孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

両先生の 興福寺北円堂の 無着・世親像の 考察


これは 何時もの様な 書下ろしのブログでないです。ある仏像教室での自主勉強会の発表に当たり、その資料の草稿案です。

二人の先生の 講習会を受講して 感じた事を書きました。 最初の一つは 山本 勉氏の講演会 の内容ののですが、この時は自身さぼってしまい 受講の感想ブログをネグってしまったのか、どうにもそのブログが見つかりませんので、 他の人の受講感想ブログで代行する事にします。 此処に転掲載させて頂きます。

講演「運慶のまなざし」山本勉先生を聴く」  ありをりある.com
www.ariworiaru.com/.../lec-unkei-yamamototsutomu-1/
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より抜粋  転掲載させて頂きます。



小学館さん90周年記念事業『日本の美術』シリーズ記念講演」

 先週末、小学館さん主催の講演会、「運慶のまなざし」by山本勉先生を聴きに行ってきました。

 http://www5a.biglobe.ne.jp/~kazu_san/200901310011.jpg http://img-cdn.jg.jugem.jp/e1e/7521/20140207_1018121.jpg

①平安末期最先端の技術、「玉眼(ぎょくがん)」
 先生のお話で、まさに目からうろこなお話はそれこそ山のようにあったのですが、その中で「玉眼」についてのお話がまたすごかったです。
「玉眼」とは何か、と申しますと、仏像の目のところに用いられる技法のひとつですね。
人間の眼球と同じように見えるよう、水晶などを埋め込んで作った目。キラキラ輝いたりして、ほんとリアルなんです。
仏像ファンは、もし、その仏像に玉眼が入っていたらそれは多分平安最末期以降の仏像だな、と思うと思います。つまり、12世紀に出現した、新表現というか最先端技法なんです。
 銘がある仏像で、玉眼が用いられている最古のものは、長岳寺の阿弥陀さんだそうで1151年の名だそうなので、だいたいこれくらいから以降に使われるようになっていく技法なわけですね。
20140216-1(『興福寺仏頭展図録』より。表紙転載)
前後してしまいますが、あまりにも有名な旧山田寺仏頭。こちらは、鋳造されたお像なので、「彫」眼というのとは違うかな、でも玉眼でない表現の参考として見ていただければと思います。 玉眼という技法が現れる前までの仏像は、木彫にしてもこのような表現だったわけですね。
 #またまた「興福寺仏頭展」図録の表紙の転載、ということでお許しください。
運慶は表現として「彫眼」と「玉眼」を使い分けていた!
 先生のお話は、この玉眼、という視点から運慶の表現に迫る、というものでした。
山本先生のお話ですと、どうも運慶は、玉眼と彫眼(彫っただけの目)という技法を、ものによって使い分けてるのではないか、とおっしゃるのです。
おおお!
な、なるほど!!!
いや、実際、使われてるものとそうでないものがあるのはなぜ?と思ってはいたんです。でも、少ない制作費で本を作ってきた人間のサガでしょうか「ひょっとして予算がなかったのかな…」なんて、せこいこと考えてたんです。
……そんなことはないっすよねw。
施主さん、大物ばかりですもんね^^;;。
先生のお話では、運慶は玉眼という技法を十分に使いこなし、表現の選択として用いていたのではないかというのです。
玉眼というのは、非常に生々しく、写実的な表現を可能にします。
ですから、人ではなくなった超越した存在である「如来」、またそれに届こうかとする存在「菩薩」には、あえて玉眼は使わず、怒りの表現でもって人々を導く「明王」、神様が仏法に帰依した姿である「天部」 、またお坊さんの姿である「羅漢」「祖師」像などには玉眼を用いる…と。
なるほど!
そういうことなんですかあ。納得!
しかし、見ていくとどうもこの単純なルールだけでもない、ようなんです、と言い出す山本先生。
え!
じゃあどんなルールが!?


興福寺北円堂の「無著・世親」像
さて、より人間に近いお像には、リアリティを加える「玉眼」を用い、超越した存在である如来像などにはあえて「彫眼」を用いる…。そんなルールでこの技術を使い分けているようだ、とされながら、…しかしルールだからと言って、ただ単純にそうしているわけではなさそう、と言い出された山本先生。
たとえば、興福寺(奈良)の北円堂。
20140327
こちらには、あまりにも素晴らしい「無著(むちゃく)・世親(せしん)像」(国宝)が安置されています。
この「無著・世親」、興福寺法相宗という宗派なのですが、その宗派の祖となったと伝えられている偉大なお坊さまの兄弟なのです。
無著(兄)さんは、釈迦如来の次に仏になることが予言されている弥勒菩薩より教えを受け継いだ人で、唯識学派の大家になりました。世親さんはお兄さんの説得により、上座部仏教から大乗仏教へ転向し、兄とともに教えを広めました。
この北円堂には、そのおおもとになった弥勒如来像がご本尊として祀られ、その両脇には脇侍である菩薩二体、そして少し下がった後ろ側にこの兄弟の祖師像、そして四方には四天王が安置されています。
「玉眼」を用いることで、まるで時空を超えているような表現に
 この中で、運慶の手によるものはご本尊の弥勒如来像と無著・世親像の三体なのですが、そのうち無著・世親像のみが「玉眼」なのです。
「玉眼というのは動きをもたらします。この二体だけまるで時が動いているように見える効果があるのです」
先生は、この二体にのみ「玉眼」という技法を用いたのは偶然ではなく、運慶の意図が明確にあったのではないかとおっしゃるのです。
確かに、以前拝観した時のことを思い出しますと…。前側から拝見すると、暗い中から、金色に輝く弥勒如来三尊像の少し後ろに、あまりにもリアルで、しかし超人的な風貌のお像がすっと立っているのが見えました。
その時に、光を吸って目が光るようにみえたことを思い出しました。
濃い陰翳と光。
北円堂はそれ自体が大変美しい八角形のお堂です。このお堂自体、建造が721年という興福寺の中でも最古層に属する建物で、国宝に指定されています。
 私が観た日には、ものすごく美しい秋の日で(秘仏なのでご開帳の日は限られています)、開け放たれた戸の向こうに青い空が見えました。そっとお堂の中に足を進めると、その瞬間、深い陰翳の世界に入り込みます。そしてその陰翳の中に浮かび上がる金色の三尊像と、無著・世親像の深い悲しみと赦しをたたえたような優しい目がスーッと私のほうに……。
なるほど、金色の仏さまたちはあまりに完璧すぎてこの世のものとは思えませんが、その間に無著さんと世親さんがいて、その隔絶した距離を少しだけ埋めてくれてるような気がします。
「時空を超える表現、ですね」
なるほどなるほど!
 確かに、無著・世親像はまるで生きている優しいお坊さまのように、その超絶世界と私たちをつなぐそんな役割をしてくれてるんじゃないか、そんな風にさえ思えます。
「運慶は、群像全体を見据え、相互関係を考えて、一つの像に最もふさわしい姿や表現を与えているのです」
…ふかい。深いですね~!
このお堂の中には法相宗の根本というべき世界観が表現されているんじゃないかと思いますが、そういった世界観を表現するうえで最善の手法を用いて、運慶は造像したんじゃないかということでしょうか。
それにしても、先生のお話を伺ってますと、視界が広がっていきます。
このように一つの観点をおしえていただくと、それを突破口にして、また新しい気付きをいただきますね。「運慶のまなざし」という講演タイトルがまたなるほど、と思われてきます。玉眼という技法をどう使いこなすか…という視点を通して、繊細で深い運慶の「まなざし」を感じることができるような気がしました。
運慶のお像を改めて拝観しに行きたい気持ちがむくむくと。知るって本当に楽しいです!



以上 講演「運慶のまなざし」山本勉先生を聴く | ありをりある.com
www.ariworiaru.com/.../lec-unkei-yamamototsutomu-1/
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よりの抜粋  を 引用、転掲載させてもらいました。


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もう一つは 金子啓明先生の講演会の内容です。
此方は、過去に書きました自身のブログの拙文です。


「7月21日の興福寺文化講座(東京)に行ってきました。」 .
2016/7/22(金) 午後 9:37
 

7月21日の興福寺文化講座(東京)に行ってきました。 今回は興福寺文化講座にしては めずらしく、仏像仲間の内の5人と私とで、仲間総計6名もの参集でした。


第一講義は「運慶と興福寺北円堂の諸仏」 興福寺国宝館長・金子啓明氏でした。北円堂の仏像を紹介解説されましたが、流石お寺所属の国宝館、金子館長は、仏像を彫刻作品と見るより宗教の像として、興福寺の仏教に根差した見方で紹介してくれました。 


今更 言うまでも無いのですが、 1180年、平氏が放った戦火によって興福寺はほぼ全焼、北円堂も焼け落ちた。まもなく復興が取り組まれたが、北円堂の再建はどうしたことか他の堂よりも遅く、仏像は1208年につくられはじめた。造仏の経緯は、近衛家実の日記『猪隈関白記』、および弥勒像台座内の銘文(戦前の修理時に発見)によって、かなりよくわかって 、統率の仏師は法印運慶であった。個々像の担当大仏師は運慶の子どもたちと一門の実力派の仏師たちでは在りましたが、運慶が棟梁として彼らを率いていたと考えられ、夫々の仏師作というよりは、プロジュース、ダメ出しの結果で、それは運慶の晩年の作と取られて居ます。然りと思います。
   


北円堂の本尊は弥勒仏坐像は、運慶の完成の域の作品 完成期の作行きとファンも多い秀作ですが、講師の金子氏の講演中の言葉に運慶が大安寺の釈迦像を観ていたと聞こえる節が在りました。大安寺の釈迦像に付いて大江親通の『七大寺巡礼私記』の、薬師寺の項で、本尊像(現存、国宝)についての記述のなかで、「薬師寺の本尊像は優れた作だが、大安寺の釈迦像には及ばない」という趣旨のことを述べています。それほどの傑作を天才運慶が見ていて、この弥勒仏像の参考にしたのであれば、そういう面からも、大変に興味ある事と思えます。なのですが、 不勉強で大江親通の観た大安寺の釈迦像がいつ消失したかを知らないので、運慶が見た、見ないの判断に及べないの が残念です。自分なりに調べてみましたが安寺の釈迦像がいつ消失かは、歴史的に はっきりししていない様ですね!その件ご存知の方は教えてもらいたいものです。

  
  
上述の運慶集大成、の晩年の本尊弥勒仏以上に人気なのが、脇侍的な 無着、世親の像です。運慶の指導のもとに無著像 は運助、世親像は運賀が担当したことは知りますが、前述の本尊弥勒仏像同様に運慶作と考えます。


その様な事よりも今日の金子先生の解説で、運慶の配慮に驚かされました。この像は高僧の像というよりは、菩薩像として作られて居ます。両脇侍菩薩像なのです。この像はを、今までは兄弟学僧の一対での 両像との認識でしたが、金子先生の曰く、両像との認識でなしに、その一対二躯体で一つの作品ととらえるべきと教わりました。 正に両脇侍菩薩像の如くです。 未だに、よく解らないままですが 唯識に興味ででして、無着、世親の事は少し聞きかじって来ました。歴史的には、西北インドガンダーラ国(現在のパキスタンペシャーワル地方)にアサンガ(無着)、とヴァスバンドゥ(世親)、というの10歳違いの兄弟が居て、兄が唯識学を創始、弟が大系付けた様です。その師として、3~4世紀頃にマートレイヤ(弥勒)、という人物も存在した様です。 無著は、そのマートレイヤに唯識学を教わった様です。 その歴史的事実のマートレイヤを、
法相宗ではそのマートレイヤ(弥勒)、という人物と、授記を受け、釈迦の後世56億700万年に如来として下生すると云われる弥勒仏 まだ現在は弥勒菩薩 とは、同一としているそうです。



そして運慶はこの両人を巧みに造形しました。無着は年かさの「老」に、世親は10歳若く「壮」に、それは着衣の襞にのも・・・です! 無着は細かい衣襞に、世親の襞は荒いのだそうです。これは同、興福寺の乾漆十大弟子の年齢表現にも、同じ工夫がされて居るのを継承しているのだそうです。若い人の着衣は大まかで、老人の着衣の皴は細かいそうです、今まできずきませんでした。天平乾漆像に改めて感心です。

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また、それに習って 無着と世親の 年齢差を 同様に 衣襞の 細かさ粗さで表現した 運慶の知識にも 驚かされます。 運慶は興福寺の僧侶と考えた方が良い様です。 壮年期の運慶願経(法華経の書写)にも、その宗教性は見えています。

金子先生は 無着像と世親像の眼を注目しました。
 世親は意思の強そうな目で上を見ています。       無著は優しい目で下を見ています。

この眼の表現はは無著は菩薩行位の初地・修習位に達していて仏果に近く、菩薩行の下化衆生の状況段階に在り、一方の世親は十廻向の最終段階の加行位に在りて、未だ菩薩とは初心に近く、やがて菩薩になるべき者としての、修行者菩薩に加えられる程度です。依って私は修行に励む菩薩行の上求菩提心の段階と考えました。それで下化衆生の下を見る目と上求菩提の上を見る目に現わされて居ると理解できました。 また斯様な表現をした運慶の仏教的理解に感心そます。流石の法印です。

 
山本の先生の無着・世親の講演を聞いてますが、そこには仏(仏菩薩)は彫眼に人物は玉眼にの使い分けに運慶の芸術的際に感心したものですが、それは、全く「様式論」の探究です。ここでは「形式論」の図像学で、運慶の仏教的知識の深さに驚かせられました。またそんな見方をされる金子啓明先生の関心には益々ファンになりました。


以上の解説に気付きました。無着・世親は、もはや菩薩の域に達していて、この2躯は、其々肖像ではなしに、2躯の一具で上求菩提下化衆生の菩薩をを現すと知れました。上求菩提が世親で、下化衆生が無着の眼なのです。細かくは忘れましたが、この興福寺文化講座の 続く第2講で、夛川貫首法話に無着・世親の境地の差(菩薩行位)についての講義がありまして、世親は菩薩行位 (十住 ・十行・十廻向・十地)の内の十廻向の加行位に、無着は、さらに上の十地の初地に足していたとの講義を受けました。 斯様に第1に関連した話で 第2講義も、実に面白かったです。
 
金子先生は興福寺の施設である 興福寺国宝館の館長 流石に仏教の理解は 他の美術史の先生とは違うと感じ入りました。私は(様式論の)美術史よりも、仏像は仏教絡みでの斟酌の(形式論)図像学の方が好きですので、大満足でした。


続く第2講の 多川俊映貫首法話は 連続の『春日権現記絵』の世界の連続でしたが、解脱上人貞慶のお話で、釈迦信仰=舎利信仰にも触れられまして、解脱上人の信仰を教えて頂きました。
出て来ました舎利信仰に、先述の無着像が手も持つのは舎利容器との解説が思い出され、形式論的に納得で腑に落ちました。 第1講に続く、関連づいていた法話で、第二講の法話の方も興味深くお聞きしました。


同席した、お仲間達も、異口同音に今日の講演・法話は素晴らしかったと言ってました。そんな訳で・・、どなたかが、更にもっとましな、この講座の説明・感想のブログを投稿してくれるでしょうから、そちらをご期待・楽しみ下さい。 


お仲間の良い感想分が投稿される前を狙っての急ぎの書き殴り、重ねて、読み返も今日はしてませんので、多くのインプットミス、誤変換が在ると存じます、後日に修正機能にて、手直ししますを言い訳に 不調法 お許し願いましょう。m(__)m


半世紀前の学生時代に愛読した本が仏像趣味の出発点  NHKブックス「仏像 心とかたち」です。それは、いまだに続くロングセラーなんですね!
最近の傾倒する仏像学者は、金子啓明氏  その著書は岩波書店の「仏像のかたちと心」です。

      

両書の題名  そっくりですね! 私も「仏像はそのかたちにこめられた心を知ること」とNHKブックス「仏像 心とかたち」に教えられ…、 半世紀以上たっても、まだ仏像好きを続けてます。そして今も、岩波書店の「仏像のかたちと心」を愛読し 仏像のかたちに、その心を知りたいとの思いです。