孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

日本国宝展鑑賞の追記  興福寺 金堂 広目天について。

 
10月21日(火曜日)雨模様の中、東京国立博物館での『日本国宝展 祈り、信じる力』(会期10.15~12.7)に行って来て、2014/10/22(水) に日記を書いていますが…、
陳列展示品の中の仏像で、一番気に入った。仏像法隆寺 金堂の広目天像の追記を書きました。
「日本国法展」の仏像の部はと言いますと、最後の第五章で「仏のすがた」と銘打った、捻りの無い其のままです。

陳列仏像は
112 広目天立像・法隆寺  
(113 多聞天立像・興福寺 11/11~ )
114 薬師如来坐像奈良国立博物館  
115 普賢菩薩騎象像・大倉文化財団  
116 観音菩薩坐像・勢至菩薩坐像・三千院  
117 広目天立像・浄瑠璃寺 ~11/9
118 国宝 善財童子立像・仏陀波利立像・安倍文殊院  

の七躯でした。 感激が無いのは、広目天立像・浄瑠璃寺普賢菩薩騎象像はずっと東京に居ますし、遠来の仏像も脇役スタッフ的が殆どで、小品の薬師如来坐像以外は中尊でない勢と気付きました。  

 何故かそう感じるは、後で何故そう感じた理由が解ってくるものです。
 
そんなで、今回は多くは語る熱意が湧か無いのですが そんな中、広目天立像(法隆寺金堂 )は、今回の中で、秀逸でした。
 
 
さて仏像の部はと言いますと、最後の第五章でして、「仏のすがた」と…その題名は、あまりに捻りの無い、其のまんまの付け様です。 

 そんな中、広目天立像・法隆寺 は秀逸でした。日頃は遠くで暗くて、あまり見る事のできない像が 明るい照明の中で、至近鑑賞は実にありがたかったです。
 
 
「仏像同好の集」の仲間内で、最近は日本仏像通史の勉強を始めてまして、飛鳥時代から始めてるところです。 そんなで、この法隆寺金堂 四天王をも勉強し再認識してきました。
 
此処に以前の日記に少し加筆してみます。
 
この広目天を含む一具四天王像は、我が国最古の四天王像で7世紀中頃(飛鳥時代)の作です。北魏系仏像の傾向の強い日本仏像の黎明の飛鳥大仏(609年)、法隆寺金堂釈迦三尊(623年)に制作したとされる、止利様式様式。それより少し後の救世観音(最新説 622年~643年)、そして此の四天王像はそれよりも少し遅れた650年頃と見られて居ます。
 
岩田茂樹(奈良国立博物館 / 学芸部 / 部長補佐)「法隆寺金堂四天王立像・補遺」
(『MUSEUM 東京国立博物館研究誌』623号、2009年12月)の解説文を
blog.goo.ne.jp/kosei.../23b0b88f2266c042502bc9896145860... に読ませてもらいました、ご紹介します。

 岩田氏は、邪鬼と岩座の組み合わせの不自然さを指摘し、広目天像と多聞天像とで岩座が入れ替わっているものと推測します。そして、持ち物などから見て、十四世紀には、持国天増長天像の尊名が現在とは逆であったらしいとして、持ち物の復原を試みています。

 興味深いのは、四天王像は四体とも作風が似ているものの、広目天光背の裏面には「山口大口費」と「木{門<牛}」の二人が作ったと刻され、多聞天光背には「薬師徳保」と妙な名のもう一人が作ったと記されていることから見て、あとの二体についても、この二人組が一体づつ作成したと考え、その組み合わせを推測したことです。

 そして最後に来ているのが、救世観音像との関係の考察です。氏は、樟の一材からの丸彫りに近い構造で、木心を籠め、別材を補助的に矧ぐという点、宝髻を表現せず、頭頂は平彫りである点などにおいて、救世観音像と金堂四天王像は類似していることに注意します。そして、救世観音像の方が正面観照性を保っていて年代が古いと考えられること、また宝冠が似ているものの、650年頃の作成と推測される四天王像ほど形式化していないことから、岩田氏は、これらを作成した工人は同一とまでは言えないまでも断絶があるとか無関係とか見ることもできないとし、聖徳太子が没した622年から山背大兄王一族が滅んだ643年の間の成立と見てよい救世観音像と、650年前後の作成と思われる四天王像については、「工人たちのうち、一部が重複している蓋然性はありえよう」(42頁)と結論づけています。

 実地に詳細な調査を行った専門家ならではの報告であり、聖徳太子、および聖徳太子信仰について考えるうえで、きわめて重要な論文です。
ちょいと難しいでしょうか?しかし、専門の研究論文としては比較的に解り易いですね。
 
尚、上の論文中に、「救世観音像と四天王像との宝冠が似ている」と在りますが、飛鳥時代の宝冠の勉強中に、ウェブ検索していて、
hannan-u.repo.nii.ac.jp/?action...1...
を見つけました。
 
これも論文で難しいですが、興味が在れば ご参照ください。救世観音像と四天王像との宝冠についても書かれてます。
 
以上美術史の専門的な研究でした、今度は尊像史的にて、四天王と今回展示の広目天について書きます。
 
【四天王の尊像史的考察】
 
まず四天王の意味合いですが、一般的には、 須弥山頂上の忉利天(とうりてん)に住む帝釈天(四天王天)に仕え、八部鬼衆を所属支配し、そ須弥山の中腹 六欲天の第1天、四大王衆天にて東南西北の方角を分担にて仏法を守護する。方位護法神(東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天)とばかり考えられてますが、その源流はインド神話の神々でして、その時から帝釈天の源流のインド神話の雷神であるインドラの配下のドゥリタラーシュトラ・ヴィルーダカ・ヴィルーパークシャ・ヴァイシュラヴァナと云う神でありました。
 
持国天は『国を支える者』・増長天は『成長、増大した者』の意であります。
そして、今陳列像の、広目天のヴィルーパークシャは本来サンスクリット語で「種々の眼をした者」あるいは「不格好な眼をした者」という意味ですが、「尋常でない眼、特殊な力を持った眼」さらに千里眼と拡大解釈され、広目と訳されました。そんな目を持つ広目天は。衆生の行状を観察し、帝釈天(天帝)に報告の役目を持つので、メモ取の格好で、時に巻子と筆を持ちます。
 
多聞天(意訳)の源流 ヴァイシュラヴァナという神はもとのインドにおいては「すべてのことを一切聞きもらすことのない知恵者」を意味する。もともとは古代インドの財宝の神クベーラとされ、財宝神であって、戦闘的イメージはほとんどなかった。そんな事で、ヴァイシュラヴァナは毘沙門天(音写)と呼ばれ、我が国に於ても財宝神として単独でも信仰を集めた。
 
また今では四天王は釈迦の守護脇侍な 梵天帝釈天釈 のその両者の内でも下の位の帝釈天釈の配下 と かなりガードマン的役目の方位御法神で、端役に思われがちですが、そうでもないようです。
 
我が国においても、日本書紀には、物部守屋蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が戦況の不利を打破するために、太子自ら 霊木と される白膠木(ぬりで 勝軍木)の木にて四天王像を彫り、頂髪につけて、「この戦いに勝たせていただけるなら、四天王を安置する寺院を建立しましょう」 と誓願され 勝利を祈願した事が在ります。そして後に建てた寺が大阪の四天王寺です。〔寺側の見解では創建当時は、四天王寺の名前のとおり、四天王がご本尊でしたが、平安時代から救世観音(如意輪観音)をご本尊としています。〕
 
【四天王の経典】 
護国三部経の一つ『金光明経』では、この経を広めまた読誦して正法をもって国王が施政すれば国は豊かになり、四天王をはじめ弁才天吉祥天堅牢地神などの諸天善神が国を守護するとされる。
日本へは、先に金光明経(曇無讖訳)が伝わっていたようであるが、その後8世紀頃義浄訳の金光明最勝王経が伝わり、聖武天皇はそれを写経して全国に配布し、また、741年天平13年)には全国に国分寺を建立し、「金光明四天王護国之寺」と称された。
 
最後の総仕上げ東大寺が総国分寺とされ、その西大門には3m×3mもの巨大な「金光明四天王護国之寺」扁額(重要文化財)が掲げられた、そして扁額は、奈良国立博物館に今も残されて居ます。
 
斯様に四天王は仏教では護国の仏神として大いに信奉されてきたのです。
 
【中国・朝鮮史の難解】 
 前述の飛鳥大仏・法隆寺金堂 釈迦三尊・救世観音・と続く 北朝北魏系の止利様式、と別系統で南朝の梁の影響の広隆寺中宮寺の半跏思唯像と百済観音と教わってきましたが、止利仏師の鞍部祖司馬達等は、『扶桑略記』は「継体天皇16年壬寅(522)2月に入朝した大唐の漢人でありと、また、『元亨釈書』は司馬達等を中国は南朝の 梁 ( りょう ) の出身としているが、根拠は不明で、一般には司馬達等は百済からの渡来人と見なされている。彼が南梁出身ならば、侯景の乱など何らかの事情があって百済に亡命した鞍作職人だったのかもしれない。達等は来朝するとすぐに鞍部村主 ( ) (くらつくりのすぐり) を拝命している。『元亨釈書』は達等を南梁人としている。また彼は播磨の国での娘の嶋(善信尼)とその弟子2人を出家の出家の際には高麗からの渡来僧で還俗していた恵便に師事している。等々で、達等は漢人なのか、南朝の梁人なのか?はたまた百済系、高句麗系なのか?とはっきりしないです。 
それどころか、ウェブを読み漁る内に、中国南北朝時代の 北魏内部で、鮮卑の習俗を守ろうとする勢力と、鮮卑の習俗を捨てて中国化を進めようとする勢力との争いが起きるようになる。中国化を進めようとする勢力は、主に漢民族出身者たちである。という説明に出会いましたが、一方の梁などの南朝は漢族と見て良いのでしょうか? 調べ始めるも・・・疑問が出ます、中国の歴史は中華の漢民族と北方の騎馬民族鮮卑系との 大別で良いのだろうか? 混血が進んで本当には何民族なのかはっきりしない様でも有ります。 
 
故に、勉強すれば、飛鳥仏のルーツを北魏系だの、南朝の梁の影響だと出て来ます、そして調べれば解ってくると思って居たのですが…、ここにきて到底、私などの手には負えない事が解ってきました。
朝鮮半島の歴史も、三国時代等と、一見 割り切れそうだが、北朝冊封南朝への冊封は単純でなく、複雑の様です。よってその方面の勉強もお手上げと諦めます。
 
 
 【法隆寺金堂 四天王の考察】
そこで今度は、手におえそうな、陳列の法隆寺金堂 広目天の事を書きます。この像の光背には〈山口大口費(あたい)〉の銘があり,《日本書紀》には650年に漢山口直大口(あやのやまぐちのあたいおおくち)が詔によって千仏像を刻したとあり,これは同一人とみられるところから,四天王像もほぼこの頃650年の頃の作と考えられています。
 
 
  【一方の製作年代の疑問】
 
日本古寺美術全集 1巻で 久野健氏は 次の事を述べています。
広隆寺資材帳」(747年)に四天王の記載がない。「金堂日記」などに、中古に他の寺より写し据えられた内容記事が在る等で、に同寺末寺の橘寺などから移された可能性もある。(反論として「資材帳」には仏菩薩像の記載が記載で天部は無記載)
『七大寺巡礼私記』にこの像は大阪四天王寺の写しであると書かれている。また『別尊雑記』には四天王寺の四天王像が載っていて、その一致に裏付けられます。
 
 
 
 『別尊雑記』所載の四天王寺の四天王像白描図
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
   
 と云うことではこの四天王像は650年の形式ではなしにもっと古い四天王寺像の写の擬古作の可能性が出て来ます。しかし甲冑の様子や邪鬼の姿勢に類似は認められるも相違とも見えますので、写しの像かは難しい処です。
されど像の技法には救世観音より四天王像の方が木彫技法が進んでおり、邪鬼などの丸み、天衣の端の前方向への側面観意識の処理等に発展が見られます。(当初の天衣は広目天像の左のみで、それ以外の天衣はそれに倣っての補作)  四天王寺の写しとしてもそれは形式的な面であり、様式的には650年ごろのそれに合致しているとの見解で結んでいます。
 
【古風な甲冑】
陳列の広目天像 その風貌は、其の後の四天王とは相違で、まず四天王の着衣は甲冑ですが、此処の四天王の着衣は甲冑なのでしょうが、後のそれとは相違で、甲冑と云うよりは中国の貴人の服装の様で、他には類例を見ません。武人姿の四天王はインドから中国に入った頃に定着したようで、この貴人型の四天王はインドの四天王の名残をとどめているのでしょうか?、肉眼ではそう感じましたが画像で詳細を見ますと小札風の模様が一面に在り、またスカーフに当麻寺の四天王甲冑姿にも類似を観て
これも古式の甲冑と認識を改めました。
 
ウエブ 忘れへんうちに Avant d'oublier: 法隆寺金堂四天王像の先祖は
avantdoublier.blogspot.com/2008/10/blog-post_10.html
には天王立像 砂岩 四川省成都市万仏寺址出土 南朝時代(6世紀) 中国国家博物館蔵 
は、襟の立った長袖コート状の鎧を身につけ、腰にベルトを締める。裾に規則的に刻まれた下衣の襞がのぞいている。大きな肩布をはおり、その下に胸甲らしいものの輪郭線が表される。
法隆寺金堂四天王像(飛鳥時代)は、上に述べたような形式を備えており、その関連が注目される
という。
康勝釈迦諸尊像 石造 四川省成都市出土 梁、普通4年(523) 成都四川省博物館蔵
が、部分的にだが、法隆寺のものに似ている。(但し小札は表していない)また、この神将の襟がくるりと返っている表現は、当麻寺の四天王像白鳳時代=飛鳥後期)の方が近い。
 と在り、他に類似も有で、やはり中国の甲冑が源流の様です。ただしその後の一般的な武装天の甲冑の源流よりは以前の形態なのです。
 
 
法隆寺金堂の四天王に次ぐ古像の当麻寺金堂四天王の内から 持国天立像 脱活乾漆造・白鳳時代
 
 
【末期北魏様(止利様)の類似と進歩】
服装に次いで姿勢ですが、前時代に引き続き、動きの無い直立不動の姿勢ですが、正面鑑賞から脱して来ていて、奥行きが出て来て、前述の繰り返しに成りますが、天衣は依然デフォルメながらものその進化形で、前後方向に捻られていて、正面観照から側面感の意識が現れてきています。
 
私には襟などは丸く高めで、長い顔と杏仁の眼に唇は三日月状の仰月形 と幾分に止利派のそれに思えるのですが、細部の観察では、時代は下がり、飛鳥時代の末ごろと解説されます。止利様式の頭大短軀の不調和を脱して,人体比率に近づき,体軀にわずかな屈曲を試み,天衣も側面に向けて湾曲し単調を避けるなど,正面観照を維持しながらも側面観照への指向がみられる。
 
それらは、南朝の梁の影響が入ってきているとみるべきなのでしょうが、時代的にこなれてきた入るとみるべきかは私には難しい処です。 
 
【表情】
この天王像の顔貌は眉尻が上がるも、その位置は目の位置より離れ高くで 個性的な顔貌を現してます。しかし杏仁形の眼に怒りは無く、静かです。アルカイックの微笑とあいまって。後代の四天王とは相違で姿勢と共にマッチする静かさを感じます。実に不思議な雰囲気です。
 
しかしそれはエイジングの醸し出す雰囲気なのかもしれません。 実はウェブの日本最古の四天王像が法隆寺金堂外で初公開 www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2008_07_12.htm そのお顔の赤外線写真を観たのです。
 
 
【左】現在の法隆寺 金堂 広目天の顔部  【右】広目天の顔部分の赤外線写真
 
 
それは見慣れたお顔とは相違で、はっきりと書かれた杏仁形の眼の輪郭線に、これまたはっきりと虹彩が描かれているではないですか!全然印象が違ってしまうものと驚きました!
 
【足下の邪鬼】
 細部の鑑賞に移りますと、足下の邪気が個性的です。まず面貌もデファルメ的で恐ろしいと云うよりは、異様で不思議を感じます。もっと特徴的はその姿勢で、後世の踏みつけられている様とは相違で、四つ這い的に天王を載せている感じで、両手は何かを掴み持たされているようです。
先ほどの『別尊雑記』には邪鬼は右手に宝棒か刀の様な物を持っています。もしかして太刀持ち?そうして観ると左ても三叉戟を持っている手が抵抗ではなしに 支え持つ手に見えて来ます。
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  背中には折りひだの付けられた鞍褥の様な布が掛けられ天王はそれに敷乗る。 また邪鬼の手足には革紐のようなが取付られているようで、乗馬の様に制御されて居る感が在ります。 これに類例は無く次の四天王古像は当麻寺金堂のそれであるが、これはすでに甲冑に邪鬼を踏まえた典型に成ってしまう。 そうして見居るとこの四天王は不思議です。
今回は広目天のみの出展で気付かなかったのですが、牛の様であったり、一角が在ったり、眼を開いたり、閉じたりと、 邪気の顔はそれぞれ相違があったのですね。まだまだ観察が甘いと自嘲です。
  
 
 
 
  
  
 
 
 
 
 
    左より  持国天 牛頭邪鬼  ・  増長天 一角邪鬼  ・  広目天 邪鬼  ・  多聞天 邪鬼
  
  
 
  
最後に、この勉強も後に、日本書紀によれば650年(白雉元年)10月に詔にて千仏像を制作
した飛鳥末の仏師山口大口費が作成した、その広目天像をまたもう一度賞賛したいです。
 
 
【完】
長文にお付き合い有難うございました。