孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

③ 勉強会「阿弥陀如来像の日本における変遷」配布資料草稿【結文】

★Mさんから 沢山のコメントを頂いております!  最下段のコメントを開いて お読みください!

********************************************************************************************


 勉強会 「阿弥陀如来像の日本における変遷」 の配布資料の草稿です。
 
原始仏教上座部仏教では修行をしたわずかな人しか救われず、在家の人々は救われません。しかし、釈迦はすべての人々を救いたかったはずである、という思想のもとに誕生したのが大乗仏教です。日本に伝えられた仏教は、すべてがこの大乗仏教を基本にしています。

その中の一つの阿弥陀信仰は善導達(中国の浄土信仰)により確立された阿弥陀信仰は六世紀 後半から七世紀初頭頃に伝わり弥勒信仰に次ぐ、日本仏教のかなり最初の頃からです。

..仏教では、.
悟りが得られ成仏成るためには 如来の説法に接して得られる、悟が必要条件と成っています。

一説には、釈迦如来の入滅は方便で、未だに霊鷲山に居られるとの考えもありますが、その考の他では、 釈迦は既に入寂しており、為にこの現世では、入滅している釈迦から説法を受ける事が既に叶いません。 我々衆生は釈迦如来の居ない無仏の娑婆では如来説法が受けられず、解脱できない仕組になっています。

それで衆生が救われる、解脱する為には、今現在に存在する如来が必要とされます。そのために考え出されたが無量寿阿弥陀如来です。十万億土と遠いですが、現在も存在する如来として作られたのが阿弥陀如来です。 そしてその阿弥陀如来の存在を教えてくれたのが釈迦如来と浄土経典に記されています。

阿弥陀を信じれば、極楽浄土に往生する事が出来、 そこに在する如来である阿弥陀の説法を受ける事が出来ます。 その説法により解脱でき、次の世では輪廻から離れた存在と成る事が出来る、成仏できるというロジックです。

それが観経などの浄土三部経のとく阿弥陀信仰なのです、それらには極楽往生への方法は極楽やそこにおられる阿弥陀如来を観想する事と説かれてますのので・・・その観想の為の道具として極楽浄土のバーチャルリアリティ阿弥陀堂とそこに居られる阿弥陀如来像(説法印が相応しいかと思います)が作られるのです。その代表が、【7世紀】法隆寺6号壁画阿弥陀浄土図であり、【8世紀】当麻曼荼羅【1053年】平等院鳳凰堂 と続くのです。

その少し前 【985年】往生要集などでは 地獄の恐ろしさと救いの極楽が庶民に解るように語られた為、極楽への往生自体が最終目的と成ってしまう傾向が出てました。

現在のでは宗旨には浄土宗・浄土真宗
とは別に天台宗真言宗が在りますので、 阿弥陀思想と密教は別の仏教と思ってましたが。平安時代阿弥陀信仰には密教の影響が在ったのを今回やっと気づきました。

【9世紀半】ばに我が国に純粋密教が請来して、一気に隆盛し、教学面と共にそれには。宗教として修法が在り、それは加持祈祷的に有効でした。時代の上流階層では、その加持祈祷が重用され、台密東密密教が日本仏教の中心的に成ったと思います。


大乗仏教の華厳思想では、盧舎那仏が全世界の中心であり、その化仏として多くの仏が生まれまして、その化身の一つが釈尊であるとしてます。同様の如来が多く存在しうるとなり、阿弥陀如来も居るのです。その阿弥陀を頼るのが浄土教の思想です。

大乗仏教では肉身の釈尊よりも釈尊の体験した悟を重んじ、法に目覚めた覚者をより理想化することによって多くの如来が生し、法身思想の一切の如来の徳を統合した太陽のような如来大日如来が根本で、釈迦も華厳思想に似てもはや中心的存在ではなくなって、胎蔵曼荼羅での扱いと成っています。浄土教の本尊阿弥陀如来も同様に大日如来の五智の一つの妙観察智に配当されその智慧の仏格化の阿弥陀如来となっています。

そんな訳で阿弥陀如来より中心は大日如来 とのロジックも在り、【11世紀】からは浄土思想が主流で良いのでしょうが、我々の想像の浄土思想一本槍ではなしに、当時の仏教では密教の影響が在り、その例としては、平等院の最初の本尊は大日如来であり、その後に堂塔伽藍の阿弥陀堂として作られたのが鳳凰堂だとの事です。

また、その鳳凰堂の定朝作阿弥陀如来坐像の光背(創建当時の物)の最上部には 金剛界大日如来が化仏として取付けられています。 これこそ 密教曼荼羅の中での阿弥陀の位置が表現されているのです。
〔化仏の大日如来は後補なので、当初の形は不明ですが、平等院鳳凰堂を参照して造立した鳥羽勝光明院本尊阿弥陀の光背には「大日如来一体、十二光仏、二十五菩薩」があったという記録があるので、鳳凰阿弥陀如来の光背に当初から大日如来があったのは間違いないでしょう。(日本彫刻史基礎資料集成平安時代造像銘記編6) との捕捉をMさんよりコメントで頂きました〕

また平安時代後期から六勝寺の【11世紀末】法勝寺の例には金堂に胎蔵界五仏、五大堂に五大明王、の記録が在り、その他でも不動堂や愛染堂も建立されて、密教の重用がかなりのものと思います。 で、当時の阿弥陀如来像も 密教阿弥陀との傾向を受けているかと思います。

曼荼羅における阿弥陀を見てみますと、胎蔵生曼荼羅の中心中台八葉の五仏の西(下)部に無量寿如来(通肩の阿弥陀如来)、また金剛界曼荼羅の中央の成身会では中央大日如来の上(西)に無量寿如来部分が在りその中央が無量寿如来阿弥陀定印)が存在しています。

曼荼羅の尊は皆坐像でして、為に阿弥陀如来も坐像が重用、 印相は金剛界胎蔵界阿弥陀は 共に阿弥陀定印です。その影響だろうと思います、8世紀後半頃から阿弥陀像は坐像で阿弥陀定印が多くなっている。のかと思い当たりました。


もう一つ発見しました、宝冠阿弥陀に 天台系常行三昧堂の宝冠阿弥陀が在るは知っていましたが、調べますと天台には四三昧(常 坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧)が在り、その内の一つが常行三昧で、その本尊は阿弥陀で、その脇侍又は取巻きの四柱に、金剛法、金剛利、金剛因、金剛語の四菩薩を安置や描く事があるとを見いだしました。

此の配置は 金剛界 成身会の(西)に無量寿如来部分 そのものの配置です。その常行三昧の阿弥陀は定印なのですから、この事も当時の阿弥陀の印相が定印が多く成る要因ではないかと思いました。


この様な事柄にて、藤原期の上流階級の浄土文化では、坐像で定印の阿弥陀像の定番と成って居り、その像容は定朝様阿弥陀が主流に成ったと思います。それは鎌倉時代まで続きますが、やがて、徐々に極楽浄土・阿弥陀如来の観想よりも、来迎印接 それ自体が切実な関心と成り、浄土変よりも、【1148年】 三千院 阿弥陀三尊像の様な来迎引接の姿の方が関心を呼ぶようになり、阿弥陀は定印よりも来迎印が多く成ってゆくようです。来迎印を浄土真宗では必ず救われるとの思いから摂取不捨印と呼ぶそうです。

時下って【13世紀頃】からの臨終の間に置かれる三尺阿弥陀がまさにそれです。その印相は勿論に阿弥陀来迎印で、臨終者の早く来てほしいとの願から 早来迎と成り、その阿弥陀如来の姿は、坐像から立像に成って来ています。


今回の勉強の発端と成りましたは、 密教伝来以前の古い方の阿弥陀には,決して 定印が無い事に気付き・・・時代順に並べ、その印相を注視しますと、変遷が見えて来て、阿弥陀信仰を 一つに括るより、その時々に様子が変わって来る、その認識を持つべきと判かります。 


今一つ気付きますに、説法印の阿弥陀像の来歴を調べますに、それは願主が女性の場合にに多い傾向の様です(Mさんより、その様な事例はあまり無しで、説法印の阿弥陀像の願主に女性の場合にに多いとの判断は誤り」とのコメントを頂きました)
平安前期の全焼後、830年代以後に復興された広隆寺講堂本尊の阿弥陀如来像(840年)は淳和天皇の女御、永原御息所によって造立された像と考えられている。
また 願成就院 阿弥陀如来坐像(1186年 運慶)も北条政子の寺と見れば、ここまで その意識が続いていたと見えます。〔願成就院発願時から政子の寺だったと呼ぶには無理があります。時政は(誰か高僧などの教えは受けていると思いますが)自分の考えで説法印を選んでいるのであり、「願主が女性」の例には全く当たらないと考えます。〕とコメントをMさんより頂きました。・・・時政の権勢は当初から正子のリーダーシップが強いかと思ってしまいました。後の尼将軍の為政などに正子像を描いてしまいました。願成就院建立の時に既に彼女は強い発言権を持って居た様に想像してしまいました、北条家で強い発言権を持ちながらも、立場上、自らの寺を建立には、はばかられ、実家の時政の寺としたは強引な仮説で、正子が望んだ印相を為したと仮想する余地は無いという事ですね。

後日ある方より、『別冊太陽の運慶時空を超えるかたち』監修=山本勉の58ページ  「北条政子の寺」 を読んだらとの情報が寄せられました。
それに依りますと、それまでの作例に見られない、阿弥陀の説法印、その形式は南都を中心に奈良時代後半から平安時代初期にかけて行われた、 その初例は759年光明皇后発願の法華寺阿弥陀浄土院の本尊(現存せず)、しかし同寺に残る国宝阿弥陀如来画像(説法印)は阿弥陀浄土印堂の本尊由来と考えられる。そして像様は願成就院像に似ると云う、この説法印の形式は、後に宮廷女性関係の造像の規範に成った。

791年の桓武天皇の皇后一周忌像にも説法印が採用、後に同像は興福寺講堂の本尊とし、藤末鎌初 興福寺維摩会が行われた。これに伴い南都を代表する阿弥陀像に… 興福寺僧であった運慶により願成就院像はこの像が参考にされた蓋然性が濃いと、この本では言っています。

また同ページには頼朝の寺、「勝長寿院」に対し、「願成就院」を、=「北条政子の寺」だったのではないだろうか。としています。その意向を反映して、鎌倉時代初期には珍しい 説法印の阿弥陀像だったとしています。

重ねて、法華寺阿弥陀浄土院の説法印の形式は「鎌倉幕府の皇后的の政子」に相応しいとも言っています。

なお三代将軍実朝夫人 本覚尼の発願の京都・遍照心院の本尊(現在 愛知・専門長寺本尊)にも説法印が採用されている。 説法印形式の阿弥陀像は源氏将軍家夫人の伝統とも解釈されようと結んでいます。

この本は自分も持ってまして、数年前に読みました、その記憶が薄らと残っていて、説法印の阿弥陀像の願主に女性の場合にに多い」との文章を書いたのだと、後に成って気が付きました。

それは納得なのですが、では何故に女性の発願の阿弥陀が説法印なのでしょうか?その理由の解説が欲しい処です。
下段の女性は へりくだり 上生印を遠慮して 中生印にしたとの解釈なら分かりますが、それを説法印と解釈した上での解釈に、迷います!


女性は へりくだり 上生印を遠慮して 中生印にしたとの解釈を昔に見ましたが・・・、今は意義有ですこれは説法印と見てその方向性で思考すべきでしょう。 何となれば、上品上生~下品下生の九品印相は古くからではなさそうなのです。

仏像の入門書には、上品上生印から、下品下生印の九品印を熱心に説くを見ますが。本来それは定印・説法印・来迎印 と観るべきと、この頃では思う様になりました。

確に観無量寿経などや当麻曼荼羅に九品往生は説かれていますが、それぞれに上品上生印から、下品下生印の九品印を相当するようには書かれて居ません。また浄瑠璃寺時代にそうした九品印相の考えが在るのならば、主尊の来迎印とその他の定印のあの様にするでしょうか?!

九品印の指の形は、9種類の序列の概念ではなしに定印・説法印・来迎印であったと思います。此処の印相の解釈は、おそらく願主の願いの印相は中央尊の来迎印で、脇尊の定印は付随的概念で、定番の阿弥陀定印としているのではないかと解釈の説が在ります。 

東京都世田谷区奥沢にある、通称 九品仏の浄真寺の阿弥陀は九種類の印を結んでいますが、それは江戸時代の造像で、古くには九品印相の意識は存在しなかった。其の9種の印相は江戸時代は中期の元禄頃からと、読んだ以前の本に載っているのを見てました。それで それ以来その考の方を支持してました。

今回は もっとその説をハッキリと認識できました。某知識人より「仏像図彙」と云う図書が今も出版されて居ると教わりまして、調べましたら、その本は元禄3年に刊行の「仏神霊像図彙」の明治増補版を底本とし復刻したものであるとの事でした。

これで九品印相が元禄以降との説の根拠がはっきりしました。




ところで、阿弥陀の印は何故に、指で輪をつくっりうのでしょうか?これは如何なる意味かを考えなければなりません! 簡単には、説法印=転法輪印 でして、その形は指で輪をつくます。

阿弥陀も指で輪をつくる その起源は、これなのかと思いました。法輪は ラサンスクリットでダルマチャクラDharma‐cakraで、その意訳が「法輪」。チャクラは車輪もしくは円盤形の武器を意味する。  ダルマ=法が車輪のように転がり伝播 するという事で、「初転法輪」で知るように転法輪は仏陀が説法される事です。 輪は法自体を示すが、同時に法を説く釈迦などの如来をも象徴しているのです。

仏像の誕生前、〈本生譚〉や〈仏伝〉の レリーフ(浮彫)では、釈尊を象徴して法輪で表現していました。それも釈尊は法をころがし、広める人なのですから、その様に法輪が釈尊を象徴しているのです。

ですので、阿弥陀の指を丸める印も、その車輪の象徴で、たとえ胸前での説法印以外の、阿弥陀定印も来迎印もが、説法の意味を含んでいると考えます。その事で、本来の浄土思想は、極楽往生が目的でなしに、極楽往生と云うプロセスを経過して、本質は阿弥陀の説法を受ける事のように思います。

浅学ですので、我流の観方や解釈をして、誤謬もある事と思います。どうぞ遠慮なく、ご指摘、御教授を頂きたいと存じます。


最後に、このように、仏像の手の形には、意味がありまして、それらは、仏の教えであったり、願いであったり、慈悲の心であったりで、様々な意味が込められています。

様式の時代的考察の「美術史」に対して、それら形からの仏像、形式を考察するのを「図像学」と言います。仏像の面相、姿、手や足の表現法に一定の形式が与えられ、とくに密教が体系づけられると、仏像の形式を規定する儀軌(ぎき)が厳格になってきたり、仏像の形式の意味づけに異なった解釈が行われ、同じ仏像でも多くの異なった図像に表されるようになりました。そのため日本の密教では、中国から多くの図像を輸入し集め、密教研究の手段の一つとしたのです。

密教の尊はとても数が多いです。それで我が国密教の有力寺院では「図像」の模写収集に努め、平安時代末から鎌倉時代にかけて図像の集成と研究の著述が行われるようになり、『図像抄』『十巻抄』『阿娑縛(あさば)抄』『覚禅抄』などの図像文献が表されました。

それらは、今日でも図像研究の第一級の資料です。日本におけるアジア地域の仏教を中心にした密教図像の研究団体として、1982年(昭和57)9月に美術史、密教学、仏教学などさまざまの領域の人たちによって密教図像学会が結成され、事務所は、京都の種智院(しゅちいん)大学に置かれ、学会誌『密教図像』が刊行されている。[永井信一] との事です。
(Mさんより、「学会誌密教図」は図像学関係が中心です。仏教芸術、MUSEUM、美術史など大きな公立図書館や大学図書館に置いてある学術雑誌はよいのですが、大学の紀要やこの密教図像とか黄檗文化などという特殊な学術雑誌に掲載されている場合は苦労します。多くの読者に読んでもらいたいなら執筆者にも配慮してほしいところです。」との苦言が寄せられました。・・・
【ご回答します。】難しい本を読めと言うのは無理はごもっともです。(貴兄が良く引用される学術雑誌でさえ、細事で閉口だの声を聞きます。)此処では、図像学なる分野が在り、日本におけるアジア地域の仏教を中心にした密教図像の研究団体とし「密教図像学会」成るが存在するとの説明に、[永井信一]氏の論説記事を紹介しただけです。



最後に仏像を拝観の際には、美術史の時代考察と並んで、図像での 仏像の手の形に注目して、その姿が何を表現しているのか、も感じて鑑賞して行きたく思います。


長文 お付き合いいただき 有難うございました。


【完】



【広告】只今新規参集者募集中です。仏像好きさんは、お気軽にお試し参集してみませんか?(途中参加や早退も自由です)

毎月の第一土曜10:00~ 東京国立博博物館本会エントランスに仏像好きが集い、
仏像鑑賞と、仏像の勉強会をします。

AMの鑑賞会、展示場での解説は 他の方のご迷惑に成りますので、隣室の階段室に時々集まって、情報交換をします。 また3人までのグループ鑑賞で小声での会話なら他に御迷惑はかからないかと思います。

PMの勉強会 貸会議室での座学です。希望者が自分の勉強を発表します、ディスカッションも有で、相互通行形式の勉強 有効だと思います。

途中参加・早退OKですので、是非にお試し参集してみてください!