孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

Takさんから 近況を知らせる メール 8/17その1

仏像愛好の集のメンバー Takさんから 近況を知らせるメールが届きました。 ご紹介します。

【メール 8/17その1】
お疲れ様です。
金沢文庫ツアーの顛末は、ブログで読ませてもらいました。暑い中、いろいろとご苦労様でした。思いのほか参集があったようで、賑やかになってよかったですね。
 
 
私は、南アルプス・夜叉神峠・鳳凰三山から、814日(日)夜遅くに帰宅しました。久しぶりの登山靴はきつくて、靴擦れが出来、痛くて疲れました。特に、名古屋での親戚の葬儀が想定外となり、続いての強行軍となってしまいました。
夜叉神峠からは、白峯三山(北岳間ノ岳・あいのだけ、農鳥岳・のうとりだけ)の3000メートル稜線がはっきりと望め、「鳳凰三山薬師岳観音岳地蔵岳)」縦走は快適な尾根歩きとなり、地蔵岳オベリスク頂上からは、富士山、甲斐駒ケ岳、千丈ヶ岳、塩見岳までが遠望され、八ヶ岳連峰、御岳、北アルプスなど、指呼の先にくっきりと望めました。特に富士山、北岳間ノ岳という日本の標高の高い山の1位から3位までが一望に出来て、大変満足でした。賽の河原からの急下降で、一気に御座石鉱泉まで下り、温泉でゆっくり汗を流してきました。20年ぶりの登山で、久しぶりに「登山」をした気分になりました。
 
 
15日(月)は、早朝から富士市の瑞林寺・康慶作地蔵菩薩坐像と、函南町の仏の里美術館を巡ってきました。
私は瑞林寺像については、以前から鎌倉国宝館での鑑賞だけでお寺に伺ったことがなく、また函南の美術館も桑原薬師堂時代を知るものの、美術館になってからは足が向かず、願成就院とのセットで考えてはいたものの、それっきりとなり、両地とも今日が初めての訪問となりました。今日となった理由は言わずもがな、瑞林寺のお堂の開扉が今日だからです。
数日前に、富士市のバス会社に連絡して、バス運行と時刻表の確認をしていたにもかかわらず、JR最寄り駅に到着し、駅前のバス停で、予定のバスの発車時刻まで待てども、バスは姿を現さず、案内所に聞いたところ、なんと、当該循環路線バスは「お盆休み」で、16日まで運休とのことでした。張り紙もありません。どうして問い合わせた際に、一言教えてくれないの!公共機関の市内循環バスが運休!すぐにタクシーに乗車しましたが、運転手もバスの運休を知りませんでした。毎年のことなのに、なんというのんびりさ加減。(後でバス案内所でチラシをもらったら、小さく運航休止として「お盆」と書いてありました。あらかじめ電話で教えてくれていれば…。)それでもちょうど9時頃に目的地に到着しましたが、瑞林寺の目玉建築でもある「鐘楼」の前の駐車場では、お祭りの舞台造りでパイプ組みやら、露店のテント張りなど大勢の人たちがあわただしく動き回っており、通り抜けるのに苦労しました。
一通りお寺の境内を巡り、様子を頭に入れようと歩き巡りました。京都・宇治の「黄檗宗万福寺」を本山とする禅宗のお寺で、境内には庭園と心字池、中国風の変則的な切妻屋根の山門(横浜中華街の牌楼に似た門)、鐘楼はこの寺の目玉となっている建物で「一見二階建て、じつは裳階(もこし)付きの平屋建て」というもので、奈良・薬師寺の塔と同じ構造なので、想像がつくでしょう。山門からの参道や石垣、朱塗りの太鼓橋など、見慣れたお寺の雰囲気とは異なった環境です。
本堂奥の「大願王殿」(S60年建築の宝物館)に案内され、靴を脱いで宝物館内に上げていただきました。あまり広くない庫内に「地蔵菩薩坐像」が一体だけ安置されており、扉を開け放つと、光が入り庫内が一層明るくなりました。内陣・外陣などの区別もなく、仏さまの前には護摩壇なども無い、簡素な仏具だけの設えで、そのまま仏さまに近づき、頭や膝を撫で回したくなるくらい、触れるまでの至近距離で、遮るものもなく、思う存分鑑賞が出来ます。仏さまの背中側は、通り抜けられるほどではないにしても、左右両側からかなり回り込んで背中を除くことが出来ました。明るさといい距離といい、オペラグラスやLEDなどは全く不要でした。
お堂の扉を開けてもらい、もう一人の拝観者と二人で鑑賞を始めたところ、彼がすぐに声を挙げました。世田谷の「静嘉堂文庫美術館」で、4月末に行われた山本先生の講演会の当日に、早朝美術館到着の1番となった男性でした。名前を教え合い、しばらくは二人で、のんびりと話し合いながら鑑賞をしました。しばらくすると数人が加わり、その後も1時間くらいの間に入れ替わり10人くらいがお堂を訪れ、仏さまを拝観して退出されていきました。静嘉堂の男性も、しばらくして先に退出されました。「また、どこかでお会いしましょう」。拝観者は、お姿に感心して拝観されて、ため息をついて帰られる方や、細かく部位を観られて蘊蓄を述べる方など、めいめいにいろいろと話しあったり、初めて会う人同士でいろいろと議論したりしている人たちなど、そこここで話し合う姿が見られました。
私は、平成10年に発表された牧野あき沙氏の論文「瑞林寺地蔵菩薩坐像の銘文と仏師康慶」(当時、担当教授として副島弘道氏が指導されている)をコピーして持参して、像についての概要などに眼を通しながら、実際のお姿を鑑賞しました。数年前に「とんがりさん」があるブログに「鎌倉国宝館で瑞林寺…」として記された、「鎌倉写実を感じさせられましたのは、初めて瑞林寺に訪ね見ました。その衣の衣皺でした。特に左手の肘の曲がり角、その衣皺に感じ入ったのでしたが…」を思い出し、おなじ想いを共有すべく、何回も左右斜めから、眺め透かしてみました。解ったような解らないような感じでした。後日、とんがりさんにどんなことか聞いてみようかと思いました。また、興福寺・法相六祖像の写真や「大仏師康慶の造像」(奥武夫氏)の記事をコピーして行ったので、少し小さかったが見比べながら、しばらくは、先哲が考えたこと、発見したこと、想像したこと、推論したことに、思いを巡らしました。康慶には、その時代や為政者の要請や、係累のつながりも味方したかもしれないが、新天地へ脚を踏み出す「時代を変革しうる」意欲を感じました。この像が、誕生するいきさつ、誕生してからの時代を潜り抜けてきた紆余曲折、お守りしてきた周囲の環境など、知りたいことはいっぱいありますが、それはそれとして、現在のお姿にただ向かうのが、出来るすべと考えました。庫内に入られている人からは、私が手に持った資料をのぞき込まれる人もいて、普通はあまりそうした荷物を持って拝観に来られる人は、そうざらにはいない、といまさらながら思いました。私は、以前からこの像のお姿の特徴である「安座」という像容が、結跏趺坐の他の仏さまのような型に嵌められたスタイルでないところが、何かホッとさせられていました。いつも思うことですが、書籍など写真で見る像と、実際に足を運んで、像を眼の前にして観るのとでは、受ける印象はかなり違います。以前、本像を「鎌倉国宝館」で鑑賞した当時は、像高80㎝強(等身大の大きさ)ということがピンと来なくて、意外に小さい像だとの印象がありました。しかし、こうして再び自分の前におわす像は、肩の張った胸部の大きな、奥行きのある、それでいて筋肉の引き締まった体躯と、緩やかに足を組んで座る姿が、ドッシリと安定した姿が、ことのほか像を大きく見せているようです。実際眼の前にしていながら、違う!受ける感じはもっと大きな像だ、という気になります。強い引き締まった顔つきの中に、何か静かな穏やかな雰囲気があり、安心して長いこと向かい合っていられる感じです。仏さまに至近距離で向かうと、どの方向から観ても、切れ長な両目の大きさが気になり、黒目で意据えられている感じでした。そういえば興福寺南円堂不空羂索観音坐像も、両目の切れ長が同じ形だったな、と納得しました。衣文は、左肩下で紐で袈裟の末端を吊る姿で、左手に蓮台付きの宝珠を持ち、右手に錫杖を持ちます。錫杖、宝珠、胸飾、玉眼、裳の一部などは、後補ということです。ただ、左足先指部分が衣からわずかに出ているが、あまりの「ぽっちゃりアンヨ」に、びっくりしてしまいました。足先指って、上半身の体つきや両手指(手首先は後補?)と比べてこんなに丸々なの?って感じでした。これも後補?そして、緩やかな足組みのために、結跏趺坐の像と違って、腹前部分の袈裟が極端に凹んでまた右足腿部に膨れ上がって流れていることから、ちょっと異質な着衣の様子に感じました。それでも、肘から腕へ、腕から垂下し腰・膝部へ流れる、膝部分の衣文の表現は、さすがという感じで、堀の浅い・深いの変化が自然に表現されているようで、感心しました。 
仏師康慶の現存する最初の作例が、この瑞林寺の地蔵菩薩坐像であるという。像内にびっしりと墨書銘があり、その中に「第仏師法橋康慶」の名(16年前の牧野あき沙氏の努力の結果判明)と、造像開始の治承元年八月の日付や、多くの小仏師や結縁者名が記され、造像の時期を記して、康慶は、本像の製作者でありながら願主として、先代の「康助」、「康朝」の名を入れて菩提をとむらい、工房や仲間・関係者をまとめ上げるための気持ちを込めた像として、康慶の法橋叙位後に供養が行われた、という。そこには、「箱根山別当行実(ぎょうじつ)」、「義勝房法橋盛尋(じょうじん)」の氏名も記されており、南都仏師、集団と東国武士や豪族とのわずかな日常的な繋がりが、鎌倉幕府成立以前から成り立っていたことを、知ることが出来ます。箱根山は、現在の芦ノ湖の畔の「箱根神社」で、行実は石橋山敗戦の「源頼朝」を匿った人物であり、京都では源為義、義朝らの「源氏」一門と関係があり、やはり頼朝の側近であった義勝房成尋も、「永福寺」の奉公人になったり、「東大寺供養」に際して、頼朝から馬千頭が施入されたときの、受け渡し役となっています。また、成尋の姉か妹が頼朝の乳母「近衛局」であり、和田氏などと深い関係があったといういきさつがあるそうです。頼朝などとの関係、その後の「慶派」の東国における活動の基礎が、鎌倉幕府開設前の時点までに築かれていたことが理解される、大きな意味を持つ墨書銘ではないか、と思います。
お堂を開けてくださった方(扉の開けから閉めまでズッと立ち会う寺衆の方)からは、写真撮影の許可をいただけました。仏さまの背中まで見られるくらいに回り込めるので、本当に最近の美術展のようでした。拝観後短時間で退出される人が多い中で、一人の男性が最後まで庫内に残られ、今しがた来た老夫婦とその人と私の4人が、最後扉を閉められるまで居残っていました。境内をもう一度観て回り、12時頃に退出しました。
なお、本像についての、詳しい解説と資料提供は、M氏がすでに、「弧思庵・集いの会」で行われており、よくわかるものと思いますので、是非ご参考にしてください。
バスは運休なので、お寺から最寄り駅(身延線柚木駅)まで10分くらい歩いて、すぐに来た電車に飛び乗り、富士駅までの1駅を移動しました。改札は無人でしたが、交通ICカードが使えるので、わずらわしさがなく便利でした。昔は、登山で身延線を利用したことがありましたが、今はお盆のせいか、大勢の乗客で混雑していました。お寺で最後に残った男性と一緒になり、一緒に沼津駅まで電車を乗り継ぎました。彼は、お寺で拝観中にも、お寺や仏さまのことなど、かなりいろいろとご存じで、断定される言い回しには、自信ありげで学識もあるのかと思い、仏さまをどのように観られているのか気になるので、話されることをよく聞くようにしました。彼は、そのまま東京へ帰るとのこと。私は、時間があるので、予定通り1駅先の「函南駅」で下車して、彼と別れました。
ほんのわずかで、「函南駅」に到着し、人気の無い暑い駅前から、次の目的地へ出発しました。
 
 
 
遠い昔に、桑原薬師堂・長源寺に行った時は、季節は違いましたが、その都度歩いて山を登って出かけ、帰りも歩いて下って駅までたどり着いた覚えがあります。今は無理なので、函南駅前からタクシーで出かけました。「かんなみ仏の里美術館」は、20124月にオープンした新しい美術館です。所蔵品は、「桑原薬師堂」の仏像群を地元から預かり、広く一般の方々への地元文化財の紹介を行っています。到着したときは、入場者もほとんど見かけないほどで、ゆっくりと鑑賞することが出来ました。受付職員としばらくおしゃべりをしてから、展示場に向かいました。全面ガラス張りの壁で、一瞬入り口がどこか分からない感じでしたが、半ばに押し開きの扉があり、入るとかなり暗く照明を絞っているようでした。書類の文字が読めないくらいの暗さで、「もうちょっと明るくして!」と言いたくなりました。入り口の扉の正面奥に、阿弥陀三尊像、向かって右手壁際に、十二神将像・12体、その前に単独で薬師如来坐像、向かって左手壁際に、手前から奥へ、空海上人坐像、経巻上人坐像、不動明王立像、毘沙門天立像、地蔵菩薩立像、聖観音立像、左右脇侍立像が並んでいました。十二神将像・12体の足元には、各々に小さな鏡がおいてあり、上からのLED照明の光を反射させて、各像の玉眼が光ってよく見えるようにしていました。確かに以前の「桑原薬師堂」では、堂内に並んだ諸像の玉眼までは確認出来ませんでしたから、結構なことだと思います。美術館としては極端なほどに、薄暗い環境を設定している会場内の、「阿弥陀三尊像」の前のベンチで、しばらくぼんやりとしていました。やはり、当地では一番きれいに観られる仏さまですから。ヒノキ材の一木造りで玉眼が嵌入され漆箔処理されている仏さまで、端正な顔立ちで、全体にバランスの良い仏さまです。阿弥陀三尊の中尊内に「大仏師実慶」、脇侍像頭部内にそれぞれ「仏師実慶」と製作者の仏師銘が墨書されている、作者がはっきりと判明している像です。「実慶」は、「運慶願経」にも名を連ねている仏師ですが、午前中に鑑賞してきた「瑞林寺・康慶作・地蔵菩薩坐像」の胎内墨書銘にも小仏師として記されている仏師で、「修善寺」の「大日如来坐像」の作者として墨書銘もあります。ガイドのお話しではイギリスの「大英博物館」にも、他の美術工芸品などの文化財とともに展示されたことがあるそうで、やはり地元の貴重な文化財として、関係者の誇りになっているそうです。「吾妻鏡」には、石橋山合戦で戦死した北条宗時北条時政の嫡男)の墳墓堂が、伊豆国桑原郡にあったことが記されており、源頼朝の舅(しゅうと)の北条時政が、戦死した息子の宗時の慰霊のために、本像を慶派の仏師・実慶に造像させた、と考えられています。この「吾妻鏡」の記載については、8月の「弧思庵・集いの会」で、M氏の発表と共に資料提供されていますので、ご参考にしてください。観音菩薩立像は左腕先が欠失しており、他の部位が綺麗なので、余計痛々しく感じます。
展示場右手に一体単独で展示されているのは、本尊・「薬師如来坐像」です。以前薬師堂を訪ねた時は、お堂内の奥に、厨子に入った円光背を背負った仏さまでした。厨子前の壇上に、日光・月光菩薩立像が立ち、四周の壁際に、「十二神将像」が、左右各々6体ずつ本尊を取り囲んでいました。現在は、薬師如来像の後ろ壁際に、12体が一列に並び、脇侍像は反対側の壁際に並んでいます。地元の「縁起」には、「桑原・小筥根山新光寺(こはこねやましんこうじ)」という七堂伽藍を持つ大寺が建立(817年)されたという記録があり、桑原では薬師如来坐像はこの新光寺の本尊であったと伝えられているそうです。
なお、私が紹介した仏さまについては、「弧思庵・集いの会」でM氏が、細かく多くの資料をもとに、まとめられておりますので、そちらをご参照いただければ、よく解るものと思います。
受付や事務所を支点にして展示場の反対側では、映写会や講演などが出来る広さの部屋があります。奥の部屋(資料展示室)では、壁一面に仏像に関する資料が写真パネルなどにして解説されています。「仏像鑑賞図鑑」と名付けて印相、尊格、彫像の作り方、などが学習できる部屋で、今回立ち寄った時には、ボランティアガイドの人が入場者の親子や若いアベックに、パネルを指しながら説明をしていました。また手前の部屋(多目的室)では、小規模な展示で「大竹千体観音像展」が開かれていました。函南町大竹区にかつてあった「法國山光明院蓮華寺」の廃寺跡の小さなお堂に祀られていた千体仏で、木食僧・蓮誉華空法阿(れんよけくうほうあ)が制作した千体仏ということが縁起によって知られており、H21年に上原仏教美術館が調査したものということでした。辺鄙なところにある施設ですが、結構一生懸命教育・啓蒙活動を行っており、感心しました。他に入り口突き当りには、庭園があるのですが、暑いので出歩くのは止めました。
現地ガイドの男性としばらくお話しを伺いました。「みしまのお寺めぐりの会」事務局長・峯岸さんという方でした。修善寺大日如来像のこと、実慶のこと、関東での慶派仏師の活動のことなど、ポツポツと考えながら話してくださいました。「カレッジ・inかんなみ」という学習会が、820日(土)に、函南町文化センターで開催されるというチラシを見つけました。「函南の仏像・最近の調査から」というタイトルで、三井記念美術館・清水真澄館長が講演されるそうです。清水真澄館長は、仏の里美術館開設時の設置協力者として協力しており、パンフにも名前が紹介されていました。
帰りは、時間があるので、美術館の窓から民家の屋根越しに見える、眼と鼻の先の長源寺と桑原薬師堂に立ち寄り、「お盆」でお寺に集まっていた地元の方々と歓談して、お茶菓子をご馳走になりました。以前はこれほどの民家が多くなかった人里離れた山間部でしたが、現在は、美術館までの道路際は民家や工場、倉庫や店舗などが連なっていました。お寺の裏山には、石垣に従って登っていくと墓地となり、以前訪れた時の情景を思い出しました。当時、下の庫裡から来られた奥様が、どう云うわけか堂内にあったオルガンで、賛美歌の演奏を披露してくださったことが、印象的でした。思えば、お堂を閉鎖し、新しく美術館を建設するという頃でした。懐かしい思いが蘇ってきました。
畑や牛舎などの田舎の径を辿り、新幹線の高架下を通り、函南駅まで30分を炎天下黙々と歩きました。朝から曇天で風もなく、あまり高低差はないものの、駅にたどり着いたときは、汗びっしょりでした。日中炎天下美術館から駅まで歩くなど、行く道すがら私以外に歩いているものなど、全く見かけませんでした。函南駅からは、熱海駅で乗り換え、横浜駅経由で帰路につきました。
 
 
2016817