館・天文台跡」、「山鹿素行生誕地・直江兼続屋敷跡」、「蒲生氏郷墓」などを歩いて巡り、午前9時30分前に「福島県立博物館」へ向かった。ここまでにもかなり歩き回った感じだ。これまでにも当地を訪ねた際に観た「司馬遼太郎文学碑」、「秋月悌次郎詩碑」、「新島八重像」、「土井晩翠胸像」などを眼にしてから県博に入る前に、散歩中の恰幅の良い高齢の男性にお会いして、長話となったので途中から「循環バス・ハイカラさん、あかべえバス」の停留所ベンチで二人でおしゃべりとなった。地元の方で会津若松市役所の建設関係の部署にお勤めだったということで、市内の詳しいお話しや歴史、特に戊辰戦争時の主な藩士の活動の事など、色々と話しの展開が早く、なかなか話しについていくのが大変だった。特に私が心酔してい秋月悌次郎については、「北越潜行の詩」の時の悌次郎のこと、「長州藩士・奥平謙輔」との親密な間柄、鶴ヶ城落城明け渡し式の取締り、その際に奥平に託した若き山川健次郎はその後教育界での活躍で、京都帝国大学東京帝国大学総長を歴任する
ほどの教育者になった事なども。悌次郎は新政府から恩赦となり請われて東京大学備門から熊本第五高等学校教授となり、小泉八雲ラフカディオ・ハーン)に「神のような人物」と評され、その後の五高ではハーン、夏目漱石と並ぶ名物教授として知られているなど、会津以降の明治維新のことまで、彼からは細かい話しまでいろいろ
とご教示頂いた。そして会津は「河合継之助」との関係も切り離しては語られない人物ということで、私の知らないこともいっぱい教えて下さったが、メモも取れずにいたので、改めて彼の話したことを反芻して自分で調べなくてはと思っている。昨秋の鶴ヶ城内でお会いした老夫妻とのお話しが思い浮かび、話しの内容も似通ったものもあったので、地元の方はやはりよく歴史、特に戊辰戦争の頃についてご存知だと感心した。おかげで約50分のおしゃべりタイムに費やしてしまったので、県博入場時間は10時30分となってしまった。

(Takさんからの投稿 「会津地区巡拝報告。」②に続く)



★当初メール送信のシステムの都合か?で、文章に段落に不備があるのに気づきました。しかし、転載時に当方に余裕がなくて、やむなく その段落不備のまま、転載掲載してしまいました。
遅ればせながら、やっと本日7/19に修正しました。かように修正作業が遅れまして失礼しました。」孤思庵