孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

Takさんの 京都・木津川方面に巡拝

Takさんから力作、大長編の寄稿が在りました。読む方も頑張りましょう。


【以下Takさんから寄稿文です。】
私の方は、旅行の帰宅最後のところで114日夕方に、想定外のことが起こり、しばらくは足腰の様子に気をつかわなくてはならなくなりました。
 
 
112日(水)~4日(金)にかけて、予定通り京都・木津川方面に巡拝に出掛けて来ました。皆様にはいろいろ行事がありながら、ご無沙汰をしてご迷惑おかけいたしました。
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112日(水)
いつものように、早朝同じ時間に家を出て、同じ時間の新幹線列車の同じ号車、席番号に乗車し、いつものサンドイッチを朝食とし、いつもと同じ時間に京都駅に到着しました。その足でJR奈良駅に向かいました。普段は近鉄を利用して奈良に入りますが、奈良からバスを利用する関係で、JR利用としました。JR奈良駅前から、浄瑠璃寺行のバスに乗りました。この時期は特に注意して経路を考えます。どういうコースがスムースに気楽に行動出来るかを考えます。以前妻と出かけた際には、JR奈良駅から乗車して、近鉄奈良駅から団体客が乗り込んで来た経験があり、後日、奈良交通に聞いたところ、大半の団体ツアーが近鉄奈良駅利用を設定しているということを聞いていたので、今回もJR奈良駅からの乗車とし、ガラガラの始発発車となりました。案の定、近鉄奈良駅前からは幾人もの客が乗り込んできて、腰掛けられずに立っている客も多くなりました。私は最後尾の座席に腰掛けていたので、車内が混んできても、問題ありませんでした。
 
浄瑠璃寺』(じょうるりじ)
国宝・九体阿弥陀如来坐像、 国宝・四天王立像(持国天増長天)、 重文・吉祥天女立像、 重文・地蔵菩薩立像、 重文・不動明王三尊像、 重文・薬師如来坐像(三重塔初層)
浄瑠璃寺では、バス停からお寺の山門までの参道途中にある。野菜の無人販売所といっても、物干しのように2段の竹竿を渡しただけの細工がされたところに、野菜や柿などが吊るされて売られているものですが、それらの写真を撮りながら、バスを降りたかなりの人数の観光客が、足早に山門の中に吸い込まれていくのを待っていました。浄瑠璃寺は、「浄瑠璃寺流記」によると永承2年(1047年)に当麻出身の僧義明が薬師如来を安置して、開基したものと伝えています。
本堂内の諸尊については、ヘッドランプの使用許可を最初に得てから、ゆっくりと拝観させていただきました。国宝である「九体阿弥陀如来坐像」は、平安時代には数ヶ寺で建立されたといわれる尊像ですが、現存する群像はこの寺、この仏のみとなっていそうです。中尊は丈六像で来迎印、両脇の8体の如来像は半丈六像で定印の印相を結んでいる、全像ともに寄木漆箔造りです。8体の像は、各々異なった文様の板光背を背負い、何回観ても飽きないものです。九体阿弥陀堂の本堂内の最南端に安置されている「四天王立像」2体(持国天増長天)の他の2体は、多聞天京都国立博物館に、広目天東京国立博物館に寄託されています。この2体についても、あまり関心を持って観て行かれる人は少なく、やはり暗い場所に、安置されているせいかもしれません。LEDを点けて後ろの像まで、十分に時間をかけて鑑賞します。中尊向かって左隣に「吉祥天女立像」が厨子に入って安置されています。五穀豊穣、天下泰平の幸福の女神吉祥天で、「吉祥悔過会」(きっしょうけかえ)の本尊とされ、像高90㎝で、建暦二年に本堂内に祀られたことが記録に遺されているそうです。ちなみに厨子の内外の絵は最近の修復により復元したものです。やはり、LEDを点けて観るお姿は、像態や彩色、厨子内の様子など細かいところまで観ることが出来て、満足です。本堂最北端つまり本堂の出口直前には「不動明王三尊像」が安置されています。不動明王立像は約1mの像高で、応長元年(1311年)に建立された護摩堂の本尊だったそうだが、現在は本堂内に安置されています。像高約50㎝の二童子像を従えて立つ、玉眼を施された三尊像です。私の好みの群像でもあります。私が三重塔に向かう頃は、当初の境内の池泉の周りの浄瑠璃寺庭園のにぎやかさが、噓のようにひと気が無くなって、静かな他の人々に邪魔されない空間に変わっていました。この時間を待っていました。三重塔内の「薬師如来坐像」は、平安時代の像で「九体阿弥陀如来坐像」よりも60年前に造像された、本来の当寺の初代本尊だそうです。今回も天気だったので、三重塔初層西向きの観音扉が開扉されて、尊像を拝することが出来ました。それでもヘッドランプの手助けを必要としました。三重塔から観る、池泉越しの九体阿弥陀堂の姿は、まだ樹々の色付きには早いものの、それでも風情のある景色が、心身ともに癒されるようです。年が改まったら、早々にお寺・灌頂堂に「大日如来坐像」のお顔を拝しに来ますと、つぶやいて浄瑠璃寺を後にしました。
以前訪問した際は、岩船寺から浄瑠璃寺へ歩いたのですが、どちらかといえば浄瑠璃寺から岩船寺へ向かうほうが、あまり雑木林の山道や里山では登り道が少なく楽そうなので、ゆっくりと野仏を巡りながら、今回はこのルートを選びました。竹林の山道に入ると、ひんやりとした身がしまるような空気感が気持ちよく感じられ、行く先々の野仏を鑑賞しながら、時々野良道に降りてきたリ、民家の庭先の横を過ぎたりと、まだ紅葉には早い樹々の様子を見上げながら、乾いた落ち葉をしっかりと踏みしめつつ、変化の富んだ里山の景色を堪能しながら「岩船寺」に向かいました。
 
 
 
岩船寺』(がんせんじ)
重文・本尊・阿弥陀如来坐像、 四天王立像、 重文・普賢菩薩騎象像、 両界曼荼羅、 岩船寺縁起
今回伺った日は、ウイークデーで残念ながら「土・日・祝日」ではなく、三重塔の初層開扉が無かったため、「来迎壁画像」、「板戸の八方天画像」が拝観出来ませんでした。
「重文・本尊・阿弥陀如来坐像」は、ケヤキ材の一木造り漆箔の巨体の約2.6mの「丈六像」です。印相は定印、結跏趺坐をしている像で、胎内に墨書銘を遺しており、元号が判読出来ないが、干支の丙午年は天慶九年(946年)しかなく、造像時期が特定出来る作例となっているそうです。体全体が丸みを帯びた体躯の良い、翻波式といわれる衣文の表現で彫りは浅く滑らか、穏やかな顔付きの頭部の比較的大きめの平安時代後期の像として、貴重な尊像という評価を得ている、ということですが、個人的にはあまり惹かれる像にはなれません。
「四天王立像」4体は、多聞天像の岩座框裏に願主と仏師と造像時期についての墨書銘が遺されており、正応六年(1293年)の造像であることが分かる像であるということです。願主は興福寺の要職を務めた僧侶と見られているそうです。4体ともに躍動感のある、肉付きのよい重量級の四天王立像で、甲冑武具を着けたバランスのとれた秀作と云える像です。「重文・普賢菩薩騎象像」は、本堂内の本尊向かって左脇に厨子内に安置されていますが、本来は三重塔初層に安置されていたそうです。普賢菩薩騎象像が安置される厨子内の奥壁には、綺麗な「法華曼荼羅」が描かれており、一木造りの尊像で、象に乗る菩薩像の比率が大きいことが目立つもので、菩薩像は、撫で肩の華奢な体躯で、上半身が長めでかつ大きめで、半面脚膝部の肉厚の薄い像態で、あまりバランスが良くないように観えます。上半身の均質な調子での単調な彫りの表現が、稚拙かとも思える像で、集古館像や妙法院像と比べて、作例としては一歩及ばないもののように感じます。それでも白象はしっかりと表情のある造りで、往時の綺麗な色彩が偲ばれ、出来が良いもののようです。本尊、四天王像などの須弥壇後ろの壁には、「両界曼荼羅」が極彩色で描かれて、目立つ存在でした。
お寺には、堂内の入り口に住職がいらっしゃったので、住職に挨拶をしてから堂内を一巡して、諸尊を拝観させてもらいました。その頃には副住職もお見えになり、朱印帖への墨書をされていました。といっても、拝観客が多いわけではなく、ほとんどの人が、外陣を一回りすると、短時間でいつの間にか黙って退出されていくので、お二人とも手持ち無沙汰でボンヤリしている様子だったので、ご本尊のことからお話しを伺うこととしました。その後は、四天王像や、お目当ての普賢菩薩騎象像へとお話しを伺いました。また、宗派や地域の仏教関係の、会合などの行事が結構多くあることを聞かされました。意外と拝観客が少ないのではないですか、と伺ったら、毎年この時期このようなものだ、とのことで、大勢の団体客は意外と少ないそうです。印象では、ツーリズムや奈良交通などのバスツアーは結構多いのではないかと思いましたが、意外でした。住職のお話しでは、山の上なので狭い道路事情と駐車場の問題から、そうなっているのではないかということでした。最終のバス便の時刻を伺って、私はやっと腰を上げました。住職には長いことお付き合いを頂き、ありがとうございました。
 
 
 
113日(木・祝)
『旧燈明寺』(きゅうとうみょうじ)
千手観音菩薩立像、 十一面観音菩薩立像、 不空羂索観音菩薩立像、 聖観音菩薩立像、 馬頭観音菩薩立像
いつものように、朝ドラを見てからホテルを出発し、ひんやりした大気のうす曇りの天気の中、眼の前のJR奈良駅から電車で加茂駅に向かいます。乗客は少なく、わずかな時間で終着駅に着き、しばらくはフラフラと駅前の広場で、のんびりと缶コーヒーを飲み、時間調整をしてから腰を上げ、駅前の大きな通りに沿って、閑静な住宅地の中を通り、「御霊神社」の石鳥居をくぐって、参道を行き、小川にかかる橋を渡る手前には、何とか拝観をさせて欲しい宿願の「現光寺」への標識が、左手に向かう様に立っており、眼の先には、現光寺の大きな瓦屋根と、こんもりした樹々の様子が見られました。今度もかなわなかった現光寺の拝観に、いつかお訪ねしたいものです。橋を渡り、小高い山がちの高台の袖に当たる場所に向かってすり減った石段を上り、のんびり歩いて加茂駅から約15分、午前930分前には、最初の巡拝寺院の「旧燈明寺」に到着しました。まだ2名の観光協会のスタッフの方がお堂を開扉する作業をしており、まずはお寺の境内になる正面、間近の「御霊神社本殿」や、神社向かって右手には、意外と狭い場所にあった「三重塔跡」や、神社本殿のすぐ脇にあった「鐘楼跡」などを観て廻りながら、時間を潰していました。そんな姿をみかねたスタッフの方が、開扉時間前のかなり早い時間から、私一人の拝観客を受け入れてくれたので、そそくさと靴を脱いで堂内にお邪魔しました。
「燈明寺」は、パンフによると「東明寺縁起」(元禄9年・1696年)には、平安時代貞観5年(863年)に弘法大師の弟子の「真暁」(しんぎょう)が開基したと記されています。創建当時は「観音寺」と号されたが、後に「東明寺」となり、ふたたび荒廃し「燈明寺」となり、時代が下って鎌倉時代の末期には本尊・千手観音菩薩立像をはじめ、現在ある5躯の観音菩薩立像や十三重石塔南北朝時代花崗岩)、燈明寺型石灯籠などが作られたということです。室町時代には、天台宗の僧侶によって再興され、本堂や三重塔が再興されたが、江戸時代には、「拾遺都名所図会」に寺域が描かれており、「南山城三十三箇所霊場」の第三番に名を出して、一時期多くの参拝者を集めたようです。鎌倉時代に「燈明寺型」として意匠が優れた灯籠として名が知れた「石灯籠」は、江戸時代中期(寛延年間)に堂塔修理費用捻出のために「三井家」に売却され、現在は東京都内の「三井家」に現存しているそうです。代わりに模造の灯籠が現在地に遺されています。「燈明寺三重塔」は大正3年に横浜「三渓園」に移築され、また「燈明寺本堂」は昭和23年の暴風雨で大破したため、「特別保護建造物」(旧国宝、現在の重要文化財)として解体し保存されていたが、お寺は昭和27年に廃寺となったこともあり、昭和57年に横浜「三渓園」に移送され、復元されました。昭和60年、本堂跡に収蔵庫を建設し、諸尊も修復されて収蔵されたということです。収蔵庫脇には、「十三重石塔」が立ち、屋根は緩やかに反り、初層にはイワクつきと思われる種字が刻まれており、均衡のとれたきれいな石塔でした。廃寺後は、隆盛だった頃に比べて大変衰退したものの、かなり流失したり、廃棄されたりした寺宝もあったそうですが、時代を乗り越えて、現在まで幾ばくかの寺宝を、地元の人々や篤志団体が中心となって、守り続けて来ました。
堂内には正面壇上に、「千手観音菩薩立像」、「十一面観音菩薩立像」、「不空羂索観音菩薩立像(伝如意輪観音菩薩立像)」、「聖観音菩薩立像」、「馬頭観音菩薩立像」が整然と並び、左右に、本堂発掘調査時の瓦や、古文書、胎内納入品などが、ガラスケースに陳列されていました。よく観ると、5体の立像の構成は、「六観音」の構成になるもののように思えましたが、同じ形式の仏さまでないことは、一目瞭然です。本来一具として造像されたものではないようです。つまり、千手観音、十一面観音、不空羂索観音(伝如意輪観音)はほぼ等身大であるが、他像は1m弱の像高になっています。
中央に、漆箔と黒漆色のツートンカラーの目立つ仏さま「千手観音菩薩立像」が安置されています。像高約180㎝、燈明寺の旧本尊と考えられている仏さまだそうです。正本面を含め十一面、42臂の一般的な千手像で、ヒノキ材による頭体幹部は一木造り、頭部と背面に別材を使用している、彫眼・漆箔仕上げの仏さまです。調査の結果、制作時期は鎌倉時代後半頃、と推定されているそうです。頭体幹部から台座までが、漆箔仕上げになっており、両側千手部分は、下地までで漆箔が施されていないため、はっきりとツートンカラーになっています。かなりまとまった、端正なバランスの良い姿に仕上がっていて、宝冠、瓔珞などは後補とおぼしきものですが、古色を帯びた独特の雰囲気を醸しており、衣の表現もスマートに、無難にデザインされた彫法の滑らかな、印象を受ける仏さまです。
「不空検索観音菩薩立像」(伝如意輪観音菩薩立像)は、像高180㎝、寺伝では如意輪と伝えられているが、一面・三目・八臂の姿からすれば、不空羂索観音の可能性が高い、というものです。修理の際に胎内から「観音造立奉加結縁交名」が約70枚も発見され、総計700名ほどの奉加をしており、「別会五師」の記述から、「興福寺」が関与していたことがうかがえるものだそうです。徳治3年(1308年)の制作であることが分かるもので、この時代の素地仕立て像の基準作の一つだそうです。堂内横のガラスケースには、本像の胎内納入品である奉加状とは別に納入されていた、「木造合体天部立像」という小さな像が2体置かれています。約10㎝強の大きさの木彫像で、1体は甲冑、兜を身にまとった背中合わせの武装天部像で、もう1体は冠を被った観音形の姿の背中合わせの小像です。これは「浄瑠璃寺馬頭観音立像」の胎内仏に類似例があるそうです。
この像と作風を一にする「十一面観音菩薩立像」は、同じ頃の作と思われ、像高約180㎝、ヒノキ材による一木造り、彫眼、素地仕上げで、頭体幹部の構造は、各々2材を前後に剥ぎ合わせ、首枘差しとしているそうです。裳も彫りなどは、結構はっきりとシャープにくっきりと彫られており、鎌倉時代の制作が偲ばれるようです。
聖観音菩薩立像」は、像高約100㎝、左手に蓮華を持って立つ通形の聖観音像で、ヒノキ材、寄木造り、彫眼、素地仕上げで、像の構造は十一面観音立像に近似しているという事です。
馬頭観音菩薩立像」は、像高約110㎝、一面・三目・八臂の頭頂部に馬頭面を翳しているが、欠失していたものを最近の修理時に新補したものという。ヒノキ材、寄木造り、彫眼、素地仕上げで構造は、他の観音像と共通しており、制作時期も同じ時期と見られています。
現在は、収蔵庫の寺宝を含めて、寺域を「川合京都仏教美術財団」という京都市左京区の「法輪院」内にある財団が管理・運営しているそうです。旅行に出る前の日に、川合財団について検索したところ、財団の様子を知ることが出来ましたが、役員名簿に法輪院代表やいくつかの美術館・博物館の役員などの関係者や教育関係の方の名前の中に、根立研介・京都大学大学院教授の名前が理事として並んでいました。廃寺になった地域の埋もれている文化財の保存や活用を考えて、平成元年から財団が、維持管理を引き継いで来たというものでした。
今日は、天気が良いのに訪ねてくる観光客も少なく、訪ねて来ても、あまりの小さなお堂で、数体の仏さまが祀られているだけなので、ホンの数分で退出される方もいるほどで、地元のタウン誌の記者の方も見えましたが、最初はスタッフと話しをしたり、カメラを構えたりしていましたが、いつの間にか見かけなくなりました。開扉以来ズッといるのは私だけという状況が続きました。スタッフも手持ち無沙汰な様子で、私の声掛けに、一生懸命答えてくれました。「三渓園」のことや、廃寺の本堂跡地の発掘調査や寺域整備のことなど、徒然なるままにおしゃべりに弾みが付きました。川合財団が作られている「旧燈明寺の歴史」(緑色の両面印刷のリーフレット)のほかに、「企画展・燈明寺の文化財」(19864月・京都府立山城郷土資料館発行)を入手しました。昭和末までの寺院の古文書や彫像や本堂屋根瓦や仏涅槃図(鎌倉時代、絹本着色)など多くの史料が記録されています。お昼の案内があってからも、ウロウロしながら、横浜・三渓園のことなどまでも話しを膨らまして、かれこれ午後1時過ぎて、おいとますることとしました。
 
 
 
西明寺』(さいみょうじ)
重文・薬師如来坐像、 日光・月光菩薩立像、 十二神将立像(12体)、 
「旧燈明寺」を辞して、せいせいとした道を一旦駅まで戻り、駅構内を抜けて、西口からまっすぐ「木津川」の支流「石部川」に向かい、流路変更工事をしている堰堤や橋を超えて左手に曲がり、細いクネクネ曲がりくねった昔からの道に沿った集落で、倉庫や小さな作業場などの家並をしばらくで、「西明寺」に着きました。といっても、全くと云ってよいほどに案内版もなく、右手に細い民家の間の路地を少し登り、まさしく民家の庭に行きつく先が、目指すお寺でした。お寺らしからぬ普通の民家の建物のようです。「旧燈明寺」は駅からの道すがら、見通しのきく地域で方向も見当が付き、山裾の森をめがけていくことで、何とか標識が無くても分かりましたが、西明寺は全く分かりませんでした。地図を信じて見当をつけて行くことになりました。でも屋根の軒瓦の鬼の姿に、僅かにお寺の雰囲気がありました。古くは大宝元年701年)「行基菩薩」の創建という「薬師院」という古刹だったそうですが、承和元年(834年)には「空海」もこの寺に逗留したことがあったということです。その後は「僧房三宇」との記録のある「興福寺」の末寺だったこともあるようです。度々の木津川の洪水で被害を受けて、江戸時代には現在地に移転したということです。現在は真言宗のお寺だそうです。
お世辞にも立派と云えない、民家の庭先のような建物の奥の隣家との境付近には、頂上部の欠けた「五輪塔」や、同じ様に頂上部が欠落した「層塔」(七重塔?)や、頭に平らな笠状の石板を載せた、2m弱の高さで幅1m程ある「板状花崗岩の笠塔婆」(板状の面には、僅かに舟形光背を持つ台座に座する、仏さまが刻まれているのが見て取れます)が埋もれるように置かれていました。お堂の縁側から靴を脱いで上がり、板戸を引き開けると、おばさんが背を丸めてしゃがんで、拝観受付をしていました。近所のおばさんだそうです。観光協会のスタッフはいませんでした。おばさんに聞いても、全くと云ってよいほどに分からず、寺伝や史料が手元に無く、どのようなお寺の話しも分かりません。重文の仏さまがいらっしゃるのですから、本当は何かしら史料があるはずですが、近所のおばさんでは埒があきません。もっと観光協会木津川市、ご配慮何とかしてよ!お堂は、天井が低くて広くない幅広の堂内の正面奥が、内陣として一段高く須弥檀がしつらえてあり、中央の厨子のおかれた場所が一抱えほどの四柱で仕切られ、厨子の観音開きの扉が、柱に造りつけられている形になっているものでした。庭に面したお堂の扉・窓を開ければ、堂内の内陣が左右の端から端まで、すべてを見渡せるほどの広さです。堂内は適度に天井からの照明で、それなりに明るく、新装したのか、内部の造りもあまり朽ちたところもなく、造りはしっかりしたきれいな内装で、あまり支障なく拝観出来ました。さすがに厨子内はヘッドランプを使って像を拝見することとなりましたが・・・。厨子内には、「本尊・薬師如来坐像(重文)」は、台座とも平安時代の制作された当初のものといわれ、ケヤキ材の一木造りで、胎内の銘文から永承2年(1047年)9月造立と判明しています。
本尊の薬師如来坐像の手前に、全身金色ギトギトの「日光・月光菩薩立像」が、頂部が大きく湾曲した舟形光背も金色ギトギトのものを背負い立ち、厨子扉の両脇に「十二神将像」が各々6躯ずつ並んでいます。しかし、十二神将像の制作年代は結構下るものだと思え、室町から江戸時代ではないか。細かく観ると結構痛みが目立ち、腕が肩から外れそうな像や、当て木を後ろに付けた、立っているのがやっとの像等、惨めな姿の像が目立ちました。
また、中央須弥壇の右側檀には「釈迦三尊像」、「十一面観音菩薩立像」、「宝冠如来坐像」が並び、左側壇上には「地蔵菩薩立像」と「善光寺阿弥陀三尊像」が並んでいました。
午後230分頃に、西明寺を後にしました。
 
 
 
『高田寺』(こうでんじ)
重文・薬師如来坐像、 阿弥陀如来坐像、 
西明寺」を辞して、細い曲がりくねった道を先に進み、石部川の堰堤工事を左手に見ながら集落を抜けた辺りから、段丘上の広々とした場所となり、向かう先には、低いなだらかな山並みが続き、まだまだ秋の景色の準備中といった形で、紅葉の景色はもう半月はかかるかもしれません。学校や公共のグラウンドなどせいせいした環境の中をJR関西本線の踏切に向かい、天気は上々ながら風が強く、前かがみになって風に抗しながら歩みを続けました。その途中では、「大仏鉄道」の跡地と思しき地形上の違いを見たり、またその段差上を歩く観光客らしき人たちの姿も見かけました。この先、「高田寺」までの道すがら、何ヶ所かでそれらしき鉄道跡地とおぼしき地形状を覗き見ることが出来ました。踏切を超えて、南に向かうきれいな住宅地の端を通る府道44号線という交通量の多い道を辿っていくと、大きな交差点に突き当たりました。そこで初めて「高田寺」の標識を見かけました。ここまで、本当に観光協会の幟も無ければ、「寺院公開」の看板も無く、高齢者が多いと思われる巡拝には分かりにくい道順だと思いました。しかし、後でお寺の住職に伺ったところ、個人で拝観に来られる方の半数以上はタクシー利用だそうで、あまり道順の表示の苦情や、困ったという話しは出ていない、ということでした。私は自分本意の考えだったので、なるほどなと感じ入ってしまいました。反対方向に向かえば「加茂駅」へ徒歩20分とありました。標識からは2車線の府道を登り気味にたどると、僅かで「高田東口」バス停があり、右手に住宅地の筋道に入り、すぐ「高田寺」(こうでんじ)に到着しました。到着時間・午後3時、西明寺からの所要時間30分の行程でした。ちなみに府道をそのまま直進すれば、一度分岐して「加茂山の家」を通り「浄瑠璃寺」へ向かう山道を登ることになります。「高田寺」は、西明寺ほどではないものの、周囲の住宅に押しつぶされそうな、家並を接するほどになった寺域で、築地塀の先の門内には墓所もあり、十三重石塔や、地蔵菩薩立像(石像、よあそび地蔵)などが所狭しと祀られていました。
運悪く、到着した時には、奈良交通のバスツアーの団体客が20名程寺庭にいました。添乗員に聞くと、拝観は終了したが「朱印記帳」がまだ数人残っている状況だという。ツアーの拝観時間はバス12030名規模で、1ヶ寺当り20分の配分だそうです。ここまでに17ヶ寺を巡り、肝心のお寺での拝観は平均20分程度、その中で朱印記帳が行われるということで、初めから行程は遅れることがはっきりしています。お寺側でも午後2時のツアー客受け入れ予約時間を、約1時間も遅れて到着したのですが、受け入れざるをえないということでした。それでも要領の良い添乗員は、お寺に到着するとすぐに、あらかじめ客から朱印帖をまとめて預かり、お寺に記帳をお願いをすることで、帰りの待ち時間を短縮するよう工夫しているそうですが、それでも時間オーバーとなり、積もり積もって、夕方になると大幅に、行程が遅れてくることになるそうです。ちなみに、今回出くわしたツアーは、これから浄瑠璃寺岩船寺を巡って、合計9ヶ寺を廻って近鉄奈良駅解散だということでした。気になったのは、高田寺の周囲には大きな観光バスが駐車出来るほどのスペースがなく、私が歩いて来た県道に近い場所の空き地脇に駐車しているということで、拝観客はバスを降りて数分間歩いて住宅地を抜けてやってくるということでした。こうした寺院拝観ツアーは高齢者が多いツアーなので、余計時間が掛かり大変だと思いました。
ザワザワしたお寺が、団体客が去った後は、見違えるほどに静寂が蘇りました。住職とのお話しが出来る雰囲気になりました。靴を脱いで堂内に入ると、ここも例にもれず小さなお堂ですが、西明寺ほどではなく、それなりにお寺らしく拝観して観て廻ることが出来ました。堂内の半分を占める護摩壇奥の、8本の一抱えもある柱で仕切られた、格子状の透かし欄間で上半を区切られた内陣須弥壇には、中央に「本尊・薬師如来坐像」(重文)、向かって左手に「阿弥陀如来坐像」が安置されています。その手前に2体の木造の「狛犬」が居られ、安土桃山時代16世紀)を下るものだそうです。
住職の計らいで、護摩壇の先の須弥壇前まで入れてもらえました。2体の外側には、右手に厨子入りの「不動明王立像」、左手に「阿弥陀如来坐像」が祀られています。他に、「毘沙門天立像」、「地蔵菩薩立像」を拝観することが出来ました。また、内陣左右には、「十二神将像」の画像が二幅の屏風に綺麗に装幀されているのが見られました。
「本尊・薬師如来坐像」は、像高約90㎝、二重円光背、小さいがまだ綺麗な天蓋が下がるものです。平安時代の彫像として昭和48年の修理の際に、「保安」(ほうあん・1120年~1123年)の年号と、「藤原実方」(ふじわらさねかた)の歌が台座裏(敷茄子受坐)に墨書されているのが見つかりました。「さつきやみくらはしやまのほととぎすおぼつかなくもなきわたるかな」と読むのだそうです。お寺のパンフに、台座裏の墨書や落書きの抜き書きが、載っていましたが、私には、言われないとすぐには理解出来ないものでした。頭体部の均整がとれており、ゆっくりとした座す姿の造り、典型的な「定朝様」の像態を踏襲したといわれる薬師如来像として、造像年代の絞れる像として注目されるようになったそうです。
阿弥陀如来坐像」は像高約90㎝、透かし彫り舟形光背は後補のもの、平安時代後期の作風であるとの住職のお話しだが、あまり像全体の印象がはっきりしない、彫りの浅い、単調な衣文表現で、聞くところでは無指定ということも、納得したところです。住職に伺うと、その昔広い寺域に伽藍が建ち並ぶ大きな寺院だったようです。本堂は平成元年に修造開始し、平成三年に落慶したとのことで、どこもまだきれいなお堂でした。住職はお寺の行事だけでなく、展覧会や他のお寺の行事などにも出かけることが多いそうで、いろいろ勉強されてご存知でした。また、本尊の調査研究のために、「文化財研究所」の「猪川和子」氏が度々訪ねて来られたそうで、「美術研究」(294号)に状況を発表しているそうです。手許に冊子が無いとのことで、どのような内容に纏められているのか、一度眼を通してみたいものだと思いました。
そろそろお堂を閉められる、ということで「高田寺」を辞して、事前にお寺への行きがけに、確認しておいたバス停まで下ってきて、待つこと数分しばしで、加茂駅行のバスがやって来ました。思いがけずのんびりしていて、バスに乗ったのは、午後6時をまわっていました。
 
 
 
114日(金)
『大智寺』(だいちじ)
重文・普賢菩薩騎象像、 重文・十一面観音菩薩立像、 厨子入り・聖徳太子二歳立像
前日と同じような行動パターンで、JR奈良駅からみやこ路快速で「木津駅」で下車しました。昨日より陽射しはありましたが、やはり風はなかなか手ごたえがありそうでした。駅前の大きな通りの法務局事務所前を過ぎて、JR学研都市線の踏切を越え、突き当りの府道47号線通りを左折しました。ここまでは、駅前から平坦なせいせいした広い道を辿ることが出来ましたが、この先歩道も無いような国道24号線の高架下をくぐり、すぐに車1台がやっと通行出来るような路地を右折すると、正面に見える木津川の堰堤に突き当たる手前に、小さいがこんもりとした森が見えてきます。右手に小さな山門が佇んでいます。観光協会の幟が数本立っているので、すぐにそこが目指すお寺であることが分かります。このお寺も、周囲は道が狭く、大型の自家用車や観光バスは、なかなか近くにまで来られないし、駐車に苦労することでしょう。駅からは徒歩約10分の近さでした。お寺は、パンフの寺伝によると真言律宗西大寺の末寺で、奈良時代天平13年(741年)に「行基菩薩」によって木津川に掛けられた橋が、その後平安時代には洪水の為に流されたままになっていましたが、交通不便の為に、鎌倉時代になって正応元年(1288年)に再び橋を架けることになりました。川の中に残っていた橋柱の1本が時々光り輝くことを、地元の橘次郎大夫守安(たちばなじろうたいふもりやす)が西大寺の僧・慈真和尚(じしんわじょう)に話しをしたところ、慈真和尚はその橋柱に「文殊菩薩像」を刻むことを、守安に伝えました。守安は仏師・安阿彌(あんなみ)に像を彫刻させ、お堂を作って像を安置しました。この話しが「大智寺」の前身である「橋柱寺」(きゃくちゅうじ)であるということです。現在の寺号は「大智寺」に変わったが、山号は「橋柱山」(きゃくちゅうざん)といい、その歴史を伝えています。開扉時間の20分前に到着し、境内の景色をカメラに収めてから、堂内に入りました。
お堂の縁から上がり畳敷きの堂内に入ると、中央護摩壇の先に須弥壇があり、4本の柱に囲まれた大きな厨子が据えられ、垂れ幕の奥に「本尊・文殊菩薩像」(重文)が安置されています。受付の高齢女性がテープレコーダーを操作し、一通りのアナウンスを短時間スピーカから流します。拝観客が入ってくると、その操作をその都度しなければならないので、「拝観は2030分程度にして欲しい」、というようなことを仰っていました。私のように長居する者は、お邪魔なのかもしれません。しかし、私が一番に入堂してからしばらくは、誰も訪れる人は無く、彼女は、昨年99歳で亡くなられた住職の父親の話しと、内陣裏側の写真・仏壇のことばかり話しており、私からの問い合わせや質問には、うわの空でした。天井は全面に格天井造りで、現在は単なる板張りになっています。堂内は、それなりに天井灯もあり、そこそこ明るさに不足は無いのですが、肝心の厨子内はやはり暗く、持参したヘッドランプを点けっぱなしにしていました。拝観は、本尊の厨子の前の仏具などの荘厳品のところまで、像に触れるくらいまで近づくことが出来ました。須弥壇にうっかり手をかけたら、受付女性にしっかり注意をされてしまいました。厨子は素地造りのようで、あまり古いものではなく、観音扉内側には墨書で細かく書付けがあり、薄れている感じです。厨子内の三周の板壁は、単にすべて漆箔が施されている様子で、仏画などの工夫、細工はありませんでした。近年の造作とおぼしいことから、期待出来るものではないようです。
「本尊・文殊菩薩像」(重文)は、右手に知恵の剣、左手に巻物が載った蓮華茎を持ち、蓮華座に左足を垂下して半跏に座して獅子の背中に乗るという、半跏趺座の「文殊菩薩像」となっています。像そのものは70㎝程の大きさですが、獅子に乗っていることもあり、全体では像高は2m強にもなろうかと思いました。制作時期は鎌倉時代、寄木造り、玉眼という話しでしたが、厨子奥に入っていることで、なかなかはっきりとは尊顔を拝するのが難しく、持参したオペラグラスとLEDヘッドランプと、おまけにLED懐中電灯(お寺で須弥壇横に置いて下さっている)で、一生懸命下から覗き込むようにして、少しでもはっきりと観たい一念でした。宝冠は金属製の細緻な作りのもので、月輪・日輪装飾、左右側の宝珠飾、頂上部の宝塔上の装飾など、錆さびではありますが、細かい華美な飾りが付いており、頭上で二段に重なるように載せているようです。頭上があまりにも派手派手こってりぎっしりしているもので、髻がよく見えませんでしたが、安倍文殊院の像がそうである様に、宝冠の大きさ高さに匹敵するほどのもののようです。
胸飾やその下の瓔珞などは、錆びてはいるものの宝冠装飾と同様、綺麗な作りがはっきり分かります。本尊の顔立ちは少し下膨れの面長な輪郭に、目鼻立ちの大きめなしっかりした造形で、特に厚めの唇は朱色がはっきり分かるほどに目立ち、迫力のある顔立ちになっています。幾度となくお顔に下方からライトを当てて見ても、水晶面が埃で覆われているのか、曇っているのか、眼球の部分と周囲の眼窩や眼の隈なのか、どうも私には玉眼とは判別出来ず、最後まで気になった点です。顔立ちはさすがで、「安阿弥」つまり「快慶」かとの評価があるように、しっかりした肉付きのふくよかな、大きめの目鼻立ちのはっきりしたお顔は、その美しさと金泥の深い立派なところなどは、そんな説にうなずける雰囲気の仏さまです。
上半身の甲冑は非常にしっかりとした彫法でシャープな彫りと輪郭が目立ち、描かれた文様もかなりはっきりと残っている感じです。腰から下の座している脚膝部に比べ、上半身が大きめに胸を張った感じの像態に感じました。両腕の着衣の襞の処理や、両腕や足の裳の弛みを持たせた裾の括りまでがしっかりと、細か過ぎるほどに表現されていました。左足の垂下に合わせた衣文の流れるような彫りと表現は、綺麗に要領よくまとめられているように感じますが、膝部などの衣文の彫りの簡素な点が、その表現を和らげている様です。甲冑の文様だけでなく、左右脚膝部の裳に描かれた文様も、かすかな彩色とともに残っているのが良い感じで、雰囲気を醸しているようです。お顔や身体全体の破たんの無い姿は、確かに相当の腕の仏師の手になるものと思われます。どうしても、安倍文殊院の「渡海文殊菩薩群像」と比べてしまうのは、やむを得ないことだと思います。堂々とした獅子に乗る蓮華台座も、はっきりとした緑色の彩色と、連弁に各々描かれている金線は、遠眼にも鮮やかで、全体の雰囲気が「安倍文殊院」像を観るようで、あまり大きくない像が、安倍文殊院像ほどもあるように圧倒される姿になって迫ってくるようです。また、厨子の天井から細い角材が降りており、本尊の環状頭光背(漆箔様の後補か?)の後ろ頂上部に付けられている様に見え、光背を釣り下げているのか、あるいは光背ではなく本尊の背中辺りに固定しているのか不明でした。これも常識のような造像上・安置上の工夫なのかもしれませんが、あいにく私には疑問として残ってしまいました。獅子像は、緑色を中心とした胴体の彩色の綺麗な、ドッシリとした丁寧な造りの像として、胴体と四肢の踏ん張りの様子が、バランスの良い安定感のある秀作だと感じました。しかし、修理・彩色などは近年行われたものかもしれません。そんな仏さまなのに、あとから来られる拝観客は、一通りの案内アナウンスと、受付女性の話しを聞いて、そこそこにお堂内を一巡りして、10分強で退出される方が多く、ましてやLED懐中電灯があっても、なかなか手に取って鑑賞する人は少なかったでした。
もっと詳しいことが知りたいと思って、住職(前住職の息子ではないそうです)に伺っても確たる情報も、その筋の学者や関係者からも情報が無い、とのことでした。どのような経緯でこの像が現在の地、寺院に祀られているのか、それでも重文指定の像ですから、すぐに知る事の出来る史料、文献があるかもしれませんが、私はそこまで下調べをせずに出かけましたので、機会があればこれから帰って何か手掛かりが見つけられるかもしれません。厨子内には、本尊右手に「十一面観音菩薩立像」(重文)、左手に厨子入りの「聖徳太子二歳立像」が安置されています。「十一面観音菩薩立像」は非常に端正な面立ちで、こちらは平安時代、一木造り、像高109㎝だそうです。内刳りを施さない、腕釧(わんせん)を別材でなく彫り出しているなど、古様が認められるという。体幹部の造りはしっかりしているが撫で肩であったり、条帛の途中の折り返しや裙の衣文の彫り表現などは、単調で彫りの深浅が乏しく、胸飾などや装飾頭上の細工も細かくはあるが、粗雑な点が目立ち、お顔も平凡な顔立ちではあるが、印象に残らないような感じがします。彩色が分からないので、素地仕上げの像のように観えました。「聖徳太子二歳像」は、3040㎝程度の小像で、他にも観られるような像容で、何か特徴がないもののようです。お寺では両像ともに、いつ、どこから持ち込まれたものか、不明だということですが、記録を調べれば必ず何か知れるものと思いますが、そこまでは出来ませんでした。
午後2時過ぎに、団体ツアーが来られるということで、お寺を辞することとしました。幾人かの拝観客と言葉を交わすことも出来、天候にも恵まれ、のんびりと歩きまわる、充実した巡拝旅行となりました。
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*巡拝した寺院の仏像画像などは、今回は貼り付け、添付はいたしません。次回の集まりの際にでも、収集した資料、パンフなどのコピーを持参し、ご覧いただくこととします。

【以上Takさんから寄稿文でした。】


         コメント(2)
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Tak様 Mです。
美術研究294号(昭和49年12月)の猪川和子「京都高田寺薬師如来像と藤原実方の歌」の論文コピー持っています。昭和48年の修理に伴う墨書発見を受けての調査結果(台座墨書の多数の文字から保安、長生殿、さつき、ほととぎすなどの文字が見られ、ここから「五月やみくらはし山のほととぎす~」の歌が確認できたこと、仏像自体のことなど)が書かれています。この歌は拾遺和歌集及び拾遺抄(ともに巻二の夏)に載せられている歌であり、実方没後約120年経ってこの仏像が作られた頃には、在原業平都落ちと同様の運命をたどった高名な歌詠みとしての実方のこの歌は、都の人々にかなり親しまれていたようです。
12/3の仏像の集いの時に猪川論文のコピーは持っていきます。削除
2016/11/22(火) 午前 0:48[M- buo**iorn*1206 ]
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M様へ
TAkです。ご連絡ありがとうございました。「高田寺」のちっぽけなお寺のリーフレットには、「敷茄子受座戯書」として、小さな写真が貼られていますが、受座下面板に数個の人物顔横面の漫画?風の戯れ書きとともに、断片的に散らかったように書かれた文字が判読出来るそうですが、戯れ書きははっきり認めることが出来ましたが、猪川氏の歌の文言についての説明が無ければ、藤原実方の歌は戯れ書きと混じって、全くわからない状況でした。
こうした各地の古刹に遺る文化財が、往時の歴史をあらわす記録が、時間をかけて、多くの研究者や地元の関係者などの努力によって調べられて、明らかになっていくことに、敬意を表したいと思います。削除
2016/11/22(火) 午後 6:27[ Tak ]