孤思庵の仏像ブログ

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【続】日本国宝展鑑賞 出展 法隆寺金堂 広目天


【添付画像】 法隆寺金堂広目天像 ・ 広目天 邪鬼 ・ 別尊雑記 (四天王寺 四天王)


前の日記で東博で開催中の日本国宝展に出品の広目天法隆寺金堂四天王の内)について述べました。

法隆寺金堂での暗く遠い通常拝観と相異で間近に鑑賞出来、法隆寺金堂の四天王(以下 法隆寺像とします)に新たに興味を持ちました。  
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
法隆寺像の特質は古様、中でも足下の邪鬼です。その邪鬼は後代の四天王足下の邪鬼と相異で踏みつけられているというよりは四天王を載せています。 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
その様に気が付いて、次に古いこちらも直立感の強い当麻寺の金堂四天王(以下 当麻寺像と云う)の邪鬼を見ます、各像とも補修や後補部分が多く、4体の中で持国天像は比較的当初の部分を残す(多聞天像は全体が鎌倉時代の木彫に代わっている。) と聞きます。そこで持国天像の邪鬼を観ますと踏みつけられた感が在りますが、補作や台座の意入れ替えの可能性も多く、多聞天以外の総体を観ますと載せるものもあれば踏み据えられるも有の状態です。

法隆寺像・当麻寺像を観ますと雇用では邪鬼は各四天王を載せているのが古様と云えます。大智度論などに依りますと須弥山の山頂には 四天王の使える帝釈天の善見城が在り、その下界に天王宮が在り、四天王は其処に住みます。またその下界は夜叉宮で、夜叉=顔かたちが恐ろしく、性質が猛悪なインドの鬼神たちがそのの住人と思われます。 この様に夜叉は四天王の下に位すると云う意味で四天王を戴くとの意味で、その足下に居ると聞きました。

余談ですが四天王に似る薬師の眷属十二神将は夜叉の一類であり、夜叉宮の住人ですから それらは 決して邪鬼を踏むことは無いのです!

その足下の邪鬼が次第に変容して、裳とは下級神的な夜叉は、祟り為す神そして転じて、仏法を犯す邪神として懲らしめられ、苦悶の表情をみせる邪鬼と為ったのです。 
 ですので古代は夜叉的扱いで 7世紀頃からは邪鬼と為り懲らしめられ、苦悶の表情する様に成ったようです。

邪鬼の概要はそんな処で、改めて法隆寺像の夜叉を観ますと、その四つん這いの姿勢に、鞍敷を背に敷、抑制革紐に見えるものなどで。乗馬の様な制御受けて載せている姿勢と見える事は以前の日記にも書きました。 その夜叉の姿勢の中でも最も不可解に感じますは、両手の何かを捧げ持つ姿勢です。それは懲らしめで無しに友揃えです。

かねがね不思議で何を持っていたんだろうと思ってました。そして法隆寺の四天王の関係を本やネット等でで調べましたら、法隆寺像は何処からか写されて来た可能性ありと在りさらに調べますと。

平安時代保延6年(1140)に大江親通の『七大寺巡礼私記』には、「法隆寺のの四天王像は四天王寺の像を写したものである」と書かれているという。
 
②暦仁元年(1238)頃に法隆寺の僧・顕真(けんしん)が著した『古今目録抄』にも、四天王寺の四天王と法隆寺の四天王は同じである、と伝えているという。
 
平安時代の図像集『別尊雑記』は、四天王寺に安置されていた四天王の像容が白描写図で収められてる。

④その白描図は四天王像に似る

以上の事柄から法隆寺像の形は四天王寺像の類型と成ります。

その『別尊雑記』の四天王寺像白描図を見ますと、その邪鬼の左手は四天王の持つ戟の石突の所を持ち、右手は上の天王の剣を持ち、天王が剣を抜いて手にしている時はその鞘を持つ、まるで槍持ち、太刀持ちの様な侍従に思えます。
 















 

  
 
 
その事は前述の 「天王宮はその下界は夜叉宮の位置」と「主従」の【関係の形】と思います。

これで法隆寺像の邪鬼の両手の捧げ持つ手の形は解釈が付きます。(そして同じ姿勢をする邪鬼に、法隆寺像は四天王寺像の写しと解釈できますでしょう。) しかし現法隆寺像は、上に載る天王像の割りに 邪鬼が大きすぎて、その結果 その邪鬼の手の位置では『別尊雑記』の四天王寺像の白描図のように 天王の持つ戟の石突を持つ事は出来ないのです。
 
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四天王寺像を写しこしらえる時に、邪気の大きさを写し損なったか、又は現法隆寺像の天王像と邪鬼はもともとの一具では無しに 後から流用で合わされたとみるべきでしょう。

最後のこの「戟」を持てない事はスッキリしませんが、長い間、不思議に思い続けてました、邪気の何か物を支え持つような手は、「槍持ち・太刀持ち」が解り 腑に落ちました。

そしてこの「写し」と云う事は、その時に擬古作をも行っており、この法隆寺像の直立姿勢などの形式的には古く、一方 天衣先端部の前後への動きの正面鑑賞性からの脱却などから様式的には形式の時代に合わずの後代様を示しています、それが擬古作の写し説の根拠に成ります。
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また、小札の模様のある鎧の法隆寺像から当麻寺の四天王の革製の鎧への急変化などに 法隆寺像の、その次に古い当麻寺像との急変のギャップにも 納得の理由付けに成ります。
 
前に掲載した『別尊雑記』白描図の毘沙門亀甲などの金鎖甲や小札風の 甲冑(鎧)も、天平時代以降の革製の甲冑(鎧)よりは、遥かに法隆寺像の甲冑の文様に近いかと思えませんでしょうか?
また法隆寺像と『別尊雑記』白描図の双方の大袖の上着の方の袖にはプリーツ風に整然と畳まれた袖には、双方に似た感があります。

法隆寺像の小札風の 甲冑
  
 
 
 
   我国の古代の甲冑      西域風の甲冑         白描図に見えた毘沙門亀甲                                         
         
                     

そしてそれらの論説は、古田史学会報 2002年 6月 1日 No.50 「四天王寺」 にての 水野孝夫氏の研究がありまして、「四天王寺」ww.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou50/mizuno50.html を当たって頂ければ整然良くと書かれています。宜しければご参照ください。

これは学会報に 2002年の掲載ですので、十年ちょっと前の発表で、非常に面白い論説乍らこの度まで知らずに来ました。この説が今まで、私たちの耳や目に入ってきていなかったことに驚いています。 仏像って面白いですね・・・!


四天王寺の建立は四天王寺(建立は593年頃)、でその後50数年後で


現在残された最古の四天王の法隆寺像(製作年650年頃)、その次に古い四天王像は 当麻寺の四天王像で、製作年は688年頃です。
 
 
当麻寺の四天王 
                                

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参考用の関連年表を挙げておきますと、




 

【約57年後】







【約38年後】






…と成りますか?