孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

Tak)2019年11月18日の報告

●木津川流域の寺院を巡拝してきました:

観光キャンペーン:  

http://www.0774.or.jp/pdf/2019autumn%20hihou-hibutsu.pdf

木津川流域の地域の寺院を2日間かけて6ヶ寺拝観しましたが、2~3ヶ寺の報告に止め
ます。他の数ヶ寺は省略。

・旧燈明寺:

「加茂駅」で降車をすると、私と同じようなオジサンや夫婦連れ数組が眼につきましたが、早朝の眩しい陽射しを受けて閑散とした駅構内や東口の駅前ロータリー広場を過ぎてのんびり歩を運ぶのが気持ちよかったです。歩いているのは私一人で、先程の人たちはどちらへ行かれたのか? 歩きなれたせいせいとした住宅地を通り、燈明寺の鎮守社である「御陵神社」の鳥居を過ぎて堤上へ上がると展望が開ける。そのまま直進し階段を上ると正面に御陵神社の赤い社殿があらわれ、狭い敷地ながら厳かな気
分になれます。社殿奥向かって右手傾斜地には旧燈明寺・三重塔址が残ります。塔は1914年(大正3年)に横浜・本牧三渓園」に移築され、その後も旧燈明寺・本堂も1948年(昭和23年)の暴風雨で大破した後に解体・保存されていたが1982年(昭和57年)に同じく三渓園に移送・復元されたものです。御陵神社社殿の向かって左手に柵に仕切られた敷地内にコンクリート造りの収蔵庫があり、ボランティアの方が数人で受付準備をしていました。

「燈明寺」は奈良時代行基菩薩によって開山された(江戸時代の記録)とか、平安時代・863年(貞観5年)に弘法大師弟子の「真暁」が開基(江戸時代前期の編纂の東明寺縁起による)など諸説があるようです。特に寺院が荒廃した江戸時代には藩主「藤堂高次」の支援により再興に至っているそうです。廃寺後は、京都の「川合京都仏教美術財団」が管理されています。

収蔵庫内には、「千手観音菩薩立像」、「十一面観音菩薩立像」、「不空羂索観音菩薩立像」、「聖観音菩薩立像」、「馬頭観音菩薩立像」の5躯が正面奥に一列に並んで安置されています。これらはいずれも「六観音」に含まれるものですが、一見して構造や着衣の表現、像高などかなりの違いが認められるのでもともと一緒にまとめて制作されたものではないようで、何らかの事情により集められたもので1300年代を中心にいずれも鎌倉時代後半に制作、集められたものと考えられます。各々の仏様はかなり出来の良い像態のまとまった姿が感じられ、捨てがたい趣を醸しています。他には梵鐘(1688年・貞享3年)、十三重石塔、などが僅かに残っています。

因みに、私が数年前にこの場所で購入した燈明寺に関する歴史や古文化財などを記した小冊子を持参しましたが、男性ボランティアも抱えていたバインダーの中に同じ小冊子を持っていました。以前は堂内の隅っこでリーフレットと並べて販売していたものですが、小冊子は既に売り切れてしまい、財団にも在庫が無いそうです。私は貴重な小冊子を持っているのだということが分かりました。大事にしましょう。



・現光寺:

旧燈明寺を出て堤防を歩くこと5分程度で民家の間に隠れるように佇む朽ちた本堂とその前にコンクリート造りの収蔵庫があるだけの寺域で、すぐ近くに僅かな墓石や五輪塔、塔婆の立つ墓域があるだけです。それでもそこからの木津川を隔ててなだらかな優しい姿の山稜が綺麗に印象的な風景が望まれます。

今年の収蔵庫内では、まず「本尊・十一面観音菩薩坐像」(重文)は相変わらずの美しい端正なお顔と流れるような髻の筋目、スマートな均整のとれた体躯、頭上面から頭飾、瓔珞、持物まで黒漆の上から金箔を押した皆金色像です。そして女性ボランティアの説明の通り、像内は丁寧な内刳で鑿痕を丁寧にさらっているということは、制作当初は納入品のあった可能性があるということです。頭上面の1697年に胎内に修理文書が残っているものの、当時の納入品についての記録は無いそうです。両腕の自然な表現や右脚上側の組み方や脚部の肉体表現や着衣の自然な丁寧な彫法には、古典的な彫像技法を身につけた仏師の手になる仏さまだということが感じられます。このところ毎年この時期にお顔を拝しているが幾度拝しても心動かされる仏さまです。残念ながら蓮華台座、光背は江戸時代、修理時期の後補かと思われています。本像と地域の為政者などとの関係を確定するものはないようですが、時代的に鎌倉時代初期の南都焼き討ちに会った際の復興の立役者、解脱房貞慶、あるいは弟子の覚真による造像への直接・間接での可能性を強く考える研究者も多いという。女性説明員からは、
史料として所持していた本像の側面姿勢、背面腰部、頭部頭上面などのA4判の画像を見せて頂きました。大いに参考になりました。本当はその画像をコピーしてでも頂きたいほどでした。

今年は「大仏殿様四天王像」4躯は一緒に安置されていないものの、本尊向かって左側には「真敬法親王画像」1幅、「観音火坑変成池図」(江戸時代)1幅、「厨子入り清凉寺式釈迦如来立像」(江戸時代)が並び、本尊向かって右側には「厨子入り聖観音菩薩坐像(船形光背付)」(江戸時代)、「厨子入り地蔵菩薩坐像(円頭光背付)」(江戸時代)(像はともに50~60㎝程度か?)が並びます。



受付の男性ボランティアとの歓談の中で、現光寺奥の急坂を登った先の旧燈明寺の墓地のあるイシバ山麓に、江戸時代にこの地域の藩主の実力大名「藤堂高虎」の「供養碑」があると伺いました。加茂駅の北側に流れる「木津川」の「加茂浜」は河川物流の拠点でしたが、「大野浜」は築城の名手で徳川家による大阪城再建に中心的な役割を果たした藤堂高虎の指揮で切り出された巨石が木津川から運び出された場所で、今でも切り出されたものの、大阪へ運ばれずに大阪城築城に利用されずに残った巨石が「残念石」として幾つも残っているそうです。

また彼からは、対岸の「海住山寺」から「鳶が城跡」を経由して「神童寺」まで、標高300mほどの尾根道があるがかなり荒れているルートということを伺い、地図まで頂きました。次回の巡拝時には時間を作ってこのコースを辿ってみたいものと考えています。



・蟹満寺:

各停の電車に乗り「棚倉駅」で下車。無人駅でホームに降りたのは私一人、周囲には誰一人姿を見かけませんでした。お寺までの案内板も見当たらない道を地元の人々や通る自動車もなく、のんびりと歩くこと20分ぐらいで住宅地の中に蟹満寺が見えました。私のような者にはコミュニティバスは平日は運行が無く歩くしかありません。10年以上以前に私がお寺を拝観した際はやはり他のお寺から寄ってきたのだが、今回歩いた道順には覚えがありませんでした。お寺の周囲を撮影して廻り、真新しい山門を
くぐったところで同じく真新しい正面本堂前に黒色スーツ姿の男女2名がザックと書類ファイルを抱えて立っていました。一目でツーリズムの随行員と感じました。本堂入堂の前に屋根瓦の「蟹」の文様や本堂脇の外壁に掛る「蟹満寺扁額」を間近にしてカメラを向けていました。本堂横の寺務所で拝観料を支払い本堂内陣に入ると、3名の中年婦人に向かってスーツ姿の男性が本尊前の護摩壇付近で仏さまの解説をされていました。他には拝観客がおらずだったので、私も男性の解説を後ろで離れて拝聴させていただきました。5分程度で説明が終わったので、私はズウズウしくも気になった点をその講師に聞いてみました。彼は2~3点の些細な疑問にゆっくりと話しをしてくださいました。堂内に入って来られた男性随行員に講師のことを伺ったところ、クラブツーリズムの個別解説付きの拝観ツアーで講師は然るべき学校の先生ということで、ワゴンカーで1日数ヶ寺の巡拝だそうです。それでお寺に到着した際にお寺の裏側の駐車場に大型の自家用車が1台だけ駐車していたのが合点しました。

彼らが退出した後は私一人です。お寺のチラシによると本堂他は、2010年(平成22年)春に落慶供養が行われたそうで、なるほど真新しい建物のはずです。本堂内は本尊頭上の折り上げ格天井も白壁も簡素な造りで、本尊頭上の天蓋も簡素なもののようで、さして広くない堂内空間はお寺にしては真新しいが殺風景な感じです。荘厳も新しい華鬘(鳳凰2対)が天井から3か所下がり、幡が1対と寂しいくらいです。護摩壇奥に一段高くなった須弥壇が白壁に組み込まれており、中央に「本尊・釈迦如来坐像」(国宝)が安置され、向かって右側には「縁起本尊・聖観音菩薩坐像」(船形光背付き)を中心に右手に不動明王立像(火焔光背付き)、左手に地蔵菩薩立像(輪頭光背付き)が並びます。この3尊は近寄って拝することが出来ましたが江戸時代ごろの作と思しきものですが、結構きちんとした出来の良い仏さまのようでした。向かって左手には「厨子入り阿弥陀如来坐像」(船形光背、蓮華台座)を中心に右手に「弘法大師坐像」、左手に「興教大師坐像(中興の祖)」が並びます。本尊と向き合う形で、反対側の長押には寺号起因説話「蟹満寺縁起」を絵物語にした絵額が6枚掛って説明しています。私の今回の拝観は貸し切り状態で、私が本堂を退出するまでついぞ誰一人として拝観客が見えませんでした。

お寺の創建は7世紀後半の白鳳期にさかのぼり、境内周辺の発掘調査では背後の天神川を越えて広大な寺域を有していたことが判明し、その時に分かった創建時の金堂が平城京薬師寺金堂と同規模同構造の巨大な建物だったことが考えられるそうです。
そして現在の本堂と庫裡の地下に遺存しているということで「本尊・釈迦如来坐像」(国宝)は、数少ない初期丈六金銅仏の中にあって寺院の創建以来の旧仏にふさわしく、今も創建金堂跡の中心に鎮座していることになります。





●京都寺院を巡拝してきました:

今秋の京都寺院巡拝は週半ばの平日2日間で5ヶ寺を巡りましたが、とにかく市内は観光地だけでなくほぼ全域がラッシュ時の状態です。とにかく大きな荷物を引っ張りながら一心腐乱にスマホを見つめて周囲に気を配らないような観光客が集団でウロウロしているので普段はあまり京都市内は敬遠しているのですが、この時期はやむなく目指す寺院を目指さざるを得ません。それでも目指す寺院に着けばあまり拝観客が多くなく、彼らは短時間での滞在なので混雑はさして苦にならないものです。

ホテルを早めに出発し、目的の寺院にはまだ開扉の準備をしている最中に到着するという何時ものパターンです。特に印象に残った2ヶ寺の寺院の拝観について紹介し、他は省略することにします。



清浄華院

京都府立病院前バス停でバスを降りたのは私一人で、多くの乗客は下鴨神社などこの先の観光地に向かわれるようでした。私は勝手知ったる道筋をゆっくりとお目当ての寺院に向かい、途中2番目に寄る蘆山寺の門の前を通り過ぎて、まだ時間前に清浄華院の総門をくぐり、すぐ隣にある「勅使門」は帰りにくぐることとしました。それでも先に高齢のご夫婦が見えていて、伺うと地元の方だそうで毎年のように拝観に訪れているとのことでした。ちなみに私は2~3年前に拝観したことがあり今回は2回目の拝観となりました。

境内に入ると、まず「松林院」跡の場所は「仏教大学」の浄山学寮になっていますが、松林院跡の土壁の際に、短期間に請われて2度も守護職に就かせられた「京都守護職松平容保」(幕末最後の会津藩主)が幕末の一時期、「孝明天皇」に御所近くにいるように命じられてここに逗留したそうで、このことを示す石柱碑があり、お坊様に伺うと「山本覚馬」もこのお寺(旧松林院)に寄宿していたそうです。近くにいた当日の公開文化財の説明対応の同志社大学の学生に聞いたところ、誰も松平容保のことを知らなかったので、私はがっかりしてしまいました。

清浄華院」の名は、「浄土に咲く蓮の華のように清らかな修行が出来る場所」という願いがあるのだそうです。創建は貞観2年(860年)に清和天皇の勅願により天台宗の「慈覚大師円仁」が宮中に「禁裏内道場」としたのが始まりということです。
「円」(円教、天台)、「蜜」(密教)、「戒」(円頓戒)、「浄」(浄土教)の4つの学問を学ぶ「四宗兼学道場」であったそうです。

また、私のこの寺院での拝観の目玉は「是心堂」に安置されている「阿弥陀三尊像」(国宝、南宋時代、普悦筆、3幅1具)でしたが、まずは「泣不動縁起絵巻」などを順番に方丈内を巡って拝観して廻りました。

・「泣不動縁起絵巻」(重文、室町時代、宅間法眼筆):

「大殿」安置の「泣不動尊像」には「泣不動縁起」という縁起が伝わります。「三井寺」の「証空」や「安倍清明」に関する説話は多くの文学や絵画、芸能の題材にもなっており、「泣不動縁起絵巻」(清浄華院本)は鮮やかな色彩で古さを感じさせない絵巻物構成になっており、鎌倉時代に描かれたものが東博本、南北朝時代の制作物が逸翁美術館本、室町時代の絵巻物が奈良博本などとして現存しており、清浄華院本も室井町時代の作品として所持しているそうですが、今回は「狩野永納」による模写本(永納本)が展示されていますが、重文の宅間筆の絵巻は普段は京博に寄託されており非公開だそうです。



・「阿弥陀三尊像」(国宝、3幅1具、南宋時代、普悦筆): 

畳敷きの仏間が並んだ一隅に「是心堂」の扁額がある部屋を見つけて神妙な気持ちで襖の奥に入る。とにかくうす暗い部屋でお目当ての作例がすぐには何処に所在するのか探してしまうほどでした。入口すぐの右手に大きなガラスケースに収まった天井近くから掛けられた3幅の軸物で、すべてが全体にかなり濃い茶色の地色なので仏さまの姿がよく判らないほどでした。中央に本尊阿弥陀如来立像、左右に観音菩薩勢至菩薩を配するもので3幅がほぼ同じ大きさ、高さ約1.3m、幅約50㎝ほどの大きさの画像です。暗さに眼が慣れてくると、茶色く暗く見えていた各幅の上部には仏さまの背後の大きな「船形光背」が薄ぼんやりとおぼろげな形が描かれているのが判ってきました。会場内の暗さと画面の暗さが一緒になって余計判別が困難な状態でした。それでも3体の仏さまの像態は均整がとれた安らぎを感じる揺らめいて見えるような雰囲気で、過剰なほどの細部まで細い筆線は精緻でよくぞここまで細かく綺麗に描いたなと思わせるほどの、克明な描写は感服ものです。近くにいた説明者からは「中国南宋仏画の白眉ともされる作品」との説明があったが、暗い画面構成の中に「幽玄」とも
いえる周囲の空気感が感じられたのは、私一人であろうか? 本尊は頭部に環状の頭光背、両脇侍は薄い朱色の板状の円光背を背負い、宝冠上の化仏や多くの持物などの荘厳や身にまとう着衣の柔らかな質感もすべてが鮮やかな細線で描かれた仏さまは、むしろ画像全体が明るくなくて克明に明瞭に眼に入らないところが気分を落ち着かせ余計なことを考えさせないのかもしれません。本尊は例によって赤い衣をまとい、左腕を屈して胸前に挙げており、右肩衣から出た右腕はそのまま垂下しているのが僅か
に認められます。いわゆる「逆手の阿弥陀如来立像」で播磨・浄土寺の快慶作の彫像をはじめ、観想図に観られる中国・宋からの仏画に則っています。私の知る限りでは観無量寿経変相図阿弥陀三尊像や高麗仏画でしか拝観した事が無いのでやはりこれだけの大きな仏画は、圧倒され驚きです。

各幅の上部には「四明普悦筆」との記名があり、日宋貿易の拠点になった「浙江省寧波」(にんぽー)の旧名地「四明」(しめい)に居住していた「普悦」(ふえつ)という人物の描いた作例であるということです。普悦という画家の存在は詳しくは分からないものの、室町時代に著わされた「君代観左右帳記」(くんだいかんそうちょうき)には「元代、仏像」の項に「四明普悦」の記述があるということから、この仏画だろうということです。以前のことは不明なれど足利将軍家が「東山御物」として珍
蔵していた家宝の一つだったと考えられ、その後浄土宗鎮西派の総本山だった清浄華院に寄進されたものと考えられる逸品だそうです。日宋貿易上で日本に請来された中国仏教絵画の学術的レベルの高さが評価され2012年(H24年)に重文から国宝に昇格指定されました。なお本画像は通常は京博に寄託されており、寺院での公開はされていません。

私は自宅に帰って来てから本棚の「京都国立博物館寄託の名宝 美を守り、美を伝える」(京都国立博物館、2019年8月発行)の図録を広げたところ、同様のことが記されたページがありました。



・「勢至菩薩坐像」:

仏間の阿弥陀三尊像(四明普悦筆)の奥正面の壁面に設えた腰高の檀に「勢至菩薩坐像」(江戸時代、約60㎝像高、寄木造り、漆箔・截金、右脚上の結跏趺坐)、他に「向阿上人坐像」など数体の像アリ。勢至菩薩像は、非常に高くスマートな髻、天冠台は1条、頭飾、瓔珞は金属製で過多の観あり、天衣は腕釧の上から上腕の外側から内側へ廻り腰部に垂下し魚鱗型蓮華台座まで垂下している綺麗な造りで、天衣と条帛が背中側で交差している意匠は知恩院金戒光明寺くらいで認められるそうで貴重だ
そう。ちなみにお坊様は、この像は知恩院勢至菩薩坐像(重文)の模刻だという近年の研究がある、というようなお話しでした。また勢至菩薩像は独尊として扱われることは無いようですが、浄土宗では法然上人が勢至菩薩の化身だという信仰があり特別に祀られることがあるというお話しでした。



・「阿弥陀三尊像」:

「大方丈」の大きな仏堂には、奥まった内陣に本尊として三尊像が祀られています。
少し暗い内陣には天蓋は無く、背後の金地壁面が目立つ雰囲気で四天王像が何故か額に収まり天井鴨居の四隅に祀られています。この三尊像は阿弥陀堂の元本尊で、中尊の阿弥陀如来坐像は「恵心僧都源信」の作と伝えられ、典型的な「定朝様」と云える平安時代中期から後期の政策と考えられている僧です。マイメモによると、船形雲形渦巻状文様光背、魚鱗形蓮華台座、右脚上結跏趺坐、肉桂やや扁平、螺髪細かい、条帛襞平行線状、定印、衣文彫浅く髪際直線状、眼窩浅い、という感じの記録。

観音菩薩坐像」「勢至菩薩坐像」は、ともに「大和坐り」というスタイルで正座の姿勢で両脚を左右に広げたスタイルとなっています。両脚腿の間に掛る着衣の表現が綺麗に処理されており、バランスの良いスタイルです。蓮華台座後ろから立ち上がる円頭光背、浅いが流麗な並行線様の衣文、条帛は腹部で折り込みが観られる。髻は上部左右で巻状で筋目髪が綺麗。宝冠は金属製で大き目、化仏や水瓶が認められる。説明によると台座、光背、像漆箔は後補だそうです。



他に「木造弁財天坐像」(厨子入り、玉眼彩色、寄木造り、頭上鳥居形戴、像高約40㎝、江戸時代)なお持物として「琵琶」を持つのが弁才天像、「武具」を持つのが弁財天像との区別をしているそうです。 「木造金毘羅権現立像」(厨子入り、寄木造り、玉眼彩色、像高約50㎝、1817年銘記あり、斧を持つ武将神)、 「木造秋葉権現立像」(厨子入り、白狐に乗座し白蛇を身体に巻く、顔面にはくちばしを背中には翼を付ける)などなど。



私がいろいろとお寺のお坊様に伺った話しの中で思いがけないお話しがありました。
去る7月18日に「京都アニメーション第一スタジオ」が不届きな者によって放火され35名死亡、34名が負傷という痛ましい事件がありましたが、清浄華院では有志僧侶によって「僧侶として出来ることを」と考えて、事件発生後から七日ごとの法要のほか月命日などで数多くの法要を営んできたそうです。直近では9月5日に四十九日法要が営まれたそうです。私が仏様を拝観した本堂の畳敷きの大きな部屋に、天井から「當麻曼荼羅」を掲げてその前で寺院関係者や近所の住民などが「抜苦与楽 超生浄土」と供養を行なったそうです。京アニファンやアニメ作品に悩みを救われた参列者もいらしたそうで、お坊様はお寺として誰でもが集い献花をする場所が欲しいと思い、今後も継続的に節目節目に法要を行なうということでした。

私はあいにく、アニメーション作品を全くと言ってよいほど観たことが無いのでどの作品が「京都アニメ」の作品なのか分かりませんし、こんな惨事があったからと云ってもこれからも自分から進んでアニメを観ることは無いでしょうが、同じ京都ということで「お寺として出来ることをする」という気持ちには敬服しました。



さらにお坊様からは、集いの会の方のなかにはご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、愛知県津島市「西光寺」が所蔵する「水落地蔵菩薩立像」(重文)の体内から発見された印仏や泥仏や勧進記録文書と共に「一行一筆結縁経」(いちぎょういっぴつけちえんきょう)という写経2巻が収まっていたそうで、そのうち「無量義経」(むりょうぎきょう)の中に「栄西」(ようざい)や「信空」(しんくう)などの高僧や源空の弟子が記したおのおの一行ずつと署名に混じって「源空」(法然上人)本人の墨書があるのを、多摩美術大学青木淳教授が確認したということを教えていただきました。結縁経とは仏教に縁を結ぶ、寺院や仏像建立の協力を募る事などを目的に、お経を一行ずつ写経者が書き写して行の最後の一番下に自分の署名をするもので、書き終わったら次の行の経文を次の写経者に引き継ぐものだそうです。それで経文の各行の最下部には写経者の名前が横並びに書き連ねられているものです。

青木教授が関心を持ったきっかけは、「仏教芸術」342号の伊東史郎著「愛知・西光寺地蔵菩薩像(水落地蔵)の新知見」という論文史料だったそうで、その後得意の仏像胎内納入品の研究分野を活用して調査分析を行ない、署名の確認に至ったそうです。お坊様からは、青木教授が署名の信ぴょう性を確認するために最新技術のスキャナを駆使して、大阪「一心寺」(いっしんじ)蔵の「一行一筆結縁経」の「佛子源空」という署名と比較したことが字体の判断のもとになったということでした。いろいろと写真や古文書の写しなどや青木教授の仏像調査時のスナップ写真などを拝見することが出来ました。帰り際にお話しを伺った後でお坊様から浄土宗の定期発行の綺麗な編輯の新聞・広報紙を頂きましたが、その中に青木教授が見開きで経緯などを解説している記事が大きく掲載されていました。

なお新聞・広報紙の記事の最後に、水落地蔵菩薩立像(160㎝)は西光寺所蔵で拝観は要予約で、各種胎内納入品は「名古屋市博物館」に寄託中(非公開)だそうで一緒の場所にはない、との記載がありました。





●京博「佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」展に行ってきました:

展覧会案内:  https://www.kyohaku.go.jp/jp/special/index.html 

晴天の早朝、開館1時間前に京博に到着したものの、正門前から妙法院方面の歩道は長蛇の列で、20分程度の待ち時間だと聞かされました。並んだ場所が悪かったのか周囲は女性の多人数連れグループが多く、男性はチラホラでした。何処でも女性の拝観客が圧倒的に多くにぎやかです。正門で待たされて展覧会場入り口で待たされ、入場
したロビーで待たされしてもうクタビレてしまいました。歩いている分には足腰に負担がかからないのですが、長い時間の立ち姿勢は腰に悪いのでしょう。来慣れた京博ですが、これほどの大勢の拝観客の中での拝観は久しぶりで、最近には無かったことです。

ちなみに、奈良博や東博は「特別展」と「平常展示」とはっきり区別された展示方法で、特別展を拝観しない限りは平常展示の料金で行くことが出来ますが、京博は「特別展」と「平常展示」を明確に仕切ることが出来ない建物構造になっており、特別展を開催中は、「特別展を拝観しない」、「図書購入だけ、グッズ購入だけ」と云っても入館する際には特別展拝観料金のみの一本のみの料金です。男性職員にうかがったら、京博は新館建設後に階段配置などこの不具合な構造の建物だということに気がついたそうですが、そのままになってしまっているそうで残念なことです。

私には京博の展示会場には勝手が違うというか、拝観しずらい感じでいつも3階からではなく1階から拝観していくというへそ曲がりです。しかし、上の階の展示コーナーはいつもスパンの広く取った展示スペースを確保し、隣の展示作例との間隔が広いことが鑑賞しやすい気分をもたらしています。特に今回の佐竹本三十六歌仙絵の展示は、もともとの切り取り画像に表装をした大きさでも圧迫感を感じさせるものではないので気分よく一日を会場内で過ごすことが出来ました。それでも一つとして同じ構図、顔の表情、身体の動き・向き、着衣の色使いが認められないほどの変化にとんだ意匠という画構成は見事といわざるを得ず、細緻な筆使いによる目鼻立ち、髪のくしけずり、装束の文様・彩色などの表現は感嘆するほかないほどです。会場内では時々行きつ戻りつして拝観し、いつものように昼食抜きで夕方までの京博滞在となり、退出した時は疲労困憊でした。

図録は、各歌仙絵は各表装全体画像と断簡絵の拡大・折り込み画像と組み合わせており、他の関連工芸品・茶器なども含めてタダでさえ展示件数が多いのと相まって、約3㎝、320ページの分厚い立派な装丁の図録編集になっています。総論:「佐竹本三十六歌仙絵」(井並林太郎論文)、「佐竹本からみえる数寄者の想いー100年の流転のなかでー」(降矢哲男論文)は読みごたえがあります。

京博を退出しての感想は、主催者には申し訳ないのですが「歌仙絵」31枚の各断簡ですが絵柄や和歌詠みはもちろん素晴らしいので、博物館はそこに焦点を当てて展示を工夫されるのですが、私にとっては特にICOM・京都大会が終わった後だったり、直近の住友財団の「泉屋博古館」ほかで開催された展覧会のように、美術工芸品が現在に遺る背景をもっと説明していただきたかった。「増田孝(鈍翁)」、「高橋義雄(箒庵)」、「團琢磨」、「馬越恭平」、「野村徳七」、「岩原謙三」、「原富太郎(三
渓)」などの明治黎明期に事業を興し功成った事業家であり文化財蒐集家だった彼らの文化財の散逸を防ぐ算段や苦悩を知る場所が欲しかった気がして悔やまれました。

この展覧会や作例については幾つかのTV番組で放送されており、私も録画予約をしているのでゆっくり視聴するつもりです。





2019年11月18日 AM0:30 Tak