孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

山本勉教授の 「特別展 運慶を鑑賞するために」 講座を受講しました。

月8日 清泉女子大学 清泉ラファエラ・アカデミアで 同大学教授 山本勉の 「特別展 運慶を鑑賞するために」と題した一日講座を受講してきました。 仏像愛好の集のメンバーが7人程 来場受講していました。

山本勉と言えば、運慶論 多くの運慶関連著作本が多く、その出版に際して、此れまでも山本勉の講演会がありました。

「運慶大全」の画像検索結果
今回も予価:60,000円+税もする豪華本が今年の9月4日頃に刊行予定でとの事、その関連での、山本教授の運慶関連の講演が、これから目白押しかと思います。
既にもう何度も 山本教授の 運慶講演は聞きました。 で、そう新知の内容は多く在りませんでした。 今までのX線撮影の 資料に代わり、最近はCTの史料で、仏像胎内納入品が 立体画になって来ていて 素人にも、その様子が良く解るように成って来たなと感心しました。 展覧会と云う好機に、これからCT撮影は、盛んに撮られ事でしょう。


運慶と言えば 仏像内納入品、納入品の故に 運慶作と 比定されるほどですが、 心月輪を大事にした事は 運慶が名匠の側面の他に仏に対する信仰の面を良く表していると感心しました、 それ以前の知られた心月輪は平等院鳳凰堂阿弥陀如来坐像納入品、 運慶も心月輪 その心月輪は 時代と共に進化して行き、また中尊と脇侍では その像形の丁寧さが違い。 仏像の心を大切の思う派の 自分としては大いに関心の部分でした。 講演の説明に 出た来ました、「猪熊関白記」に記された、運慶一門による北円堂諸像造立が、はっきり裏付けるものとなった北円堂の諸仏、中の弥勒仏像の体内には、「白檀弥勒菩薩立像を収めた小厨子を挟み込んだ板彫彩色五輪塔、 宝筐院陀羅尼経、心月輪を載せた蓮華台が、納入されていましたそうで、心月輪の最終形と見られる北円堂の本尊弥勒仏坐像納入品の水晶玉を蓮華台座に乗せたもので、昭和9年弥勒仏像の修理の際に、胎内納入品が発見されたが、今は戻されて居るので見る事能わずですが、その時撮影のモノクロ写真が残って居ます。モノクロ写真ですが、それは赤く塗られて居たとの報告が残っているそうです。 今日の講演では、山本教授は 赤く塗られてたとしか説明されませんでしたが、 心月輪は心臓に当たりますので赤くしたのだと思います。 胎蔵生曼荼羅の中台八葉の蓮弁が赤いのに通じると思いました。 

まだ確認できてませんが、水晶玉を載せる蓮台の蓮弁の数が八葉であったなら、尚、中台八葉に合致で面白いのですが・・・。
この弥勒仏像 胎内に納められている。 運慶最終型の心月輪の モノクロ写真を掲載したいので、色々ネット検索したのですが、コピー転載できる画像が出て来ませんでした。 残念です!
北円堂 弥勒如来 に対する画像結果   
運慶最終型の心月輪が納まる興福寺北円堂・弥勒仏像

一度、仏像胎内ある「心月輪」のその意味と、 「仏の心」をもっと深く考えてみたいです。 それにしても 運慶一代で進化し続けた「心月輪」  その運慶を過ぎると 形骸としては残る例もあるのでしょうが、 その真意は衰退してしまった様です。  そんな点にも運慶の名匠面の他にある、仏信仰の面に感じ入ります。

その他に 興味を持ったのは、 国宝に成ったばかりで、今注目を集める。興福寺北円堂の 無着(アサンガ)と 世親(ヴァスバンドゥ)の二人の像・・・、無著像は老人の顔で右下を見、世親像は壮年の顔で左を向き、遠くを 見てます。に・・・、これまで何の疑念も持ってきませんでしたが、今回の講演で、無着 世親の名付けは逆説、老人顔が世親で、壮年顔の方が世親の説!があるに接して驚きました。

 兄世親の方が早世していて、世親の方が80歳の長生きしたという。 中国で、その様な二人を描く場合、早世した方を若く描き、長寿だった方を老人に描く 表現法、つまり各々の臨終の時の様で描くがあるそうで・・・、その様な表現方法だとすると・・・、両像の名称が逆という事になります。 壮年像が無着で、老年像が世親 と成ります。少し前の興福寺文化講座で興福寺国宝館の金子 啓明館長より、二人の目線に注目で、 上求菩提で上を見るのがまだ修行の浅い世親で、下化衆生で下を向くのが、境地が上の無着 との解説を 受け感心ましたが、無着・世親が逆でしたら、金子 啓明館長の名講義が崩壊です。 私は老が無着 、壮が世親 の方が 良いです。 正しいか否かでは無く・・・、好きと言いましょう。 

更には 脇侍僧像の 一人は玄奘三蔵との 説もあるとの事です。 無着・世親は唯識学の大成者で、玄奘三蔵はその教学を中国にもたらせた翻訳僧で、共に法相教学では重要な位置付けを受けてます。 興福寺と並び、もう一つの法相宗大本山薬師寺では、玄奘分骨を拝受し、平成3年(1991)には玄奘三蔵院伽藍を建立してます。

因みに法相宗(唯識教学)の開祖は弥勒 みろく Maitreya [生]270頃 [没]350頃 仏教の唯識説を説くインドの唯識派の歴史上の実在者で、後世の伝説では,兜率天上の弥勒菩薩と同一視された。そして弥勒から無着が、般若の空思想を根底にし、瑜伽行をもって唯識説を立てた空思想を学び、また、他の人々にも、弥勒が直接『瑜伽師地論』(『十七地経』)を説くように要請し、無著がその解説をしたと言います。弟 世親は 兄の無著(むじゃく)に従って大乗に転じた。瑜伽唯識(ゆがゆいしき)思想を主張し、無着の死後に唯識派の根本的教義書の「唯識二十論」「唯識三十頌」を著す。 以上、興福寺文化講座(東京)で教わり、かろうじての認識なのですが、 北円堂の諸像の意味の解釈に役立てます。他にも、法相・唯識関係の像などの解釈に法相宗の事を理解してなければの経験を、東京藝大美術館での「国宝 興福寺仏頭展」に出品の弥勒菩薩半跏像などで感じました。仏頭展 の(脇役的存在)弥勒菩薩半跏像 考  2013/9/27(金) 午後 0:35のブログ参照ください!上の青字をクリックを2度繰り返すと其のブログが出ます。
興福寺 弥勒半跏像 に対する画像結果



以上  講義にては、ノートもとらずで聞き流し、未だ配布資料も読んでないで、早々にブログを書いてしまいました。 7月8日、同時に「仏像愛好の集」の秀才たちも受講されてますので、後で あるでしょうから、同講座の ましな説明感想のブログの方を ご期待ください!

【以上は 孤思庵の文章です。】






【以下は、Mさんよりの 関連 補作文です。】

Mです。
 
山本先生の運慶展の見方の講演会についての投稿文を送りますので、ブログに掲載をお願いします。内容として昨日の孤思庵さんのブログ記事を受けている部分もありますので、新しく項目を立ち上げるのではなく、昨日の文章の下につなげる方が良いのではないかと思います。全体として少し長くなりますが、この程度ならいいと思います。
 
掲載希望の表題
 
「浄楽寺阿弥陀三尊納入の銘札と心月輪」
 
掲載希望の文章は以下のとおりです。
 
私が講演会の最後に質問した「浄楽寺阿弥陀三尊納入の銘札」について、家に帰ってから手持ち資料で確認した結果を報告します。
 
質問内容は
「講演の中で、『浄楽寺の諸像のうち阿弥陀三尊には像内に宝篋印陀羅尼が書かれていて、不動・毘沙門と同じ形の木札の銘札ではなく、光得寺・真如苑大日如来と同じような水晶製の心月輪が入っていたはず』という話があったが、久野健の昭和34年の美術研究誌論文や基礎資料集成では『阿弥陀三尊から発見された木札の銘札は表面を削られて文字を書き直されているが、銘札は当初のものである』と書かれていたと思う。この件について詳しくご説明をお願いしたい」
という内容です。(語句は分かりやすく書き直してあります。)
 
これに対し山本先生の回答は
阿弥陀三尊の納入銘札は不動・毘沙門とは違って出来も悪く、室町時代頃に納入された銘札を後になって削り直したものである。そうでなければわざわざ削り直して不動・毘沙門と同じ文章を書く理由がない。『年』の文字は江戸時代風に『天』となっている。基礎資料集成の『銘札は当初のもの』という記述は誤りである。このことについては9月に発行する運慶大全にも書いた。銘札が造像当初のものでないことは、昭和34年の発見直後に渋江二郎氏が指摘している。」
とのことでした。
 
先生のご回答内容はよく理解できたので、あとは家に帰ってから資料を確認してみました。
昭和34年の美術研究誌204号久野健論文では注7に「この月輪形の銘札は、木部は古いものかもしれないが、明らかに蓮茎部等は、後世けずられ、後世の字で、(以下略)」とある。また、同号の猪川和子執筆納入品リストでは、寸法、文字などのデータと写真を載せるだけで、阿弥陀三尊の納入銘札の製作時期についての記載はない。
日本彫刻史基礎資料集成鎌倉時代造像銘記編1(平成16年)浄楽寺阿弥陀三尊・不動・毘沙門解説(執筆副島弘道)では「以上5枚(阿弥陀三尊・不動・毘沙門の合計)はいずれも造像時の像内納入品と認められる」となっている。
鎌倉国宝館の渋江二郎氏の著書としてこの件に触れたものでは「鎌倉市文化財資料第4 鎌倉地方仏像彫刻概説」(昭和48年発行)がある。(これが最初の記載ではないかもしれないが、他にあっても内容は同じはず。)ここには阿弥陀如来分について「木造偽銘札」として、「木地は台はふるいもののようであるが、けずられていない部分に書かれている梵字はおそらく弘治の時(江戸時代)のもの」とある。観音・勢至分についても「寛文5年(江戸時代)の偽作」とある。(この記述からは文字を削り取られる前の阿弥陀三尊の納入銘札自体が古いものかどうかについて、明確には書かれていないように思える。)
 
私の質問も山本先生のご回答も事実関係は大体間違っていませんでした。
 
以上から得られる結果としては、
運慶は仏菩薩の心月輪は水晶で球状に造り、尊格の低い像の心月輪は木札の簡略な形・材料で作った。(現存作品で前者の例は浄楽寺阿弥陀三尊、光得寺大日如来真如苑大日如来興福寺北円堂弥勒仏、後者の例は浄楽寺不動・毘沙門、高野山八大童子)浄楽寺阿弥陀三尊の心月輪は、時代・作風が近い真如苑大日如来の心月輪から推定できる。
基礎資料集成の記載にも誤りはあるので要注意。
というぐらいでしょうか。
 
基礎資料集成といえども執筆者の見落としや誤解もあり、また、その時点で判明している事実から解説文を記載しているわけですから、誤りがあっても当然ですが、基礎データや写真は別として、備考や解説を利用する時には誤りもあるということを頭に入れておいた方がいいかもしれません。
 
浄楽寺阿弥陀三尊に水晶製の心月輪が納入されていた、という推定はとても興味深い説だと思います。疑問が残るのは「室町時代頃に何故水晶製心月輪を取り出してしまい、木札の銘札を入れたのか?(修理の時に水晶玉は価値が高いもの、あるいは宗教的にありがたいものと思って取り出されてしまったか)」ということと、「昭和45年頃の美術院国宝修理所で阿弥陀三尊の修理(後補の表面漆箔の除去だけで像全体の矧目の解体は行っていない?)の時に阿弥陀三尊の像内に心月輪を取り付けていた痕跡(釘跡など)が見つからなかったのか?」ということです。
山本先生は運慶大全の執筆に当たり、運慶仏全体について従来の説にとらわれることなく見直しをされたのかもしれません。この浄楽寺阿弥陀三尊に水晶製心月輪が納入されていたという推定が正しいかどうかはまだ判断できませんが、浄楽寺の像以外でも今後運慶展に伴うCT画像撮影などの調査や再検討が行われ、新事実が発見・発表されることを期待しております。
 
今回の講演会では大体の内容は前から知っていることでしたが、この心月輪のことやX線画像による六波羅蜜寺地蔵菩薩の納入品と願成就院五輪塔形納入銘札との比較検討など、今まであまり考えたこともなかったことで興味深い内容がいくつかありました。暑い中を五反田まで聞きに行った価値は十分あったと思っています。
 
ついでながら、孤思庵さんの上記文章中の興福寺北円堂像についての
>まだ確認できてませんが、水晶玉を載せる蓮台の蓮弁の数が八葉であったなら、尚面白いのですが・・・。
の件及び無著・世親の名称についても少し確認しました。
 
基礎資料集成(鎌倉)第2No.64弥勒仏・無著・世親の解説(弥勒仏の項執筆田辺三郎助)によると「水晶珠 一個 4.3cm 木製の蓮台(朱彩、柄付き)に銅線で括り付けられていた。(以下略)」とあるが、蓮弁の数については記載なし。同書図版編P208の写真を見ると、表側に蓮弁5枚が見える。裏側を推定すると多分全体で8枚だと思われる。
 
無著・世親の名称については、上記基礎資料集成(伝来・備考の項執筆田辺三郎助・山本勉)に各論者の説についての解説が載っている。個別論文では岡澤公子「興福寺北円堂安置無著・世親の名称に関する一考察」(早稲田大学美術史学会「美術史研究」35、平成16年)、小倉絵理子「興福寺北円堂安置無著・世親菩薩立像について」(実践女子大学「美学美術史学」22号、平成20年)が代表的なものか。岡澤論文は読んでいないが、小倉論文はコピーがあるので、仏像の集いに持参することは可能。(必要なら言ってください。)
 
【ここまで、Mさんの 関連追加 補作文でした。】





★このブログの前半は 孤思庵の文章、 後半の文章は Ⅿさんのです 。
Mさんのご希望で・・・、この様に 孤思庵文章の後に、Mさんの関連補作文章を
ジョイントしました。