②勉強会「阿弥陀如来像の日本における変遷」配布資料草稿
【説法印】
【1189年】 浄楽寺 阿弥陀三尊像(運慶)
【阿弥陀来迎印】
【宋風】
【来迎印】
【1212年】 浄土宗(旧玉桂寺) 阿弥陀如来立像 (?行快)
【来迎印】
【来迎印】
【来迎印】
【宋風・阿弥陀定印】
【説法印】
(12世紀)山霊宝館 阿弥陀聖衆来迎図
【来迎印】
【来迎印】
【来迎印】
【1690年】 《仏像図彙》
九品阿弥陀の印相について,上品・中品・下品の各上生の印を定印とし,同じく中生印を説法印に,下生印を来迎印に当てて九種の印を組み合わせたものが,《仏像図彙》(江戸時代)などに見られ,現在も一般の概説書等に取り上げられているが,これらを説く儀軌はなく,しかも近世以前にはそれに基づいて造像されたものは存在しないことから,この九品印は近世に考案されたものと推定され,阿弥陀の印相としては説明すべきではないとの提言がなされている。【関口 正之】。
仏像図彙. 元禄三年序跋刊 水田甚左衛門 西村理右衛門 伊勢屋次兵衛板 傷 全三巻付録共合本1冊.
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オリジナルは、時代もさかのぼって元禄3年発行の「仏神霊像図彙」で、
明治時代に増補版として再刊行されたそうです。
で、その明治本を元に復刻したものが本書なのだそうです。
明治時代に増補版として再刊行されたそうです。
で、その明治本を元に復刻したものが本書なのだそうです。
いろんな種類の神仏が並んでいて、こんなに種類があるのかと驚かされます。
≪通仏像相(各如来共通の印相)の意味≫
(薬師の薬壷の用なら以外も在りますが、原則 如来は持物を持ちません)
●定印:瞑想の印 禅定印(釈迦)・法界定印(大日)とも言います。
●転法輪印(説法印):説法及び、その波及を示す印=法輪を転ずる 胸の前で両手でする。
● 無畏印:相手に危害を加えず恐れをいだかせないことを示す印(多くは右手を上げて指を伸ばして掌を外にめける)
● 与願印:仏が人々の願いをかなえてくれることをあらわす印(多くは左手を前に差し出し掌を外の向ける)
◆ 阿弥陀は両方の手で、親指と、。そして人差し指、中指、薬指 の何れかを合わせ輪を作る、なお左右同じ指の輪となる場合が殆どです。(転法輪の意味もあるのでは?)
阿弥陀像と言いますと すぐに思い浮かぶが 摂関政治の最盛期の平等院鳳凰堂の定印の阿弥陀坐を思い浮かべまして、確かに定朝様のそれが阿弥陀像の標準とされましたが、阿弥陀像全体を俯瞰しますと、意外と定印の阿弥陀像は古い時代は無く、9世紀も末ごろからで、その後一気に定印の阿弥陀が増えます。何故かを考えまして、調べ始めましたら、まず 空海の請来した 両界曼荼羅の阿弥陀が 金剛界・胎蔵生の阿弥陀如来(=無量寿如来)が共に 阿弥陀定印との事が分かりました。 また天台の常行三昧を調べましたなら、金剛界曼荼羅の成身会の中心の五仏の内の大日を取り囲む四仏の上(西)の無量寿如来(=阿弥陀如来)とそれを取り巻く(金剛法、金剛利、金剛因、金剛語の)四菩薩と知りました。
ここで 平安の貴族連には 末法元年1052年(永承7年)の頃は末法(思想の 阿弥陀浄土信仰が 中心と思いがちですが、当時の上層階級の仏教は、9世紀中ごろに最盛の密教の流行がかなり長く尾を引いて居たようです。貴族たち末法思想と共に加持祈祷による現世利益的なニースが多かったようです。
末法・浄土思想による阿弥陀堂が多く造られ、阿弥陀如来像に人気が在ったが目立ちますが、先述の加持祈祷の密教は盛んに続いているようです。例えば平等院は、当初、大日如来を本尊としていましたが、翌年に阿弥陀堂として現在の鳳凰堂を建立の経緯ですし、当時からの舟形光背の上部には智拳印の大日如来が付いている。
続く 10世紀末から11世紀始めの勅願寺の四円寺、続く11世紀末から院政期の天皇等の御願寺の六勝寺(内、円勝寺は六勝寺では唯一の女院御願寺)等には、九体阿弥陀堂を含め多くの阿弥陀堂は作られ続けるなか(10世紀末)円融寺や法勝寺では、阿弥陀堂は在るものの、金堂(胎蔵界五仏)、五大堂(五大明王)、愛染堂(愛染明王)、と密教尊は多く祀られています。浄土思想と共に、加持祈祷の密教も盛んでした。
【作善(さぜん)】: 多くの作仏(仏像作成)は「作善」と意味図けられ。末世を逃れ極楽往生の道と考えられた。
【成功(じょうごう)】: 当時 官寺の造立は経済力のあった受領層に命じられ、その功積により位階、官職が与えられる売位・売官の制度を成功(じょうごう)と云った。
【受領】: 平安時代以後に現地に赴任する国司が前任者から文書や事務の引継 を受けることを「受領(する)」と言い、そしてそこから、国司四等官(守、介、掾、目 のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者を受領と云う。
付録≪異形の阿弥陀如像≫
《五刧思惟阿弥陀》
五刧思惟阿弥陀如来は、阿弥陀如来の異形のひとつで、経説によると四十八の大願を成就するために永い間、剃髪をすることもなく坐禅・思惟していたので、このような髪形になったという。劫とは永い時間を示す単位で、方四十里もある大磐石を百年に一度ずつ白氈で払って、その石がすりきれてなくなっても終わらない時間だといい、要するに永遠・無限をさすものと解してよいであろう。(by
東大寺HPより)
《宝冠をつけた阿弥陀如来像》
【常行三昧】は一定の期間、僧侶が交替で四六時中、阿弥陀様の名前を唱えます。
【1201年】 耕三寺 宝冠阿弥陀(快慶 作)
【阿弥陀定印】
金剛法・金剛利・金剛因・金剛語の各菩薩は単独では造像されることのまずないものだが、密教の金剛界曼荼羅では五仏(五智如来)の1つである阿弥陀如来の東・南・北・西に上記四菩薩が配されている。この形の阿弥陀五尊像(阿弥陀如来及び四菩薩像)は比叡山東塔常行三昧堂に安置されていたことが知られ、現存する古像としては、日光輪王寺常行堂安置の五尊像(重要文化財)が知られている。
現図金剛界曼荼羅 b.成身会の構造【金剛界五仏と五智】 金剛界曼荼羅の基本となる成身会は、金剛界五仏、十六大菩薩、四波羅蜜(しはらみつ)菩薩、内外の四供養菩薩、四摂(ししょう)菩薩の以上37尊より構成され、これを四大神(しだいじん)と賢劫(げんごう)千仏と二十天が囲む。金剛界五仏とは中央の大日如来、東方の阿http://www.ermjp.com/j/temple/mandara/manda/oshie/image/gaiji1.gif(あしゅく)如来、南方の宝生(ほうしょう)如来、西方の阿弥陀(あみだ)如来、北方の不空成就(ふくうじょうじゅ)如来の五仏である。経軌に説かれる五仏の図像的特徴は、 | |||||||||
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となっているが、現図金剛界曼荼羅では、その体色と乗物について経軌とは異なる表現をとっている。 四仏は大日如来(自性法身)の化身(受用法身)として、その功徳、働きを四分して顕れた仏である。五仏には様々な理念が象徴されているが、特に金剛界曼荼羅を智の曼荼羅と呼ぶ理由となった五智がそれぞれ五仏に象徴される。 ↓阿弥陀を囲む【四菩薩】 | |||||||||
http://www.ermjp.com/j/temple/mandara/manda/oshie/image/o18.jpg | http://www.ermjp.com/j/temple/mandara/manda/oshie/image/o19.gif | ||||||||
金剛界曼荼羅〈成身会〉 浄土寺本 | ※内の四供養 △四波羅蜜 http://www.ermjp.com/j/temple/mandara/manda/oshie/image/gaiji4.gif外の四供養 ○四摂 |
阿弥陀を囲む金剛法、金剛利、金剛因、金剛語の【四菩薩】
が常行三昧堂にて本尊の脇侍や、4本柱に描かれる事も在る。
【胎蔵五仏】
【17世紀】 安養院 紅頗梨色阿彌陀如来坐像
(騎孔雀) 【阿弥陀定印】
【金剛界五仏】
異系統の金剛界曼荼羅の五獣座
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