孤思庵の仏像ブログ

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Mさんよりの投稿、東博新指定重要文化財展示を見て―水落地蔵の作者推定と追加指定品の展示―

長期に留守をしまして御迷惑をお掛けしました。 只今、帰宅しました。 早々にMさんより  ブログ掲載の依頼がありましたので、 転載します。




54日にお帰りになるのを待っていました。
掲載していただきたい文章を送りますので、ブログに掲載をお願いします。
 
掲載希望の表題
 
東博新指定重要文化財展示を見て―水落地蔵の作者推定と追加指定品の展示―
 
掲載内容
 
417日から56日までの予定で東博8室と11室で平成30年新指定国宝重要文化財の展示が行われています。彫刻関係については文化庁のホームページに解説が載っていることと414日に美術史分科会にて解説を行ったので、展示作品全体に関する感想等は書きませんが、分科会開催以降で考えたこともありますので、展示品1件と追加指定品に関することを投稿します。
 
1)水落地蔵の作者―仏師系統の推定について
11室に展示されている愛知県津島市西光寺木造地蔵菩薩立像(水落地蔵)については、仏教芸術342号(2015.9月)の伊東史朗氏「資料紹介 愛知・西光寺地蔵菩薩像(水落地蔵)の新知見」抜粋を美術史分科会にて紹介しました。その論文では、①解体修理により発見された納入品から文治三年(1187)に勧進を開始し建久四年(1193)までに作られたと考えられること、②康慶作の静岡瑞林寺地蔵菩薩坐像に通じる表現である一方、衣の襞などに動きへの志向がなく初期慶派とは異質であるため、院派仏師の作と推測されること、③修理の結果、華麗な切金と彩色が蘇ったことなどが述べられています。
 
新指定重要文化財の概要については文化庁のホームページ(3/9の報道発表、下記アドレス)に掲載されています。
これによるとこの地蔵菩薩像の作者については「運慶周辺の仏師の手になる」とあり、また、東博11室の展示解説では「厚みのある体型や強い眼差しに鎌倉初期慶派の作風を示す」とあります。
 
このように仏師系統の推定について、仏教芸術誌に掲載された内容と文化庁の説明文の内容が異なるため、どちらが正しいのかと疑問に思っていたところでした。先日東博に展示を見に行った時に、たまたま鎌倉彫刻の専門家の先生と11室でお会いしたため、この仏師推定についてお伺いしてみました。
私が引っかかっていたのは、表情は瑞林寺地蔵菩薩によく似ているのに、衣文表現が平安時代風の穏やかな作風であること、彩色・截金が12世紀院政期の都作(例えば大倉集古館の普賢菩薩や峯定寺の不動・毘沙門など)を思わせる華麗なものであることで、慶派と院派の両方の要素があるように思えたことです。
この専門家の方は2月末に今回の重文指定について審議した文化庁の専門調査会の委員をされている方なので、水落地蔵の指定に至る経緯や審議会の議論についてもよく把握されているはずです。
 
その専門家の方曰く、「運慶の仏像に截金を使うことはない、などと言われたのは昔のことである。運慶作とされる六波羅蜜寺地蔵菩薩坐像にも今は見にくいが截金が多く使われているし、川端家旧蔵、現文化庁所蔵の応保年銘納入品のある毘沙門天には華麗な彩色・截金があるが、慶派仏師の作と考えられている。」(注:応保年銘毘沙門天円成寺に近い中川寺成身院旧蔵で最近では康助・康朝・康慶周辺の作かと言われている)、「この水落地蔵の下半身の衣文も慶派仏師の作として不自然なところはない。」とのこと。
 
更に私が聞いて驚いたのは、「この像は六波羅蜜寺にある平安時代後期の鬘掛け地蔵(定朝作と言われている像)の模刻であることから、最近浜松市岩水寺の地蔵菩薩の納入品から出てきた『慶派仏師の運覚が六波羅蜜寺で作った』という記録と合わせて考えると、水落地蔵も六波羅蜜寺にあった工房で運慶周辺の仏師が作ったと考えられる。運慶願経に結縁している運慶以外の仏師の誰かであろう」とのことでした。
 
東博の展示解説に「図像は六波羅蜜寺像(11世紀、通称鬘掛け地蔵)と同型で、衣の処理などがやや保守的なのは、同像の模刻としての性格に起因するかともみられる。」とあるように、平安時代後期の像の模刻ならば動きの少ない衣であるのも当然であり、また、像表面の彩色や截金は仏師がやる仕事ではなく、注文者の意向によるものなので、慶派仏師の作かどうかとは関係ない話です。私は運慶作の高野山八大童子の彩色が平安後期12世紀の作品とは違うということにとらわれ過ぎていたようです。
 
では、その専門家の方が言われるように建久初年頃(119094年)の慶派仏師の作であるとして、作者としてはどのような仏師が考えられるか? 寿永二年(1183)の運慶願経に名前の載っている仏師でこの像の作者として考えられる人物はいるのかについて考えてみました。
 
快慶は運慶とほぼ同年代(1150年頃の生まれ)なので、建久初年頃には40歳代ぐらい。工匠アン阿弥陀仏銘時代に相当し、同じ地蔵菩薩としてはバークコレクション像と如意寺像があるが、作風が異なるので快慶作とは考えられない。
定慶(春日仏師定慶)は運慶願経には結縁していないが、興福寺東金堂維摩居士像が建久七年(1196)なので同じ時期に活動している。作風が全く異なるので定慶作ではない。
運慶願経に名前の載っている宗慶、実慶、源慶はどうか。現存作品である埼玉保寧寺阿弥陀三尊、函南仏の里(旧桑原薬師堂)阿弥陀三尊、修善寺大日如来、吉野如意輪寺蔵王権現と比べると、水落地蔵はこれらの作品よりも出来が良くて洗練されている。とてもこれらの作者と同じとは考えられない。同じく名前の載っている寛慶にも現存作品(愛知無量光院阿弥陀三尊)があるが、水落地蔵と同一作者とは思えない。
運慶願経の阿古丸=運慶長男湛慶はどうか。建久初年頃には湛慶は1721歳。水落地蔵の作者として不可能な年齢ではないが、雪溪寺の毘沙門天三尊や最晩年の作である三十三間堂本尊千手観音坐像と作風を比べて同じ作者であるといえる積極的な理由はない。運慶の6人の息子のうち次男以下は年齢から見て無理であろう。
では、いったい誰なのか。現存作品がないこの他の仏師なのか。運慶本人は六波羅蜜寺地蔵菩薩坐像と異なる点が多いので除外するとして、他に候補者は誰か?
 
私はここで自分の印象でも似ていると思った静岡瑞林寺地蔵菩薩を再度見直してみたいと思います。上記の仏教芸術342号伊東論文では「康慶作の静岡瑞林寺地蔵菩薩坐像に通じる表現(但し、衣の襞などに動きへの志向がなく初期慶派とは異質)」とされていること、自分自身の第一印象でも瑞林寺地蔵の表情とよく似ていると思ったことから、瑞林寺地蔵の正面・側面などの写真が出ている本(運慶展図録など)を持って再度東博へ見に行ってきました。両者を比較して感じたことは以下の通りです。
 
正面から見た表情は近いが目鼻立ちの彫り込みは水落地蔵の方が浅い印象。髪際線の段差も水落地蔵の方が低い。一方、頭部の側面観では水落地蔵は瑞林寺地蔵よりも奥が深い。瑞林寺地蔵の頭部側面観は縦長であるが、水落地蔵は球形に近い。耳の形は両者似ているが、水落地蔵は耳朶が長く、瑞林寺地蔵は短い印象。正面から見た耳朶の張りは両者とも同様である。耳輪脚は両者とも大きく巻き込み、水平になっている。対耳輪上脚、下脚の形はやや異なる。水落地蔵の上脚は70°くらいで斜め前に向かうのに対して、瑞林寺地蔵では弧を描きながら45°斜め前に向かう。水落地蔵の下脚は1020°の角度で水平よりも斜め前に向かい先端は下向きになるが、瑞林寺地蔵では円弧を描きながら先端は下向きになる。
体部両肩を比較すると、立像と坐像の相違はあるが水落地蔵の方がなで肩であり、瑞林寺地蔵は両肩が張っている。
 
康慶の活動期間としては、記録上は仁平二年(1152)から建久七年(1196)の東大寺大仏殿造像(現存遺品としては同年の東大寺伎楽面)までであり、運慶が1150年頃の誕生なので、建久七年時点では70歳を過ぎていたと考えられます。水落地蔵の作られた建久初年頃(119094年)は康慶の活動期間に含まれています。
ここで私が考えたいのは、水落地蔵の作者として康慶を想定した場合でも、高齢の仏師として総指揮者の立場ではなかったか、ということです。それは興福寺北円堂で運慶が60歳代前半ぐらいで息子6人と一門の仏師を率いて造像を行った例があるからです。北円堂での担当仏師は現存する弥勒仏が源慶、無著・世親が運慶五男、六男ですが、北円堂の仏像の作者は総括の大仏師としての運慶です。これは東大寺南大門仁王像でも同様と考えられます。但し、実際に手を出した仏師の痕跡が部分的に感じられるのも事実であり、一つの例として北円堂弥勒仏の耳と吉野如意輪寺の蔵王権現の耳が極めて似ているので、両方とも源慶がノミを振るったであろうと思えます。このことは2年ぐらい前の三井記念美術館での蔵王権現の展示で実感しました。これと同じことが康慶の場合でも言えるのではないか。水落地蔵を康慶が作ったとしても、実際に彫ったのは誰か一門の仏師でしょう。上に書いた水落地蔵と瑞林寺地蔵の耳の彫り方の違いや頭部の厚みの違いなどは実際に彫った仏師の違いであり、一方表情の類似は水落地蔵が康慶の指導による造像であるために現れたものとは考えられないでしょうか。
 
ここで模刻関係にある六波羅蜜寺鬘掛け地蔵と水落地蔵の体部や衣文表現を比較してみます。MUSEUM620号(2009.6)の六波羅蜜寺の仏像特集(浅見龍介)に掲載されている写真を東博に持っていって比べました。
鬘掛け地蔵の衲衣正面の衣文線は像の左から斜め下に向かって流れるものであり、水落地蔵では左右から正面へ向かって流れるという違いがあります。このことから表情だけでなく、衣文線の形も模写していないということになります。水落地蔵は模刻像と言いながらも、表情や衣の襞などの点で鬘掛け地蔵よりはるかに現実的、写実的な造形と言えます。特に側面から見た厚み(胸や裙裾―足首の位置)で著しい差があります。
一方、水落地蔵と瑞林寺地蔵の衣の彫り方には大きな差があるのも事実です。水落地蔵は建久初年頃という時代を反映した慶派の作でありながら、模刻像であるための穏やかさ、保守的性格を見せる像であると言えます。
 
浜松市岩水寺の地蔵菩薩の納入品が発見されたのは2015年のことであり、今まで出された本や論文で「運慶の工房が六波羅蜜寺にあった」ということと「水落地蔵が六波羅蜜寺鬘掛け地蔵の模刻像である」ということを結びつけて論じたものは出ていません。運慶は奈良仏師の一員であり、奈良の地に作品が多く残されていること、浄楽寺諸像の銘札から興福寺内相応院勾当の文字が出ていることなどにより、運慶や慶派仏師というと奈良を本拠地にしていたと考えがちです。また、ここ12年で転法輪鈔の記載や鎌倉永福寺跡の発掘品、横須賀曹源寺十二神将に関するMUSEUM668号の奥健夫論文「曹源寺十二神将像小考」などで東国での運慶一門の造像に関しての重要性が益々大きくなってきたことも事実です。一方、今後は運慶の工房と京都という観点が重視されていくと思われますが、その研究動向の中で岩水寺の地蔵や今回重文に指定された水落地蔵が取り上げられることも多くなると思います。そういった視点から水落地蔵にはもっと注目してほしいと思っております。
 
2)重要文化財追加指定品の展示について
今回の東博11室の展示では、追加指定品として法華寺の天部像頭部と腕部、名称変更品として本山慈恩寺の釈迦・普賢・文殊が展示されました。従来、追加指定品や名称変更品については報道発表も展示もしていなかったので、今回の展示は異例と言えます。
 
今年の追加指定は次の3件です。
徳島県雲辺寺不動明王毘沙門天に追加 先の仁和寺展に出品したばかりであり、今回は展示しない
法華寺の天部像の腕部→天部像頭部2個に追加 今回展示
吉野金峯山寺聖徳太子孝養像の像内納入文書の一部を追加 納入品は以前から知られていたが、所在不明となっていた。これが発見されたため追加指定した。  今回は展示しない
 
また、本山慈恩寺の釈迦については、阿弥陀として従来から指定されていました。1987年に普賢・象・十羅刹女4躯・文殊・獅子・眷属像3躯が指定された時点で阿弥陀ではなく釈迦と判断され、1991年の京博特別展「院政期の仏像」でも釈迦として展示されましたが、文化財指定名称は今まで変更されませんでした。
 
これらの追加指定情報や名称変更などは8月頃の官報に掲載されるまで公表されることはないため、一般の人が知ることはできません。(官報に出てもよほど注意深く見ていないと気がつかない。)
新指定重要文化財については3月の文化庁の報道発表に出ますので、文化庁のホームページを見れば内容が分かります。追加分であっても新指定と合わせて発表してほしいものです。
 
東博での展示については、今年から追加指定や名称変更であっても「学術的に重要なものは(展示場所に余裕があれば)展示する」ことになったそうです。この方針は今後も続けていただきたいと思っています。
 
以上 Mさんよりの投稿