孤思庵の仏像ブログ

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Takさんの投稿  5/29 5月中旬からの活動報告―その1(龍谷ミュージアム、京博講座)【その上】







●5月17日(金)京都・龍谷ミュージアム因幡平等寺―京に飛んできたお薬師さんー」展:

龍谷ミュージアム公式サイト:   https://museum.ryukoku.ac.jp/ 

因幡平等寺サイト:  http://inabado.jp/rekishi.html 

早朝の京都駅で時間調整をしてから、のんびりと歩いて「西本願寺」へ。大きな通りから「飛雲閣」の葺き替えた屋根の一部が塀越しに覗かれました。境内の寺務
所で伺ったところ西本願寺飛雲閣の完成時期は2020年3月、唐門完成時期は2022年3月ということでした。ミュージアム裏手の狭い路地角地の洋風レンガ造り
の「伝道院」を撮影したりしてから「龍谷ミュージアム」に向かいました。開館しばらくして10時過ぎに入場しましたが、入場客は疎ら。ゆっくりと拝観出来ました。

因幡平等寺」は、現在は真言宗智山派に属していますが、平安京の寺院が当初は「東寺」と「西寺」しか官寺として認められていなかったが、次第に形骸化して貴
族邸宅が持仏堂などが出来て来たり、大きな寺院は洛外に創建されたりしてきたものという。因幡堂の由来は「因幡堂縁起」によると、「橘行平」が夢告により因幡
国の「賀露の海」(賀留津)の海中から三国伝来の「薬師如来」の霊像が引き上げたと伝えられ、その後帰京した橘行平を追って、台座と光背を因幡国に残して薬師如来
自ら飛翔して平安京・洛中の橘行平邸の地に降り立ったという話しが載っているという。同時期には「六角堂」なども洛中に町衆の信仰に支えられて戦乱や災
害を乗り越えて来た歴史があるという。創建当初は貴族の私邸から始まり天台宗修験道場として活動した時期もあったということで、記録からは創建以来現在の寺
域を動くことなく貴賤を問わず洛中の観音霊場として信仰を深めているそうです。展示作例では因幡薬師如来と同じ様に因幡国から飛来との伝承のある「延算寺薬師如
来立像」(重文)も併せて展示されていました。今回は初めての大掛かりな平等寺寺宝の公開展示ということで、これまで眼に出来なかった彫像や経巻、絵巻物、十巻
抄などの古文書など、貴重な文化財・美術作例が多数展示されていて、仏教関係に特化した大学ミュージアムの活動を超えた規模と内容の展覧会であり、特にこれま
で多くを公開してこなかった平等寺の寺宝のかなりの所蔵作例が眼の前に出来たことが感激で、満足のいく展覧会拝観だった。

今回の展覧会の目玉の一つである「本尊・薬師如来立像」(重文)について、私は数年前の京都の観光団体あるいは古文化財保存関係の団体が主催する非公開寺院の公
開活動の一環で限定的に公開された際に、初めてお寺に出かけて拝観した覚えがあり、その時に2010年(H22年)秋に発行の「因幡平等寺・図録」を入手して書
棚に持しています。「因幡堂縁起」だけでなく幾つもの仏さまのカラー画像と簡単な解説がついているので、今回の展覧会にはこの時の「図録」を持って出掛けました。



因幡堂縁起」(重文、東京国立博物館所蔵、紙本着色、14世紀): 本尊の霊験と因幡堂の創建を表した絵巻物で、他には「阿娑婆抄」にも記されているが、絵巻
物としては本図が現存最古のものとされる。もともとは3巻になるものだった可能性があったとされる。私も展示作例を間近く拝して観ると、本当に細かく描写されてお
り、色彩も鮮やかで絵構図も面白く観ることが出来ます。他にも寺院で所蔵している絵巻物も同じように色彩豊かで、絵構成も感心させられる立派なものばかりです。

「本尊・薬師如来立像」(重文): 私が以前お寺で拝した際には、窮屈な厨子の中で頭部が厨子天井につけられた布製の「頭巾」?「天蓋」?様に頭巾を被っている
ような姿をしていた印象が記憶に残っていました。今回は仏さまの隣に、」頑丈な厨子が箱の後ろ側に車輪と滑車を取り付けた移動可能な厨子が展示されています。薬師
如来立像は平等寺の創建時期にあった形での逸話で、10世紀後半から11世紀初旬の像態と様式で京都の仏師により制作されたと考えられる。等身大ほどの像高でサク
ラ材と思しき材を使った制作、一木造り内刳なし、木心が外れた制作で背中側に節が3か所も認められると云うことです。仏さまの姿はなで肩で優しく柔和な感じの仏さ
まだが、大粒の螺髪が綺麗に並ぶ頭部や目鼻立ちのすっきりとした面相は風格が感じられます。着衣の衣文も大きな像態だが全体に単純・簡略平易な表現に感じられま
す。前面からの拝観ではかなり量感の豊かな立像のようだが、展示会場で360度ぐるりと巡ってみると意外と胸厚が薄く、腹部のみが急に張り出している姿が分か
る。背中の造りも単純で、ハッキリと大きな木材の節が確認出来たが私が分かったのは2ヶ所で、説明にある3か所のうち1か所は未確認でした。これは造像には不向き
な木材を利用して制作されたもので、縁起の逸話と話しを合わせているのではないか?と推測されます。

阿弥陀如来坐像」(平等寺): 平等寺阿弥陀堂安置の仏さまで、内衣のうえに衲衣をまとい衲衣は組んだ左脚部先まで覆う形状で、着衣の彫りはあたかも慶派の相
当な仏師の腕になるものかと感じられます。左腕は掌を上に膝上に置き、右腕は掌を前に向け第1、2指を念じるもので、金泥、截金、玉眼嵌入となっています。丸い顔
面にふくよかな頬の梁と膨らみから、髪際のウエーブ形状も相まって優しい顔付きが好ましい。像高70㎝ほどの像ですが大きな仏さまに感じます。図録では着衣の意匠
表現に着目して興福寺北円堂弥勒仏像との比較や像底形状についても鎌倉時代前期の慶派仏師の作例に共通する点を指摘し、運慶の次世代仏師の作例の可能性を指摘して
います。

阿弥陀如来坐像」(西念寺): 平等寺所蔵の阿弥陀如来坐像と並んで展示されている像で、ちょっと見では平等寺象の一回り小さな仏さまといった感じだが、平等
寺近くの西念寺の本尊。漆箔、玉眼嵌入、像底上げ底式、納衣を偏袒右肩の形式に着し、髪際の形状も平等寺象に似ているものの、両腕は胸前に突き出しての説法
印を結ぶ。面相は平等寺象ほどにはふくよかでなく、小顔で精悍なすっきりとしたスマート感が感じられます。着衣の衣文表現は、平等寺象ほどシャープで膝脚部の彫り
なども強い彫りや襞表現ではなく、彫りの浅い膝高が薄目で結跏趺坐の下半身部分が上半身に比較して弱い勢いに欠ける感じに見受けられた。このような浅く丸みを帯び
た衣文表現は、名のある慶派仏師の造像作例に似通っているとして、この展覧会の監修者(丹村祥子学芸員)は平等寺象同様に運慶の次世代仏師の作例の可能性を指摘し
ています。

弘法大師坐像」(平等寺): 等身大の大師坐像で、江戸時代の制作という玉眼嵌入の若年から壮年僧の雰囲気の祖師像です。見慣れた大師坐像ですがはっきりと耳
後ろや後頭部、体側での手当ての後が見て取れる。彩色があったはずだが退色して分かりにくい状態で「袈裟」と「褊衫」(へんさん)をまとい裙を着ける。右手は胸
前で五鈷杵を持し左手は左脚膝部で念珠を持する。牀座に坐し、座の前に木靴と左脇に水瓶を置く定例の姿が認められる。この像は、像底の銘によって「仏師康正」が現
世と来世の安寧を願って制作されたことが分かっているということです。1621年(元和7年)に因幡堂執行坊が寄進したとあるそうです。像底の朱漆銘には「七條前
大佛師貮十二代法印康正八十九歳」とあり、銘記は康正の死後に書かれたことが分かるそうです。銘記から康正は運慶・快慶らの鎌倉慶派仏師集団の流れを継ぐ「七條仏
所」に所属し「東寺大仏師」の高位仏師だったようだ。記録では彼の作例として皆さんご存知の「東寺金堂薬師三尊像」が挙げられるという。また胎内納入品について
も「舎利容器」などが納められていたが、容器を納めていた木箱の墨書から呉服商の施主により、亡息の追福のために遺骨などを同じ木箱に納めたとあり、平等寺と町
衆との密な関係が伺い知れる。



ほかにも平等寺の寺宝には、「橘行平坐像」、「釈迦如来立像(清凉寺式)」、「阿弥陀如来坐像」、「如意輪観音坐像」、「愛染明王坐像」、「毘沙門天立像」、
「十一面観音菩薩坐像」、「聖観音菩薩立像」、「大黒天立像」などの彫像の外、「十巻抄」、「陀羅尼集」なども数多く展示されています。また、常設展の仏教思
想、インド、西域の仏教遺跡からの大学所蔵品の展示も貴重な文化財として必見のものが多くあります。

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