孤思庵の仏像ブログ

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善光寺式の脇侍の印相「梵篋印」を考える。

善光寺阿弥陀三尊の脇侍の印相「梵篋印」を考える。
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善光寺阿弥陀三尊 の脇侍の印相が 「仏像愛好の集」の勉強会で話題になりました。その印相の 手の形は、掌を合わせるように 重ねているか、 一方の手の甲の上に他方の掌を重ね合わせているかでした。 存外ネット検索するも 梵篋印の詳細は検索できませんでした。 そんな中で、善光寺阿弥陀三尊の解説に・・・、両脇侍は胸前で両手の掌を水平にして重ね「梵篋印(ぼんきょういん)」を結ぶと在るのでした。 掌を水平にして重ね という表現に、掌を合わせるように 重ねていると 思いました。
梵篋印                     梵篋印



施無畏印を勉強の際に、それまで施無畏印とは掌を向けると 考えていましたが、 教えてもらうに、普通の施無畏印の手首を折って指先を下げて行くと甲が上を向き、掌が下を向いて来ます。更に折ってゆくと、甲が前(表)を向き、掌が下(内)を向いて来ます。そうです、 釈迦の降魔印の 触地印 の様に成ります。 これも施無畏印の変形と理解するそうです。 与願印も、 立像では掌が前方(外)を向いて来ますが、坐像の施無畏印では、結跏趺坐の膝に押されて、外向きが上向きに変形します。 掌が上向きになって居てもこれも与願印です。手首を捻らずに折り曲げる形の変化は、 施無畏印与願印の内なのです。捻ってしまうと・・・、違う印相に似なる様です。施無畏印は捻って甲が外向きで指先が下向きになれば、触地印に変化して、意味が違ってしまいます。

そう考えて行くと梵篋印は、手首を捻らずに合わせられる掌を合わす形で、対である施無畏印与願印の変形と思いたくなるのです。
触地印からの変形と考えるならば、その梵篋印は甲の上に掌を乗せる形となるでしょう。 

施無畏印与願印と触地印を比較考えますに、施無畏印与願印はポピュラーであり、
触地印は特殊ケースと考えられます。
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施無畏印与願印         阿弥陀来迎印                                        触地印 (降魔印)


さすれば、梵篋印は施無畏印与願印からの変形で、甲の上に掌を乗せる形ではなしに、掌どうしを合わせる 形が自然と思えるのですが如何でしょうか? 

甲の上に掌を乗せる形は、施無畏印与願印からの変形ではなしに、両手を胸の前で組み合わせる、礼法の拱手 に通ずると思われるのですが如何でしょうか? 

そう考えて行きますと、拱手からの変形の甲の上に掌を乗せる梵篋印は、中尊ではなしに、脇侍の印相としては相応しい様にも思えてきます。

果たして、善光寺阿弥陀三尊の脇侍の 印相は どの様に重ねているのでしょうか? 皆さんは如何に考えられますか?


【コメント紹介】
Kさん 
善光寺秘仏本尊は、いつ頃どこで作られたとお考えなのでしょうか?
日本? 朝鮮? 中国? 西域? インド?

更に、中国の南北朝時代だったと伝えられるようですが、中国だとしたらどの辺で?
中国の南北朝時代は、仏典の翻訳時代でもあり、異民族の侵入で混乱した時代でもあります。
四川省茂県出土の仏像(南斉永明元年造)のように左手で刀印を結んでいるものもあり、山東省青洲の龍興寺出土の仏像のように、印相などまだ自由だったのではないかと思うものもあります。

そんな中で、後代の物差しで測っていいものかどうか?
私にはよくわからないのですが、補足をお願いします。


孤思庵
ご指摘ありがとうございます。実は、鎌倉時代善光寺阿弥陀三尊をテーマにした時にその梵経印 の両手の重ね方で論議となりました。

善光寺の本尊は ご存知の如くに絶対秘仏(観ることができない存在ですので、) 諸説ある様です。 私としては 古代の記録に鑑みて、阿弥陀三尊なのか否かに興味です。

ここでは その古仏を 論じるつもりは在りませんで、 鎌倉時代に流行した 善光寺式釈迦像を考察しています。

勿論、鎌倉時代の造仏の時に、善光寺本尊を手本としたいと考えたでしょうが、当時、鎌倉時代善光寺本尊を拝観できたか疑問です、多く造られました善光寺阿弥陀三尊像が、善光寺本尊を厳密参考に模作したとは考えられません。 ですので、脇侍印相は鎌倉時代の願主や作者の憶測や考えによるものでしょうと想像してます。あるていどの意識までで、さほど厳密に古代仏像の検証に意を止めては居ないのではと推察しました。

その様な経緯の浅学でもって、 既に 印相に関心があったはずの 鎌倉時代の作の善光寺阿弥陀三尊像 梵経印を・・・、本文の様に憶測してみました。

ここでは決して、古代の一光三尊像を 考察するものではないのです。

貴兄には 何時も拙文をお目に留めて頂き光栄です。今後も 色々お教え頂きたく存じ居ります。


孤思庵
上記返信コメントは 言い訳の詭弁の傾向があると反省しました。 鎌倉時代善光寺阿弥陀三尊を 考える時に 前提として 飛鳥の小金銅仏 中でも 一光三尊形式をもっと 考察すべきとのご意見に納得です。更には 我が国の仏像以前の 朝鮮、中国 さらにはご指摘ありがとうございます。実は、鎌倉時代善光寺阿弥陀三尊をテーマにした時にその梵経印 の両手の重ね方で論議となりました。

善光寺の本尊は ご存知の如くに絶対秘仏(観ることができない存在ですので、) 諸説ある様です。 私としては 古代の記録に鑑みて、阿弥陀三尊なのか否かに興味です。

ここでは その古仏を 論じるつもりは在りませんで、 鎌倉時代に流行した 善光寺式釈迦像を考察しています。

勿論、鎌倉時代の造仏の時に、善光寺本尊を手本としたいと考えたでしょうが、当時、鎌倉時代善光寺本尊を拝観できたか疑問です、多く造られました善光寺阿弥陀三尊像が、善光寺本尊を厳密参考に模作したとは考えられません。 ですので、脇侍印相は鎌倉時代の願主や作者の憶測や考えによるものでしょうと想像してます。あるていどの意識までで、さほど厳密に古代仏像の検証に意を止めては居ないのではと推察しました。

その様な経緯の浅学でもって、 既に 印相に関心があったはずの 鎌倉時代の作の善光寺阿弥陀三尊像 梵経印を・・・、本文の様に憶測してみました。

ここでは決して、古代の一光三尊像を 考察するものではないのです。

貴兄には 何時も拙文をお目に留めて頂き光栄です。今後も 色々お教え頂きたく存じ居ります。
 

孤思庵
先の返信コメントは 言い逃れ的 詭弁の様に思えます。善光寺式 を考察の場合は その擬古のもとの 飛鳥仏一光三尊を 理解して居なければ 片手落ちとなるでしょう。 反省です。 飛鳥仏、そのルーツの 朝鮮、中国の古仏 そのもとのインド北部にまで シルクロードを辿らねば は解るので・・・、 必要は感じて、村田靖子の「仏像の系譜 ガンダーラから日本まで-」「小金銅仏の魅力―中国・韓半島・日本 」を読みたいのですが どうも苦手で、読破出来ないでいます。どなたかその方面に興味の方に エッセンスを教えて頂きたいものです。