孤思庵の仏像ブログ

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『日本国宝展』 報告

10月21日(火曜日)雨模様の中、東京国立博物館での『日本国宝展 祈り、信じる力』(会期10.15~12.7)に行って来ました。

ブログの同展の仏像愛好の集グループ鑑賞会募集に呼応しての参集者は5名でした。

全部が国宝ばかりで、出品100点以上で、大した展覧会には違いないのですが、あまり感動は在りませんでした。 グループではいつもある鑑賞後のディスカッション的茶話会を持つ気も無しで昼食を取って、散会と成りました。
 
http://ic.mixi.jp/p/f7f74751727d6a913be3c36b11937e4a1df8da07d8/54467b63/diary/1934144932_31.jpg

ただ、毎年 開催の期間限定の奈良博での正倉院展に気に成りながらも、見送り続けました自分にとっては、特別出品の正倉院宝物は嬉しかったです。

「楓蘇芳染螺鈿槽琵琶」は何時も画像で見て、なんと綺麗と思いながらも実際の鑑賞は出来ていませんでしたので、とても幸せな気分に成りました。これまで気に留めていなかったのですが、螺鈿の綺麗な方が裏だったんですね!お恥ずかしいが初めて認識しました。そしてその面に東大寺との文字が刻銘されているのも初めて知りました。また色合いから木材は紫檀的の檀材と思って居ましたが、その宝物名称で気付きましおた、楓を蘇芳で染色したものだったんですね!
 
 
 

教科書で馴染の「鳥毛立女屏風」も同時期に他の博物館でも展示が在るので、そこで初めて何面も在るのを知りました、屏風なのですから、何面か在るのが当たり前ですんね!笑止の体です。
 
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斯様に仏像以外は知らない事ばかりです。
さて仏像の部はと言いますと、最後の第五章で「仏のすがた」と捻りの無い其のままです。

112 広目天立像・法隆寺  
(113 多聞天立像・興福寺 11/11~ )
114 薬師如来坐像奈良国立博物館  
115 普賢菩薩騎象像・大倉文化財団  
116 観音菩薩坐像・勢至菩薩坐像・三千院  
117 広目天立像・浄瑠璃寺 ~11/9
118 国宝 善財童子立像・仏陀波利立像・安倍文殊院  

の七躯でした。 感激が無いのは、広目天立像・浄瑠璃寺普賢菩薩騎象像はずっと東京に居ますし、遠来の仏像も脇役スタッフ的が殆どで、小品の薬師如来坐像以外は中尊で無い勢と気付きました。  

何故そう感じるのかについては、いつでもそう感じる理由が在るものです。

で、今回は多くは語る熱意が無いのですが そんな中、広目天立像・法隆寺 は秀逸でした。日頃は遠くで暗くて、あまり見る事のできない像が 明るい照明の中で、至近拝観は意味有ったです。
 
 今回この広目天が素晴らしく感じたのにも 前段で述べました理由があったのです!
最近、日本仏像通史の勉強を始めてまして、飛鳥時代から始めてるところです。 そんなで、この法隆寺金堂 四天王を再認識してきました。
 
此処に以前の日記に少し加筆してみます。
 
この広目天を含む一具四天王像は、我が国最古の四天王像で7世紀中頃(飛鳥時代)の作です。北魏系仏像の傾向の強い日本仏像の黎明の飛鳥大仏(609年)、法隆寺金堂釈迦三尊(623年)に制作したとされる、止利様式様式。それより少し後の救世観音(最新説 622年~643年)、そして此の四天王像はそれよりも少し遅れた650年頃と見られて居ます。
 
岩田茂樹(奈良国立博物館 / 学芸部 / 部長補佐)「法隆寺金堂四天王立像・補遺」
(『MUSEUM 東京国立博物館研究誌』623号、2009年12月)

 岩田氏は、邪鬼と岩座の組み合わせの不自然さを指摘し、広目天像と多聞天像とで岩座が入れ替わっているものと推測します。そして、持ち物などから見て、十四世紀には、持国天増長天像の尊名が現在とは逆であったらしいとして、持ち物の復原を試みています。

 興味深いのは、四天王像は四体とも作風が似ているものの、広目天光背の裏面には「山口大口費」と「木{門<牛}」の二人が作ったと刻され、多聞天光背には「薬師徳保」と妙な名のもう一人が作ったと記されていることから見て、あとの二体についても、この二人組が一体づつ作成したと考え、その組み合わせを推測したことです。

 そして最後に来ているのが、救世観音像との関係の考察です。氏は、樟の一材からの丸彫りに近い構造で、木心を籠め、別材を補助的に矧ぐという点、宝髻を表現せず、頭頂は平彫りである点などにおいて、救世観音像と金堂四天王像は類似していることに注意します。そして、救世観音像の方が正面観照性を保っていて年代が古いと考えられること、また宝冠が似ているものの、650年頃の作成と推測される四天王像ほど形式化していないことから、岩田氏は、これらを作成した工人は同一とまでは言えないまでも断絶があるとか無関係とか見ることもできないとし、聖徳太子が没した622年から山背大兄王一族が滅んだ643年の間の成立と見てよい救世観音像と、650年前後の作成と思われる四天王像については、「工人たちのうち、一部が重複している蓋然性はありえよう」(42頁)と結論づけています。

 実地に詳細な調査を行った専門家ならではの報告であり、聖徳太子、および聖徳太子信仰について考えるうえで、きわめて重要な論文です。
ちょいと難しいでしょうか?しかし、専門の研究論文としては比較的に解り易いですね。
 
尚、上の論文中に、「救世観音像と四天王像との宝冠が似ている」と在りますが、飛鳥時代の宝冠の勉強中に、ウェブ検索していて、
hannan-u.repo.nii.ac.jp/?action...1...
を見つけました。
 
これも論文で難しいですが、興味が在れば参照ください。救世観音像と四天王像との宝冠についても書かれてます。
 
以上美術史の専門的な研究でした、今度は図像学的にて、四天王と今回展示の広目天について書きます。
 
まず四天王の意味合いですが、一般的には、 須弥山頂上の忉利天(とうりてん)に住む帝釈天(四天王天)に仕え、八部鬼衆を所属支配し、そ須弥山の中腹 六欲天の第1天、四大王衆天にて東南西北の方角を分担にて仏法を守護する。方位護法神(東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天)とばかり考えられてますが、その源流はインド神話の神々でして、その時から帝釈天の源流のインド神話の雷神であるインドラの配下のドゥリタラーシュトラ・ヴィルーダカ・ヴィルーパークシャ・ヴァイシュラヴァナと云う神でありました。
 
持国天は『国を支える者』・増長天は『成長、増大した者』の意であります。
広目天のヴィルーパークシャは本来サンスクリット語で「種々の眼をした者」あるいは「不格好な眼をした者」という意味だが、「尋常でない眼、特殊な力を持った眼」さらに千里眼と拡大解釈され、広目と訳された。そんな目を持つ広目天は。衆生の行状を観察し、帝釈天(天帝)に報告の役目を持つので、メモ取の格好で、時に巻子と筆を持ちます。
 
多聞天(意訳)の源流 ヴァイシュラヴァナという神はもとのインドにおいては「すべてのことを一切聞きもらすことのない知恵者」を意味する。もともとは古代インドの財宝の神クベーラとされ、財宝神であって、戦闘的イメージはほとんどなかった。そんな事で、ヴァイシュラヴァナは毘沙門天(音写)と呼ばれ、我が国に於ても財宝神として単独でも信仰を集めた。
 
また今では四天王は釈迦の脇侍 梵天帝釈天釈のその内でも下の位の帝釈天釈の配下とかなり方位御法神で、ガードマン的役目に思われがちですが、
我が国においても、日本書紀には、物部守屋蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、太子自ら 霊木と される白膠木(ぬりで 勝軍木)の木にて四天王像を彫り、頂髪につけて、「この戦いに勝たせていただけるなら、四天王を安置する寺院を建立しましょう」 と誓願され勝利を祈願したことが在ります。そして後に建てた寺は大阪の四天王寺です。
 
 
護国三部経の一つ『金光明経』の主な内容としては、の思想を基調とし、この経を広めまた読誦して正法をもって国王が施政すれば国は豊かになり、四天王をはじめ弁才天吉祥天堅牢地神などの諸天善神が国を守護するとされる。主な内容としては、の思想を基調とし、この経を広めまた読誦して正法をもって国王が施政すれば国は豊かになり、四天王をはじめ弁才天吉祥天堅牢地神などの諸天善神が国を守護するとされる。
日本へは、古くから金光明経(曇無讖訳)が伝わっていたようであるが、その後8世紀頃義浄訳の金光明最勝王経が伝わり、聖武天皇は金光明最勝王経を写経して全国に配布し、また、741年天平13年)には全国に国分寺を建立し、「金光明四天王護国之寺」と称された。
 
国分寺の最後の総仕上げ東大寺には西大門に3m×3mもの巨大な「金光明四天王護国之寺」扁額(重要文化財)が奈良国立博物館に残されて居ます。斯様に四天王は仏教では護国の仏神として大いに信奉されてきたのです。
 
 
 前述の飛鳥大仏・法隆寺金堂 釈迦三尊・救世観音・と続く 北朝北魏系の止利様式、と別系統で南朝の梁の影響の広隆寺中宮寺の半跏思唯像と百済観音と教わってきましたが、止利仏師の鞍部祖司馬達等は、『扶桑略記』は「継体天皇16年壬寅(522)2月に入朝した大唐漢人でありと、また、『元亨釈書』は司馬達等を中国は南朝の 梁 ( りょう ) の出身としているが、根拠は不明で、一般には司馬達等は百済からの渡来人と見なされている。彼が南梁出身ならば、侯景の乱など何らかの事情があって百済に亡命した鞍作職人だったのかもしれない。達等は来朝するとすぐに鞍部村主 ( ) (くらつくりのすぐり) を拝命している。『元亨釈書』は達等を南梁人としている。また彼は播磨の国での娘の嶋(善信尼)とその弟子2人を出家の出家の際には高麗からの渡来僧で還俗していた恵便に師事している。等々、漢人んなのか、南朝梁人なのか?はたまた百済系、高句麗系なのかとはっきりしない。
 
それどころか中国南北朝時代の 北魏内部で、鮮卑の習俗を守ろうとする勢力と、鮮卑の習俗を捨てて中国化を進めようとする勢力との争いが起きるようになる。中国化を進めようとする勢力は、主に漢民族出身者たちである。という説明に出会ったが、一方の梁などの南朝は漢族と見て良いのだろうか? 調べ始めるも中国の歴史は中華の漢民族と北方の騎馬民族鮮卑系との 大別で良いのだろうか? 混血が進んで本当に何民族なのかはっきりしない様でもある。 
 
故に、勉強すれば、飛鳥仏のルーツを北魏系だの、南朝の梁の影響だのは、解ってくると思って居たが、到底、私などの手には負えない事が解ってきました。
朝鮮半島三国時代と割り切れそうだが、北朝冊封南朝への冊封は単純で無く、複雑の様です。よってその方面の勉強はお手上げと諦めます。
 
今度は、手におえそうな、陳列の法隆寺金堂 広目天の事を書きます。この像の光背には〈山口大口費(あたい)〉の銘があり,《日本書紀》には650年に漢山口直大口(あやのやまぐちのあたいおおくち)が詔によって千仏像を刻したとあり,これは同一人とみられるところから,四天王像もほぼこの頃650年の頃の作と考えられている。
 
陳列の広目天像 その風貌は、其の後の四天王とは相違で、まず四天王の着衣は甲冑ですが、此処の四天王の着衣は甲冑なのでしょうが、後のそれとは相違で、甲冑と云うよりは中国の貴人の服装の様で、他には類例を見ません。武人姿の四天王はインドから中国に入った頃に定着したようで、この貴人型の四天王はインドの四天王の名残をとどめているのでしょうか?
 
服装に次いで姿勢ですが、前時代に引き続き、動きの無い直立不動の姿勢ですが、正面鑑賞から脱して来ていて、奥行きが出て来て、天衣は依然デフォルメながらものその進化形で、前後方向に捻られていて、正面観照から側面感の意識が現れてきています。
 
私には襟などは高めで、長い顔と杏仁の眼にアルカイックスマイルの口角 と幾分に止利派のそれに思えるのですが、細部の観察では、時代は下がり、飛鳥時代の末ごろと解説されます。止利様式の頭大短軀の不調和を脱して,人体比率に近づき,体軀にわずかな屈曲を試み,天衣も側面に向けて湾曲し単調を避けるなど,正面観照を維持しながらも側面観照への指向がみられる。
 
それらは、南朝の梁の影響が入ってきているとみるべきなのでしょうが、時代的にこなれてきた入るとみるべきかは難しい処です。 
 
また天王顔貌は眉尻が上がるも、その位置は目の位置より離れ高くで 個性的な顔貌を現してます。しかし杏仁形の眼に怒りは無く、静かです。アルカイックの微笑とあいまって。後代の四天王とは相違で静かさを感じます。
実に不思議な雰囲気です。
しかしそれはエイジングの醸し出す雰囲気なのかもしれません。 実はそのお顔の赤外線写真を観たのです。
 
 
それは見慣れたお顔とは相違で、はっきりと書かれた杏仁形の眼の輪郭線に、これまたはっきりと虹彩が描かれているではないですか!全然印象が違ってしまうものと驚きました!
 
 細部の鑑賞に移りますと、足下の邪気が個性的です。まず面貌もデファルメ的で恐ろしいと云うよりは、異様で不思議を感じます。もっと特徴的はその姿勢で、後世の踏みつけられている様とは相違で、四つ這い的に天王を載せている感じで、両手は何かを掴み持たされているようです。 背中には折りひだの付けられた鞍褥の様な布が掛けられ天王はそれに敷乗る。 また邪鬼の手足には革紐のようなが取付られているようで、乗馬の様に制御されて居る感が在ります。 これに類例は無く次の四天王古像は当麻寺金堂のそれであるが、これはすでに甲冑に邪鬼を踏まえた典型に成ってしまう。 そうして見居るとこの四天王は不思議です。
 
そして最後にもう一度、この広目天像は 止利仏師に次ぎ飛鳥仏師名「山口大口費」と刻銘されて居る貴重な像で、賞賛に値します。