孤思庵の仏像ブログ

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鳳凰堂阿弥陀光背と その飛天に付いての勉強

画像  【左】最上部の大日如来 【中】胡跪の飛天 【右】 安坐の供養菩薩
 
http://ic.mixi.jp/p/92929d7f77bb4883a106957758fc70da116b87aae4/52f625a2/diary/1921271843_2s.jpghttp://ic.mixi.jp/p/de5c50ae479b355b902edb534e8701d55c017c5e50/52f6261f/diary/1921271843_127s.jpghttp://ic.mixi.jp/p/e2e24297c21fccf00a3270e0f8b34805dab5eca926/52f6262b/diary/1921271843_139s.jpg
 
 
 
 
      「飛天と雲中供養菩薩の相違」                           2014年01月29日  
         「雲中供養菩薩と飛天」の日記を修正してたら・・・   2014年01月30日  
 
                    
上の二つの日記以前に投稿しています。平等院鳳凰堂の本尊阿弥陀如来坐像の光背に付いている飛天の事を書いていますが、今回も平等院鳳凰堂の本尊阿弥陀如来坐像の舟形飛天光背とそこに付く飛天像に付いて、また書きます。

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何度か見ています平等院鳳凰堂、何年か前の最後に訪れた時に気が付いたのは、白毫が以前の木製から水晶製に変わっていたことです。お堂の説明の方に尋ねたら何年か前に変えたそうです。おそらく変えたという事より途中水晶製が欠失し、木製で補われたという事で、それが私がかつて見ていた木製白毫でありましょう・・・それが元の水晶製に戻されたという事ではないでしょうか?

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斯様に詳細部はハッキリしない事が多いのです。ところで今回の本題はその白毫の変更と共にその時気付いたのは本尊阿弥陀如来坐像の舟形飛天光背これが大部分は造像と同時(1052年)頃であることは想像がつくが、細部の補修・後補は定かな知識を持ち合わせません。

しかしその最上部は金剛界の大日に気付きました。浄土思想に大日如来、確かに阿弥陀如来無量寿如来)は密教曼荼羅の中に明観察智として組み込まれていますが、それは西方の昔からの仏として組み入れられたにすぎません。貴族の末法思想、浄土思想の鳳凰堂の本尊に密教の影響は少し奇異に感じられます。
 
 
光背の最上部 本尊頭の真上に金剛界大日像が見えてます
 

しかし鳳凰堂でなしに平等院で見ますと、現在は残っていない創建当時(1053年)から追加された伽藍は(観音像の)法華堂 (1056年)、(金剛界の大日の)多宝塔(1061年)、(五大明王の)五大堂(1066年)、(不動明王の)不動堂 (1073年)という密教系の堂宇が多くが在ったと云う。何よりも創建当時の本尊は大日如来との事ですから、密教(9世紀初頭~)の後に末法思想浄土教(10世紀~)と云うものでなしに、院政期(11世紀末~)の仏教中でも、以前 密教は大きな力を残して共存していたことを知らねばなりません。それは鎌倉新仏教(12世紀中頃~)の時代いやそれよりずっと後まで仏教の表舞台ではないにしても連綿と続いています。

しかし今回のサントリー美術館「天上の舞 飛天の美」展の光背飛天キャプションには1053年の鳳凰堂建立時としています。

ところで飛天光背に飛天何躯が存在していたかは、認識していなかった。それより光背最頂部の大日が創建当時が興味でした。

光背最頂部の大日が創建当時か?が興味で、いろいろ調べるもなかなかヒットせずでしたが、ついに奈良大学文学部文化財学科の松本 彩氏の論文「平安後期の飛天光背の展開をめぐって」に、その鳳凰堂の光背は、周縁部は透かし彫り飛雲を九区に分けて造り、その最上区大日如来像、左右の四区にそれぞれ六体の飛天を取付する(但し大日如来像及び飛天六体は後補)。を見つけその詳細を少し解りまして、その大日像の後補は納得するものの、次の関心が当初から大日像が付けられていたかで、それは分かり様がないのでしょう、残念ながら触れられていませんでした。 


ところで飛天光背に飛天何躯が存在して居るかは知りませんでした。それより最頂部の大日が創建当時のものか、後から付けられたかが興味でした。
 
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  光背に13体の象が付いて居ます             光背部分に付く 飛天2体
 
いろいろ調べるもなかなかヒットせずでしたが、
 
奈良大学文学部文化財学科の松本 彩氏の論文「平安後期の飛天光背の展開をめぐって」に、
 
★その鳳凰堂の光背は、周縁部は透かし彫り飛雲を九区に分けて造り、その最上区大日如来像、左右の四区にそれぞれ六体の飛天を取付する(但し大日如来像及び飛天六体は後補)。
 
●上の論文の文章を見つけ、その詳細が少しわかり、その大日像後補と納得するものの、次の関心が大日像が当初から付ていたかですが、それは分かり様がないのでしょう、触れられていませんでした。 それで探しました処

東京文化財研究所の津田徹英氏の論文「平安後期の飛天光背の展開をめぐって」

を見つけその論文の中には

◆長承三年(1134)、鳥羽・勝光明院阿弥陀像の造立に際し、光背は「飛天光」と定められた(『長秋記』)。名称は光背周縁に飛天を配したことに由来する。光背頂には大日如来があらわされたが、阿弥陀の光背に何故、大日が伴うのか謎であった。と同じ疑問を持っています。

●そして続けて  

◆近年、冨島義幸氏は、その最初が勝光明院像であり、それ以前の飛天光背の頂には定印阿弥陀が表示されたと論じた(「阿弥陀如来像の大日光背について」『佛教藝術』301、2008.11)。しかし、天喜元年(1053)の平等院鳳凰堂像の光背頂には補作ながら金剛界大日をあらわす。その鳳凰堂像納置の心月輪に記された阿弥陀大呪・小呪の典拠『無量寿如来観行供養儀軌』には、阿弥陀の観想直後に「如来拳印」を結び、印の威力により密厳世界を極楽浄土に変え、阿弥陀聖衆の集会にまみえると説く。この如来拳印こそ金剛界大日の智拳印に他ならない。

光背に大日をあらわす根拠も、定印阿弥陀の出自が金剛界曼荼羅にあることを思うと、阿弥陀の観想に際し、金剛界大日が密厳世界を極楽浄土に変じる役割を担った点に求められよう。鳳凰堂像の光背頂に当初より金剛界大日があらわされた可能性は高い・・・

●と在りました。氏もやはり密教との関与を肯定の論調の様です。


◆ところが、以後の丈六阿弥陀像の作例では、11 世紀末の浄厳院像の光背頂には補作ながら胎蔵大日をあらわし、13 世紀に至る作例を視野に入れても光背頂の大日は胎蔵が主流であった。12 世紀の『覚禅鈔』には僧 兼意(平安後期の真言宗の僧)の説を掲げ、金剛界法で阿弥陀を観想し、道場観では大日が妙観察智門に入ることで密厳世界を極楽世界に変えるとする。

阿弥陀の定印が妙観察智印であることを思えば、腹前で両手を重ねる胎蔵大日は定印阿弥陀と同体視されていたことが窺える。

この点に光背頂の大日を胎蔵とする根拠が求め得る。

●と続いています。ついこの間 私が他で「妙観察智印」と書籍に在り、想像は付くも、知らずで調べていた事が、此処に「妙観察智印」が「阿弥陀の定印」との答えが出て来て、嬉しかったです。

一寸解説します。「阿弥陀の定印」は腹前の位置で(禅)定印、胎蔵界の大日は法界定印で腹前の位置 指を丸めるか否かの相違は在れど、共に(禅)定印です。
 
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           法界定印           阿弥陀定印(妙観察智印)

此処で論文ではと「 光背頂の大日を胎蔵する根拠は胎蔵大日は定印阿弥陀と同体視の為」としていますが、これを解り易く解説するならば、胎蔵生曼荼羅の中台八葉院の中心が胎蔵大日、そこでの西の無量寿阿弥陀)が定印阿弥陀で、と鳳凰堂の光背の金剛界大日と本尊 定印の阿弥陀の矛盾を指摘しているようです。

「 光背頂の大日を胎蔵とすべきが妥当」と氏はされてますが、しかし金剛界曼荼羅の成身会の阿弥陀も定印なのです。
                        金剛界曼荼羅 成身会 
 
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 成身会 中心部 諸尊配置説明図   阿弥陀は大日の上 (西)に在ります   
 
 

鳳凰堂の光背最上部の大日と本尊の阿弥陀坐像を成身会の見立てとも解釈できないでしょうか?

五智の宝冠の中尊大日でぶち当たった問題が思い起されます。五智の宝冠の中心の大日とそれを冠する大日の関係は???の問題でした、そこで知ったのが、後に「金胎不二(金胎一如)」との考え方が出て来た事でした。・・・(その後は止めときます。)此処でも似たような事なのかもしれません。 
 
クリックすると新しいウィンドウで開きます五智の宝冠(絵画では正面観のこの宝冠)
 
 
 
 
  クリックすると新しいウィンドウで開きます立体での典型的の五智の宝冠 
 
 
 

鳳凰堂光背の最上部の大日像は智拳印で金剛界です。ここで私は、それが上記の論説の様に法界定印の胎蔵生の大日像で無くて良いと思います。
     胎蔵生 大日如来(法界定印)    金剛界 大日如来(智拳印)

鳳凰堂は極楽浄土なのですが、光背から見れば、同時に金剛界金剛界曼荼羅の成身会の意識もあるは如何でしょうか?
 

◆ちなみに12 世紀後半の西教寺丈六阿弥陀像の飛天光背の頂には多宝塔を補作するが、塔内の二仏併坐像は当初に遡る。大日の三昧耶形が金胎ともに宝塔であった点に留意するとき、当初も同様とみてよい。ただし、二仏併坐像を伴う点に『法華経』見宝塔品の受容が窺える。その『法華経』では、本経持誦により命終に阿弥陀聖衆にまみえることを説く。造像に『法華経』の反映が認められよう。
 
                [光背の頂部に多宝塔]

クリックすると新しいウィンドウで開きますクリックすると新しいウィンドウで開きます
 
●と密教だけでなしに『法華経』にまで、関係するのを知り、光背に在る多宝塔のみどころ、見方を認識しました。


また同論文中には飛天の座り方と雲中供養菩薩のそれについも、論文に在りました。

◆飛天は、長跪(両ひざを並べて地につけ、上半身を直立させる礼法)または胡跪(こき:右膝を地につけ左膝を立ててひざまずく礼法)とし、雲中供養菩薩が安坐(あぐら)や立像を伴うことと区別する。
 
     【光背飛天】
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   胡跪         長跪         胡跪          長跪           胡跪
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     長跪             長跪
 
 
 
 
 
 
 
 
         【雲中供養菩薩】   
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       立像                 立像                    立像
 
 
      安坐           立像           安坐             安坐
   立像               安坐           安坐            立像
 
 
●と在りまして…先の日記の飛天と雲中供養菩薩との相違のテーマの一つの答えがここにも出て来ました。


尚、光背頂の大日も飛天に合わせ、光背付きでなしに天衣を丸く処理で、光背的に見せているようですが、拡大の映像が無く、良くは確認できていません。見つけて確認したいものです。

少し難しかったかもしれませんが、私はとても興味深く勉強しました。


【完】
 
●8日大雪で中止の「仏像愛好の集in東博」は15日(土)に順延開催します。