孤思庵の仏像ブログ

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高橋さんの 「京都・滋賀地域の巡拝を報告」


高橋さんより、「今月(3月)の拝観予定にしていた、京都・滋賀地域の巡拝を報告します。」との投稿がありました。下段に掲載します。

【以下高橋さんの投稿文です】
323日(水)… 京都・東寺、醍醐寺
324日(木)… 大津・石山寺
 
写真や寺院パンフなどは、別途42日(土)の集いの会例会の席上紹介する予定です。
 
なお、310日(木)・興福寺文化講座「天平草創期の中金堂諸仏」
   319日(土)・シンポジウム「考古学からみた飛鳥・藤原京の時代」
については、集いの会例会で、簡単に紹介する予定です。



283月: 京滋地域巡拝報告

H28323日~24
京都、滋賀・大津地域
記:高橋 哲夫



H28323日(水) 京都・東寺から醍醐寺


 何時もの調子で、京都駅から徒歩10分ほどの東寺へ立ち寄る。早朝で、人気のない境内を鳩の群れを掻き分けながら西院御影堂へ向かう。門の脇に立て看板があり、よく見ると司馬遼太郎が著わした『司馬遼太郎が考えたこと―8』収録の「歴史の充満する境域」という文章の中の一節を抜粋している。「空海に対する私の中の何事かも、こういう御影堂へのなじみと無縁ではないかもしれない」と。今まで気が付かなかったことに、迂闊であった。


9時になり時間が来たので、「霊宝館」に入館者第一号で入館する。1階は「観智院展示」と、2階は「東寺の天部像」展示ということだったが、昨年秋の「灌頂院・十二神将像公開」時に立ち寄った際の霊宝館の展示内容とはあまり変わりなかった。それでも、大黒天立像(江戸時代)、弁財天坐像(江戸時代)に続いて、西院御影堂に安置の秘仏不動明王坐像(平安時代)の「天蓋」が出展されていた。像と同時期の制作とされ、150センチもの大型のヒノキ造りの円盤形状で、中心は八葉やその外側の円相内には、宝相華が描かれ、八体の飛天像(?)が色鮮やかに描かれている。精緻な画構成で制作当時の絢爛な様子は如何ばかりだったろうかと、想いを廻らしてしばらく足を止めていた。2階ホールでは、国宝・兜跋毘沙門天立像が会場隅に安置されていたが、等身大の像高で、鳳凰を中央にした冠をかぶり、上半身から足にかけては金鎖甲を着け、足許には二疋の邪鬼と、地中から湧き出た地天の掌の上に立っている姿は、幾度となく拝観して馴染みになっていた。今回は昭和43年の展覧会開催中に、盗難に遭って左手に載せていた「宝塔」が無かったもので、40年以上経った後に、美術院国宝修理所にて複製品が作られ、昨年末に像の手の上に戻ったということだった。



同じ2階ホールには、複製の両界曼荼羅図(元禄本・絹本着色)が、仏像群の後ろの壁に2幅掛けられている。解説では、灌頂院で行われる「後七日御修法」(ごしちにちみしほ)に掛けられる両会曼荼羅図だそうで、縦横約4メートルと大きなものである。複製であることも幸いして曼荼羅図の構成や画像がよく見られることから、オペラグラスで各院・各部を克明に凝視し、片手に持った『図解 曼荼羅入門』(角川文庫、小峰邇彦著)のページをめくり、今まで細かくてよく判らなかった諸尊の画像などが、書かれているものと同じだということがよく判った。特に「胎蔵曼荼羅図」の「中台八葉院」の「四仏・四菩薩」や「五色界道」、「遍知院」の「三角火輪」の中の卍、上部の2体の迦葉像、仏眼仏母など、また、「最外院」の種々の神々の描写など、比べれば比べるほど全く同じ画像だと判った。初めて「曼荼羅図」の詳細を知ることが出来た感じだった。



 京都駅へ急ぎ戻り、JR琵琶湖線で、ターミナル駅でもある、綺麗で広々とした山科駅まで行き、市営地下鉄に乗り換え、醍醐駅で降り、駅前のショッピングセンターや、清々とした大きなニュータウンの住宅地の中を通り抜け、昼頃に「醍醐寺」に到着した。天気が良かったので、気持ちよく歩く事が出来た。桜の季節の日中と云えども、どこへ行っても観光客はまばらで、気が抜けてしまう程である。あと1週間もしたら桜も満開で、こんなのんびりとした散策は出来なくなると思いながら、寺の参道を辿った。
 


 「醍醐寺」ではまず、「仁王門」、「五重塔」、「金堂」など「下醍醐」を一巡りし、何時ものことながら広大な寺域を感じ、手入れの行き届いた景観に感心した。その後「霊宝館」に向かい、ソメイヨシノヒカンザクラなど、予想以上の桜の開花が進んだ景色を観ながら、大きな館内に入った。「霊宝館」内の「平成館」では、「木造虚空蔵菩薩立像 国宝指定記念 春期特別展」(319日~58日)が開催されていた。「平成館」は、天井が高く、テニスコート2面も出来るほどに広い展示会場の真ん中にポツンと、昨春に国宝指定になった「虚空蔵菩薩立像」が一躯、版木とともにガラスケースに入って、安置されていた。昨春には、東博本館での展示やギャラリートークなどに参加し、十分に拝観していたが、改めて1年経って再会したことになる。版木は初めて観ることとなったが、外見上は今まで観た版木と変わらない。やはり、謄写した印刷物が無いと、ハッキリと説明出来ず、彫られている内容が明らかにならず、インパクトが無いと感じた。


 入口向かって右側に展示されているのは、五大明王像(5躯・不動明王像、降三世明王像、軍荼利明王像、金剛夜叉明王像、大威徳明王像、江戸時代)、入口脇に、虚空蔵求聞持法根本尊(白描画・鎌倉時代)、諸菩薩像画像(8幅、鎌倉時代地蔵菩薩、観自在菩薩ほか)、最奥の一段高くなった壇上に、寺院の内陣を模した朱色円柱や、白壁などの展示場所を設け、「薬師如来坐像日光菩薩立像、月光菩薩立像」(国宝・平安時代)が安置されている。まったく広々としたゆったりとした余地のある贅沢な展示環境である。館内の職員も入館者が少なく、入って来ても短時間で一巡りして退出してしまうので、退屈そうだったので、他愛ない話しをしてしまった。
一旦外へ出て、奥に進むと、「仏像棟」があり、一転して狭い建物に、10躯もの仏様が展示安置されていた。1不動明王坐像+制多迦童子、金伽羅童子平安時代後期、玉眼)、 2.千手観音立像(平安時代、漆箔、42本腕手、上醍醐観音堂創建時本尊)、 3阿弥陀如来立像(鎌倉時代後期、玉眼、3阿弥陀、第3指印相)、 4
.十一面観音立像(鎌倉時代三宝院聖天堂
安置)、 5愛染明王像(江戸時代、仏師・法橋立乗、1716年銘)、 6阿弥陀如来坐像(江戸時代、漆箔、玉眼)、 7阿弥陀如来坐像(桃山時代、玉眼)、 8如意輪観音坐像(平安時代、漆箔、6ピ毘)、 9如意輪観音半跏像(平安時代6ピ)、 10.獅子・狛犬鎌倉時代、)、 11阿弥陀如来坐像(安土桃山時代)。時期により陳列替えあり、とのことだった。
 
 時間を取りすぎた感じがして、急いで数年ぶりになる「三宝院」(醍醐寺の本坊に当たる。歴代座主の居住する坊)では、表書院、庭園を見学し、奥の本堂、奥宸殿など非公開個所を横目に退去し、足早に「上醍醐」へ向かった。
上醍醐」は、はるか40年前の昔の若い頃は、もっと楽だったような記憶のある山道。当時は寺の僧侶と一緒に話しをしながら、木段や曲がりくねった木の根を踏みつつ山登りをしたことが忘れていなかった。寄る年波には抗しきれず、途中で膝に手を当てたり、腰を伸ばして休憩を取ったりしながら、喘ぎあえぎ登った山道は、もしかしたらこれが最後かと、緊張した気持ちになった。約1時間で醍醐寺開創の地である「上醍醐」に到着した。一息つくと、「下醍醐」と比べて空気が澄んで、冷ややかな感じがした。山並みは、少し赤茶けた色あいで、これから桜の開花が始まる雰囲気が満ちていた。上醍醐の各堂塔に安置されていた諸尊は、最近はほとんどが「下醍醐」の然るべき場所に移されている。それを知ってか知らずか、昼間であるのに、人影の少ない山林の壇上「上醍醐」である。わざわざ苦労をしてまで登ってくることはない、ということか。開山堂、清瀧宮本殿、拝殿、五大堂、如意輪堂、薬師堂など、主だった堂塔を巡りながら、40年前に訪ねた当時の事を思い出すことに忙しかった。山上を一巡りして、昔のことを思い出したり、またこれからの降り道のことを気にしたり、何故かこのままここで一晩過ごせたら、という気分になったりした。復路は来た道を一目散にくだり、途中で、ザックに入れていて忘れていたサンドイッチを口にしながら、小鳥の声に別れを告げながら先を急いだ。陽が陰ると急に肌寒く感じて来た。
 
 
H28324日(木) 滋賀・石山寺
 
朝日はまぶしいものの、気温が冬の様相で肌寒く、上着の襟を立ててホテルを出発する。歩きながら白く吐く息が眼に入り、少しの我慢と昼の暖かさを期待して駅へと急いだ。通勤客の雑踏に紛れながら電車に乗り
込んだが、次第に乗客の減っていくのを眼にして、かなり京都を離れたな、と実感した。2両編成のかわいい京阪電車に乗り換えると、乗客は見当たらず、まさに1両貸し切り状態で、目的地の駅に向かうこととなった。「石山寺駅」に降りると、すぐ眼の前は、琵琶湖の南外れの「瀬田川」で、少し北側には「瀬田の唐橋」が見える。川面には多くの水鳥がおり、眼にまぶしい水の青さが印象的だった。近くにはレトロな外輪汽船の琵琶湖周遊の船着き場がある。「琵琶湖周航歌」を口ずさみながら数分も歩くと、「石山寺」の山門(東大門)に到着した。ここまでは私が社会人になった当時に訪問した「石山寺」そのままの感じがした。この先の境内も当時と変わらないのだろう。山門内の「仁王像」をじっくりと鑑賞して、何度もカメラを構えた。仁王像は、仏師運慶の作という話しがあるそうだ。当時もそのような話しを聞いた覚えがある。山門をくぐると、かなり先までまっすぐに広々とした石畳の参道が伸びていて、気持ちが大きくなるのを感じた。しかし、ここまで来ても寺に向かう観光客を見かけず、既に8時の開門から1時間も経つのに、境内・山内には拝観客が来ているのか、気になったくらい静かで人影を見かけなかった。観光バスも見かけなかったことから、団体観光客が見えていないことははっきりとしている、と安心した。

天平19年(747年)、東大寺大仏建立のための黄金の不足を憂えた聖武天皇が、良弁僧正に命じ、黄金を獲得するよう吉野の金峯山に祈らせた。しかし、良弁僧正の前に現れた吉野の蔵王権現が「金峯山の黄金は、弥勒菩薩がこの世に現れた時に、地を黄金で覆うためのもので、大仏造立の為には使えない、近江国の湖水の南に観音菩薩の現れたまう土地がある、そこへ行って祈れ」と宣じたうえで、良弁僧正が「此処に伽藍を建て如意輪法を修すように」、との夢告を受け、修法後、陸奥国から黄金が産出されたことで、良弁僧正の修法が立証されたことから、瀬田川の西岸の伽藍山の麓に、良弁僧正が石山の地を訪れ、巨大な岩盤の上に聖徳太子念持仏の六寸の金銅如意輪観音像を安置し、草庵を建てた。良弁僧正の修法が霊験あらたかなことからか、観音像が岩山から離れなくなったので、止む無く観音像を覆うように本堂を建てたのが、石山寺の草創という。本堂の手前に、一段と高くなったところに建つ多宝塔を見上げる場所に、寺の名称の由来となった境内の巨大な奇岩があり、硅灰石(天然記念物)が露出している景観が異様でもある。
その後、寺伝では聖宝、観賢と云った醍醐寺の高名な僧が座主として石
山寺に来ることとなり、醍醐寺石山寺とも近いことから、石山寺真言密教化していったとされる。また、その後兵火に遭わなかったことから、貴重な文化財が数多く遺ることとなったといわれる。
 
観音像については、33年に1度の開扉で、天皇の勅封(天皇の命令によって封印されること)の秘仏としては、現在は石山寺の本尊のみという。
 本堂に足を踏み入れると、ひんやりとした空気に、身震いを覚えるほどである。案内されるままに靴を脱ぎ、「護摩壇」を回り込み内陣に足を踏み入れると、ほの暗い堂内に要所要所の柱に取り付けた小型照明器具からの弱い灯りが、一カ所にぼんやりと纏まって照らされた先に、お目当ての「本尊」のお顔が浮かんでいた。江戸時代の作とされている「執金剛神立像」と「蔵王権現立像」を両側に侍らせた「二ひ如意輪観音半跏像」が、3躯をギリギリ取り込んだ、大きなお堂型の「厨子」に祀られていた。如意輪観音像の円光背や放射光は、もう厨子の天井にぶつかるような状態だ。像の前に柵があり、像の下部は、単なる板状の台座(蓮華台座には見えないが、寺側では蓮華台座と称している)で、その下は峩々たる岩盤(硅灰石)が白々と照明に照らされて、陰影がはっきりと浮き立って、少し怖い感じすらした。
像態は、しっかりした体躯の半跏観音像で、像高約5メートルもあり、材質はヒノキ材の寄木造りとなっている。肉身は漆箔を施し、顔部は、穏やかなふくよかな顔付きが、あか抜けない「定朝様」の雰囲気を持ち、金属製の宝冠は精緻な造りで、頭部正面には阿弥陀如来立像や、その両脇には月輪、日輪が小さく付属しており、瓔珞類も胸元から、豊かな装飾として青緑色や朱色をした石をちりばめ、豊かな身を飾り、柔らかな丸みを帯びた彫りの着衣には文様・着色がはっきりと確かめる事が出来る。右手には蓮華の茎を持ち、先端の蓮華には宝珠が載り、左手は左膝の上で天を仰ぎ、二重光背には、化仏が幾つか左右に付属しているのが確認出来る。垂下した左足にも、ハッキリと彩色・文様が遺り、つい手をのばしたい気分になり、じっくりと見つめてしまった。秘仏として、あまり開扉していないことから、全体に保存が良いのだろう。寺側の説明では、本堂が再建された平安時代の永長元年(1096年)頃の造像と推測されている。
 暫くは、本尊前の場所は、一人占めの状態だったが、しばらくして拝
観客が増えてくる。ほの暗い堂内ではあったが、オペラグラスでしつこく像の各部位などを観ていると、幾人かの拝観者から、開かれた厨子の扉に貼られた「二ひ如意輪観音像」の上二文字が読めない、との質問を受けると、その後は矢継ぎ早の質問が寄せられ、ゆっくり拝観していられなくなった。私が観音像の正面で拝観していたのは、かれこれ1時間弱といったところで、その間にそれでもかなりの拝観客が通り過ぎて行き、長居したので、後から来る拝観客の通行の邪魔になったかも。
 
 厨子の左外側には「地蔵菩薩坐像」と二十五菩薩像が並び、その先を内陣の裏に廻ると、ショーケースに、天平時代の初代本尊如意輪観音像が、承暦2年(1078年)に本堂が焼失した際の、塑像断片(腕釧部分、左足指先部分)や、2002年の奈良博の調査により、現本尊(平安時代後期の作)の胎内から発見された飛鳥時代7世紀から奈良時代8世紀の金銅仏の胎内像4躯(銅造如来立像1躯、銅造観音菩薩立像2躯、銅造菩薩立像1躯、各々約30センチ程度、いずれも重文)が展示してあった。一見して「法隆寺48体仏」や、昨年長野善光寺開帳の際に、博物館で拝観した「口伝の渡来金銅仏」のような朽ちた感じや雰囲気がした。普段は、薄く笑みを含んだ小さな4躯のみがうす暗い堂内の、人目に付かない場所に安置されていると思うと、仏様としてこの世に現れた時代が、何か遠い昔の事とは思えなくなった。同じ胎内納入品として、水晶製五輪塔、木製厨子1基が一緒に展示されていた。ほかに塑像蔵王権現立像心木(塑像内部に支えの役割り、奈良時代創建時の作で、現蔵王権現立像は江戸時代の作)があった。この心木は、本尊右脇侍である蔵王権現像の内部から出てきたもので、像自体とは時代が違うところが、学術的に貴重なものとされているという。しかし残念ながら、本尊と同じように、誰もじっくりと足を止めて拝観する人は少なく、ちょっと悲しくなった。
 
 本堂のすぐ先、境内の半ばの台地上の広場に、鎌倉期(建久5年・1194年)の建立という、年代の明らかなものとして最古といわれる「多宝塔」が端正な姿で建っており、さっそく「大日如来坐像」(仏師快慶作)が拝観出来るかと、淡い期待感で扉窓から塔内を覗いて見たが、塔内正面には厨子に幕が掛けられ、肝心の像は暗い塔内の「闇の彼方」であった。

半日の拝観をして巡った「石山寺」だが、本堂内や、他堂塔の拝観、見学については省略する。
 
                   ― 完 ―


【以上、高橋さんの投稿文でした】