孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

私には、一番よかった 講演でした。

  
お寺や仏教芸術、 特に仏像が好きで、 展覧会はもとより 講演会にも時々行きます。

そんな中で、私にとってピカイチだった講座は下段です。

興福寺文化講座
 日時:2/16 17:30
 会場:
文化学園
 講師:金子啓明「運慶のまなざし 宗教彫刻の霊性と造形」
    
多川俊映「奈良・祈り・心」
 主催:
興福寺


講師の興福寺国宝館館長 金子啓明氏 は最近とみに気に入っています。日本美術史(専門は日本彫刻史)の学者の分類ですが、興福寺所属もあってか、宗教的で、仏像研究の切り口が、私の好きな図像学的で、まことに仏教自体に造詣が深いのです。

この口座の表題は「運慶のまなざし 宗教彫刻の霊性と造形」でしたが、 その中の「運慶のまなざし」と云うフレーズは仏像好きなら思い当たるはずです。 
そうです、今日の寵児的な 人気の仏像の先生 山本勉教授が 昨年に何度か「運慶のまなざし」と題した講演をされまして、 私も複数回 聴講しました。

その時の感心は、当ブログ 「両先生の 興福寺北円堂の 無着・世親像の 考察 」のに書きました。(表題ネット検索でが、簡単に出ます)。

山本先生の講演では、興福寺の北円堂の諸像の眼の技法に、本尊弥勒仏は彫眼、 四天王は(現南円堂安置のそれが、南円堂の四天王だそうで・・・、)彫眼、 無著・世親の両像は玉眼  そうしますと、よく言われます運慶後半の彫眼・玉眼の選択の定義からは少し外れて居ます、山本先生に依れば・・・、運慶はもっと熟慮して使い分けをしているとの事でした。無着・世親は実在の学僧、 その実在感の表現が玉眼を選択させた。その説に大いに関心したのでした。 

金子館長の 講演の論旨も 無着と世親 像の眼に及んでいました。 玉眼だけでなく、その眼線に着目されてました。「春日権現霊験記絵」の中にもあるそうでして、 彼の貞慶は・・・、、 無着・世親の修行上の境地の評に、「無着は登地の菩薩、世親は加行の大士・・・云々」と言ったと在るそうです。 

大乗仏教では有情は皆菩薩としています。上求菩提(悟りを求める)の姿勢は既に 菩薩であると云われます。そうして始まる 菩薩の最高最終段階は一生補処の菩薩、 登地菩薩とはその手前の段階の菩薩位なのでしょうか?

登地菩薩とは、十地の初地以上に到達の修行者)の事で、菩薩の境涯、あるいは修行の階位は、上から妙覚、等覚、十地、十廻向、十行、十住、十信の52の位にまで分けて52位を採用することが多い。十地の初地を以って「初地の菩薩」と云う。


加行の大士

五位の修行とは、自己完成し、深みを増していくための課程を、五段階に分けて考える
<資糧位><加行位><通達位><修習位> <究竟位>である。

加 行とは、さらに高い段階へ向かって努力精進をする、準備となる修行です。
大士とは、 ①菩薩の別名。 ② 道心堅固な修行者を敬っていう語。

「加行の大士」とは、 加行位にある修行者


斯様に勉強して来ると 無着は 修行の完成に近い 慈悲に近い修行者であり、世親は、準備段階の修行の道心堅固な修行者 と判ります。

こう理解できると、無着像は 老齢の容姿でもって・・・、高い境地で 衆生を憐れむ、そうして目線は下に向く。
一方の世親像は、道半で、道心堅固な修行者、の風貌 眼は、修行の完成を望む眼で・・・、 上を向いて居ます。

斯様に金子館長は 深く仏教に精通された、 見識で、 仏像を観て 解釈されるのです。 


以前は、Y先生の 運慶の彫眼・玉眼のチョイスの心の読みの洞察に感心しましたが、今回は金子先生の運慶の仏教精通の深さを読み取る力量に関心仕切りとなりました。

以前のY先生の、 高野山八大童子の解釈に、本尊不動明王が不動堂創建の行勝上人になぞらえ、八大童子は行勝の実際の従者をモデルとして造像したとの 推測が在ったかと思います。 実に生きた人の写実に的を射た 推測と感心しました。

今回のK先生は、不動明王大日如来の化身と捉える儀軌的解釈が在る一方、高野山八大童子は、儀軌通りに在らずして、運慶が 独自に一捻りした、八大童子 と考えれれてました。 確かに、願成就院の両従者童子には、儀軌の通り、矜羯羅は性格は小心者で従順 と 制多迦は「悪性の者」であると説かれる表現ですが、高野山の両童子は小心者や悪性の者 の表現では無い様ととらえてました。

どうやらK先生は、 それら仏像は 単に仏の肖像としの解釈を超え、 学僧運慶は、仏堂修行者が修行の為のよすがの像としての意識で造像していたとみられてます。 

ここで私はハッと思い当たりました。 漠然と仏の像としての拝観へは違う! この像は仏堂修行者を後押しする仏像なのだと・・・、 今まで仏像は、発願貴族の願望に依り作られたとの意識でしたが、 仏道修行の道場の仏像は、修行者 僧侶を意識して、作られる。 少なくも 仏教の知者 運慶には その覚悟が強く存在するのではないでしょうか?

そんな事を教えてくれるK先生も 興福寺の一員の 求道者の様に感じます。 


忘れそうなので、ブログ書きました。 この講座に、仏像仲間が6名も聞き入ㇼ、多くのノートを取って居ました。
その方たちの、寄稿をおね議します。 私は難しい話を少しでも理解しようと、 聞き入るばかりで、ノートを取るゆとりは有りませんでした。 為に十分なブログ文が書けません。 そこで受講の皆さんに良き文章をお願いします。 私は兎に角にも、 K先生の 講義が素晴らしく感じました。 内容を仏像のお仲間に伝えたい気持ちでいっぱいなのです。寄稿を宜しくお願い致します。

貧乏暇なしに似て、浅学に余裕なしで、良い文章になって無く不満です。 も一度読み直し。修正する様でしたら、 この分引込めて、推敲の文を 再掲載させて頂く 所存です。 取り急ぎ この講座金子啓明「運慶のまなざし 宗教彫刻の霊性と造形」素晴らしかったので、共に受講して、共に感銘を受けた同志諸兄の、投稿の誘い水になればと、未推敲の拙文ですが、 時が過ぎ行き、感動が薄れない内にと、ここに とりあえず掲載する事にしました。