孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

仏像の顔 から 眉に付いての随筆

岩波新書 清水眞澄「仏像の顔ー形と表情をよむ」を読了してしばらくたちました。いま残っている感想は・・・仏像史の勉強に為った事、でテーマの仏像の顔に付いての「目から鱗」的は無かったように思います。さればとて私の「仏像の顔」に付いて想いを述べてみる事にします。
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「仏像の顔」は人間の顔に類似しますが、肖像彫刻・芸術彫刻と区別は容易につきます。此処で個々どう違うかを語るは、三十二相八十種好的な話と成り宗教的意味を持ちだす。仏像読本的に成ってしまうかと思いますので、今日の趣旨と違いますので省略します。

漫画・アニメでの登場人物はデフォルメされて居ても、その世界での事と約束事的に容認しています。(もしアニメそのままの人が、現実の街を歩いていたら仰天する事でしょう・・・。)

少女漫画で、現実離れの大きな瞳小さな鼻や口は、もはや奇異に感じません。物心つくかつかずで学習して慣れこになっているからでしょう。

見慣れが奇異に感じるか否かは云えますね。 菩薩像を見て奇異に感じる子供は少なく、多面多臂の明王像は奇異どころか怖がるでしょう。(そのために造られる像ですから当然ですね)

此処では瞋怒像は後回しにしても、観音たちの十一面や千手や他身も人間離れ・・・おっと此処ではその話も避けて、顔に絞りましょう。螺髪・耳朶環や白毫も外してみましょう。

人間にも在る眼鼻口に絞りましょう。そこで、もっとも人間と仏像の違うは目ではないでしょうか?仏像のそれも時代と共に変化し 時代判定のよすがと成りますが、ここで時代別をも論じません。

しかしいずれの時代の仏像の眼も人間とは相違します。仏像の眼で一番話題になるのが玉眼でしょうか、先日の山本勉氏の講演会は「運慶のまなざし」(私は5枚もはがきを出すも抽選漏れ)と眼に注目されていました。聞けていないのですが、おそらく運慶の彫眼と玉眼の使い分けの巧みさの解説もあった事だろうと思います。

「眼は口ほどにものを言う」と云うように眼は表現力が在るのは周知の事です。しかし仏像の眼は飛鳥仏の杏仁形を除いて、各時代とも人のそれとは相違しています。

どうやら、癒されるだの、心を打たれるだのと我々が仏像を愛するのは、人間に似ていながらそれと違う目に惚れているのかもしれません。ここで「惚れる」を考えるに、良く知って評価して愛するのと、盲目的な恋があるようです。

仏像(の眼)を好くは、多くは恋の部類で感覚的にの様です。美学・美術・美術史的に考察の道もあるはずですが、多くの人はそんな面倒な詮索はしません。分からないなりにただ感じてそれで満足です。 物書きはそれをうまく表現、一般人はそうはゆかないので、黙って感じてます。


先に紹介の本「仏像の顔ー形と表情をよむ」ではそのような分析と云うか。時代ごとの薀蓄が語られてる部分もありましたので、興味の方と云うよりは私がなのでしょうが、そちらも留意した鑑賞もしたいものです。

口の「食べる」をもそうですが、よく考えてみると「喋る」にも、鼻が関係しています。奥では繋がってますから。食べる時に香は大きな存在です、喋りにしても、鼻をつまめば声は変わります、鼻濁音と云うのもありますね。

そんな理由で口の傍に鼻があるのです。 実によく出来ています。神が創造したにしても、進化論にしても、日頃思いませんが、身体部分の配置は私たちの使いやすい様になっています。歩く足は下に作業する手は眼前に在るのです。考えると実によく出来ていると感心します、ですから神仏の姿もそれに近くなっているのでしょう。

もう一つ関係するのが先述の眼で見晴らせる高い位置に場所しています。その傍に眉毛ります。よく言われるのは汗止の為とか聞きますが、本当にさほどの効果があるか疑問です。

落語で眉毛が役立たずと眼鼻口より揶揄されているのが在ったような気がしますが、いま定かではありません。

そんな中、勝手に考えました。


般若心経の一節に

無色(形も無く、)

無受想行識(受けたり、思ったり、知ったり、行うことも無く、)

無眼耳鼻舌身意(見る、聞く、嗅ぐ、味わう、感じることも無く、)

無色聲香味觸法(形、音、味、感触、思想も無い。)

無眼界(見えるものだけがすべてではない。)

が在ります。この眼耳鼻舌身意の中で眉毛は「意」ではないかと思います。唯識論、を踏まえた難しい解釈もあ在りましょうが、此処では簡単な勝手な自論を穿かせて頂きますと・・・・。


我々が簡単に描く線の数を抑えて 人の顔を書く時、目は丸か棒線、眉は棒線で、鼻は丸か鉤、口も丸か棒線で画けます。

そしてその顔が怒っているか笑っているかは、口の折れ線の山の向きでも、あらわされますが、なんといっても第一には眉の簡単な棒線の向きで。一番簡単に感情が描写できます。

僧ならば、眉が感情表現の役を担っていると云えると思います。もっと言えば人間の意識、つまり心経の後に出てくる五蘊

1.色蘊 - 人間の肉体を意味したが、後にはすべての物質も含んで言れる
2.受蘊 - 感受作用
3.想蘊 - 表象作用
4.行蘊 - 意志作用
5.識蘊 - 認識作用

の受して、感じての想いを表象する役は眉なのでしょう。眼耳鼻舌身意に眉は無いですが、その内の意に相当していると考えてはいけませんでしょうか?

眉は感情表現器官!ですから、尼僧、婦人などの色々な場面で眉を剃り、表情さなくするのではなかろうか?当然眉の言葉は多く在りますが、その一つに愁眉・・・白眉とは生まれ得ませんでしたが、兎角に、常に愁眉を開いて居られる様に在りたいものです。

最後に仏像のその眉の特徴は(瞋怒・忿怒面もありますが)慈悲面では美しい細い下限の月に例えられます。これは現在にも女性美眉につながると思います。イモトアヤコの眉は優しい美人じゃないでしょう。 処が平安時代、絵巻などで目にします平安引目鉤鼻の眉はかなり太いですね?

公家達の引眉は目より上の離した処に描きます。その感じが好まれたのでしょう。いま私たちの感覚では、目と眉は離れる方が童顔で可愛くなります。ついでに目の位置が低い方が童顔的はもう周知の事ですね。眼と眉が近いと荒々しくなります。忿怒像で確認してみましょう。  
 
 
 
 
【童顔の古仏 達】
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興福寺 八部衆・沙伽羅★       法隆寺 夢違観音     東大寺誕生釈迦
 
★〔豆知識〕 法華経提婆達多品に登場する八歳の龍女は「沙伽羅竜王」の第三王女の「善女龍王」です。
 
 
仏像から受ける印象もそんなところに在るようです。感じるだけでなしに何故そう感じるのかを認識したく思います。
 
 
 
最後に眉は人間だけとよく聞きますが…よく観察するとすると、ネコ科やイヌ科には違う種類の数本の眉が在りまっすね、しかしそれら獣は感情表現の出来る眉は持ってません。(猫の髭と眉毛は狭い所を通る時の触覚センサーです。)だから笑えないのです。怒った時などは眉より口鼻の方で表象しているようです。 TV映像でよく見る眉毛犬を思い出しました。あれは愉快ですね!
 
クリックすると新しいウィンドウで開きます クリックすると新しいウィンドウで開きます犬猫の普通の眉毛
 
クリックすると新しいウィンドウで開きます クリックすると新しいウィンドウで開きます面白眉

 
 
 
 
何時もは口耳四寸の学の硬い話ですが、今日は思いつくままに綴ってみました。
 
【終】
 
 
 ●8日大雪で中止の「仏像愛好の集in東博」は15日(土)に順延開催します。
 
 
 
 
【おまけ】
飛鳥奈良前期
(白鳳)
奈良後期
天平
平安前期平安後期鎌倉室町以降
彫眼玉眼
・杏仁形(きょうにん=あんずの種の形)
・上瞼と下瞼の縁線が同じ長さ
・伏し目
・上瞼の中央が垂れ下がり、下瞼が少し上がる
・目尻が少し上がる
・目尻が切れ長でつり目
・瞼のふくらみが大きい
・上瞼は直線
・瞼は薄い
奈良時代に比べて小さい
・三日月型(目尻と目頭がつり上がる)
・瞼は薄い
・[中頃] 上瞼の線が水平になる
・[末期] 再び三日月型に戻る
・上瞼の線が少し垂れる
・下瞼は瞳のところで大きく垂れる
・上瞼の線がさらに垂れる
・上瞼のふくらみがなくなる