孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

Takさんの投稿   ふたたび 「瑞林寺」 に行ってきました。

「仏像愛好の集」のメンバー Takさんから 拝観の報告が在りました。
 
「瑞林寺」の画像検索結果 クリックすると新しいウィンドウで開きます クリックすると新しいウィンドウで開きます 関連画像

 【以下 Takさんの文章です】

すっかり暑さが影を潜め、毎日の雨模様は、記録的だそうです。じめじめした気候で体調を崩されませんようご自愛ください。
 
 
先週半ばは、久し振りに金沢への観光旅行となり、のんびりしたかと思いきや、台風の影響で強い雨も多く気分も半減し、後半の予定は知人(同級生、元大学講師)の体調不良もあり、中止となりました。そんなで、このところあまりスカッとした生活が送れていませんでした。それでも天気予報を見ていて、なんとなく昨年のことを思い出して、814日(月)の夜に思い立ち、再び瑞林寺に行くことを決めました。
翌日の「終戦の日」の815日(火)早朝に、横浜駅から沼津駅乗換で、のんびりと最寄りの富士駅まで行きました。いつもなら新幹線を利用したことでしょうが、何故かしら今回は、初めから新幹線利用のことは頭から抜けていました。東海道線は下りのせいか、あるいは通勤時間前だったせいか、アッケラカンとして空いていて、夏休みらしくなかったのも予想外でした。富士駅には午前810分頃到着。駅前からはほんの5分間のタクシー利用となりました。昨年来た時に、駅前からの循環バスが「お盆」運行休止だったことを経験していたし、身延線利用も手間なので、迷わずの選択でした。タクシーの運転手のおじさんは、毎年のように学者や研究者を載せてお寺に行くそうで、最初は私も間違えられました。お客様の乗降、送り迎えはしながらご自分ではまだ、お寺に入ったことが無いそうです。それでも「市立博物館」だかの仏さまのレプリカ像は見ているそうです。昨年同様に、お寺の駐車場では夏祭りの準備で、大勢の男性がテントを組んだり、テーブル、イスをトラックから降ろしたり、お寺の「鐘楼」裏手に舞台のやぐらを組んだりと、昨年と同じ風景でした。空は曇天で、心なしか雨粒が落ちてきているような感じでしたが、本堂へ向かい、準備をしている人たちに挨拶をして、リュックを下ろし、覆い堂を被った小さな「毘沙門堂」の祠や、そこに組まれている十二支の彫物の写真を撮ったりして、お寺の方には、毘沙門堂の屋根が「こけら葺き」という葺き方で出来ている、ということを聞きました。こけらは「杮」と書き、柿(かき)の字に似ているが、つくりの部分が市(いち)の様に「なべぶた」ではなく、真ん中の縦線が上から下まで一直線でつながっている書き方だそうです。こけらは、杉板などの耐水性のある木材の柾目を薄く剥いだもので、幾枚もの杉板を少しずつ平行にずらしながら並べて、竹釘で打ち止めるもので、材木で造ることで建物の軒裏に空気が入り、通気性を保ち、建物を長期間の保存に耐えるようにするそうです。
お寺の檀家の方から、瑞林寺について、簡単に話しを伺いました。この地域は、富士川流域が幾度もの氾濫、洪水などの荒れ川であったものを、江戸時代になって地元の代官・古郡氏の親子三代が、「黄檗宗」僧侶・鉄牛禅師の支援と協力によって、34年をかけて富士川の治水を完成させた、ということです。富士川の幾筋にも別れた荒れ川に「雁堤」を幾つも造り、乱流をせき止め、一本の流れにして流域を新田開発し、「加島五千石」と云われる程に良田・米どころの地域に生まれ変わらせたそうです。お寺の境内には「青嵐わたるや加島五千石」と刻した顕彰碑があります。鉄牛禅師は後に、治山治水の知識と経験から江戸幕府に重用されたそうです。そして、江戸時代初期に地域住民の為に、古郡氏の3代目が当地にあった「天岳寺」(臨済宗)を、鉄牛禅師を招いて「禅林寺」(黄檗宗)と改称・改宗したということです。禅宗の寺院には、釈迦如来を本尊として祀るのが一般的なのですが、鉄牛禅師は、地域や庶民の信仰心の身近な存在である地蔵菩薩像を本尊としたそうです。現在の地蔵菩薩坐像が、鉄牛禅師によって請来されたと伝えられるのですが、像のそれ以前の伝来は不明だそうです。
私からお寺の方には、昭和62年修理の際に取り出された地蔵菩薩坐像の胎内納入物(宝筐印陀羅尼)や、錫杖、宝塔、仏さまの両手首(左手指は第34指が欠失)などの遺品や修理関連資料などを拝見したく、資料庫を開けていただくことや、後でお話しを伺いたい旨をお願いし、お寺の所用があるが短時間ならばということで了解を得ました。本堂の正面、内陣の扉の閉じた厨子(釈迦如来坐像)と内陣の荘厳品、法具・仏具や、右手壁に架けられた大きな綺麗な「涅槃図」を眺めて時間を潰しました。時間前でしたが庫裡の渡り廊下を横切り、庭の池泉に架かる太鼓橋(橋の床板は新しく張り替えて、白々とした綺麗なものになっていました)を渡り、正面の「大願王殿」に向かいました。9時には30分近く早かったのですが、昨年もいらっしゃった、お寺を管理されている檀家の方にお会いしました。既にお堂は開扉されており、内陣の素木のような白っぽい明るい色調の板材に3面を囲まれ、正面の仏さまが明るく拝することが出来ました。予定開扉時間より30分ばかり早い開扉と拝観が出来、私が一番乗りでしたが、すぐ後に、2人連れがやって来ましたが、ほんの10分程度で退出してしまいました。その後はお堂の入り口で管理の方に「今日のような曇天や雨天で湿気が高い日は、開扉は困りますね」との話しから、彼は「よっぽどの豪雨でなければ、雨天でも今日は昼までは必ず開扉する」とのお話しを伺いました。また、寺伝としての京都「黄檗宗」との関係についてご自分が最近勉強されたということを、話されていましたが、申し訳なかったのですが、先程本堂で、お寺の方からお話しを伺ってきたこともあり、私の頭に残りませんでした。彼はその後の来観者に同じようなことを幾度となくお話しをされていました。
また、この地蔵菩薩坐像は、今秋東博で開催される「運慶展」に出展される予定(途中出展:1031日~1126日)で、出展数日前の配送となり、今から幾度となく運送会社(日通)が現場視察や打ち合わせに見えているそうです。管理の方も、厳重梱包ということで、それほど大きくない仏さまが、梱包すると倍以上の荷物になるということを聞いているそうです。自分としては寺外に出て多くの人達に、眼にしてもらうことに、感慨がある、とも仰っていました。
肝心の「地蔵菩薩坐像」は、本当に頭をなでたり膝をさすったりしたいほどに、まさしく手に触れることが出来る、キスだって出来ますよ。素人の私には、どうやったら多くの部材を組みあわせつなぎ、麻布を張り、漆で表面を滑らかに均し、剥いだ部分を解らないように細工するまでの細緻な作業があったら、このように綺麗な肌や着衣の表現が出来るのだろうと、感心してしまいます。「体幹部は両耳後ろから両体側を通る線で前後二材を剥ぎ、内刳りを施す」、「頭部は三道下で割首し、玉眼を嵌入する」、「頭部は額の上方から両眉の端、両耳前方を通り顎下に至る線で割り離す」(牧野あき沙氏論文より引用)などとの説明資料がありますが、とにかく仏さまに10㎝まで近づいてみても、つぎはぎの箇所さえ分からない、昭和62年での綺麗な修理でそれらの指摘を見出すことが出来ない程に、丁寧な作業をして修理されたことが分かります。今回の拝観でも、左腰後ろ部分の袈裟の襞の表現や文様や、右腕内側の衣文表現、背中の衣文の表現や袈裟の文様、さりげない場所の二股・松葉状に分かれる衣文の表現や、袈裟を体の前後で止める細い紐の造りなど、昨年鑑賞したであろうに、またしても感服する箇所が多いことに気付きます。特に、直近での真横からの姿が、あまり見馴れることの無い姿の為か、静かな雰囲気の中にも堂々とした迫力を滲ませているのに、改めて再認識させられました。なお頭部はウエーブのかかった髪際ラインからこめかみ、後頭部まで、一枚布を当てたように仕切られ、一段頭皮より高くなっているようにはっきりとした区別が見て取れます。六波羅密寺の地蔵菩薩坐像にも指摘できる点ですが、一般の地蔵菩薩像や童子像や祖師像などの頭部を観ている限りでは、この像の頭部の造り、表現が違う気がするのですが、これは何ゆえでしょうか?以前から気になっていましたが、今回さらに強く気にかかりました。そしてまたよく指摘されるように、左足膝部から先の脚部の造りには、やはり膝下から足裏までの肉付きが感じられず、余計に直近では不自然さが感じられるようです。今日も腹部前のくぼみを覗き込んでしまったほどです。右足を少し前に出した安座にした造りの為、と云えないような気がしますがいかがでしょうか。今日はお寺の方とは話しに出なかった、胎内墨書銘にある「行実」やあるいは「成尋」などの人物についても歴史のことについても、もう一度論文や図書を読み返して確認してみようと思いました。
 
雨天のせいかどうか、私は拝観してから退出する午前1130分までに拝観された方は、数えるほどで、夫婦2組、男性23人連れ2組ほど、男性単独行者3人ほど、女性単独行者23人ほど、でした。私が退出する前にやってきた外国人男性単独者は、長い時間仏さまの前で手を合わせて、やおらLEDライトを出して、仏さまの背中側までじっくりと拝観していました。最後までLEDだけでカメラは出さずに鑑賞していました。私がお堂の管理者と話しをしていると、指を一本立てて「シー!ノットスピーク、ノットカメラ」と云って、こちらの話しを注意してくるほどでした。ここまで一生懸命に拝観する姿は、初老の外国人(自分でカナダから来たといっていました)でしたが、よっぽど仏さまに関心があったのでしょうか。もしかして著名な研究者だったかもしれません。他にはお互いに言葉が言えないのと、聞き取れないのとで片言でした。彼がしばらく長くお堂内にいましたが、それでも3040分位でしょうか。最後に、丁寧に長いこと手を合わせて頭を下げ、お堂を出てからも橋の袂から振り返ってお堂に向かってお辞儀をされていたのにはビックリ。他の日本人も彼ほどの拝礼をする人は見かけません。最後に拝観に来られた男性が靴を脱いでいる頃に、大粒の土砂降りの雨が降り出し、しばらく勢いが弱まりませんでした。最後の彼は一人でしたが、地元在住の方で、家族が近くにある「オノダ城?」とかいう史跡見学に行っているということで、12時前に迎えに行く約束をしているそうで、そそくさと退出することを話されていた。私は、昨年のように、帰りはお寺から徒歩で10分程度の身延線柚木駅まで行き、1駅で富士駅まで行く予定だったが、10分経っても雨の勢いがおさまりません。彼が、車で来ているので、富士駅まで乗せてくれるという。チャッカリと申し出に甘えて送ってもらうことにして、お寺に約束の資料庫の見学の案内は後日ということで、お断りしたところ、お寺の方からは、事前に連絡をすれば資料庫の拝観が可能だということでした。駅までは5分程度の行程で、往きの道順とは違う道を走って、駅まで送ってくださった。彼の車が見えなくなるまで見送ったことは云うまでもありません。富士駅に着いて、またいつかこのお寺に来る用件が出来てしまった、と考えてしまいました。それとも今日仏さまの拝観の後、当初の予定通り、資料庫の見学とお話しを伺ったほうが良かったかな?と考えてしまいましたが、退出時間の後となると、当初の話しでは、お寺の檀家や近在のお寺の方々が集まる催しがあると伺っていたので、とっさに遠慮して雨を理由に退出したが、この選択のほうが正解だったかな?やはり後日また来るようにしよう、との気持ちに落ち着きました。帰りの電車内は、運動部関係の学生の団体で混みました。沼津駅で乗りかえた際には、土砂降りの雨にびしょ濡れの観光客が乗り込んできて、ざわつきました。横浜経由で最寄り駅までは、雨に濡れることも無く帰り着きましたが、最後の駅から自宅までの10分の徒歩で、傘をさす羽目になりました。
 
 
2017817日 AM 030 Tak

 【以上 Takさんの文章でした。】 



何時もながらの力作長文、敬服です。勉強会での個人発表の時間配分に苦慮の この頃です。斯様に、投稿で頂けますと・・・、 全体時間の摂取に当たらずに 皆に伝えられて、良いとは思いますが、 当人Takさんの お手間は想像に値します。 勉強会での発表にも、質疑応答が大事と思います。 此の投稿にも 是非に コメントを付けて頂いて、 その労をねぎらい、また 相互の遣り取りで、盛り上がったらと希望します。 皆さんよりも、コメント頂ければ幸いです」 孤思庵