孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

【下】6月の「仏像愛好の集in東博」 報告

 
前回に引き続き6月度「仏像愛好の集in東博」の報告です。
集の午前中は藝大博物館の「法隆寺展」鑑賞でした。
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その後の勉強会の中で「法隆寺展」鑑賞の素晴らしく感じた事はとお尋ねするも、何も意見が出ませんでした、とても残念です。

見所のディスカッションを望んだのですが・・・残念です。ここでは一方的な私見と成ってしまいますが、やむなくここで、法隆寺展の見所を述べます。
 
団体鑑賞に先立ち、少しでも効率的に鑑賞して頂こうと考え、その準備として、仏像友達の内でも長い付き合いの連中と連れだって、5月の同展観覧に続き、前日6日にも「法隆寺展」を見てました。

前日にお付き合いいただけた彼女とは、もうお付き合いは7年ほどでしょうか、ある仏像の会が始まりでした。その中で仏像の勉強をしたいとの同志で集い 勉強会を始めて5年程に成るのでしょうか・・・彼女達、それぞれ個別にも勉強されてる方たちですが、定例に月一に集い、仏像の同じ勉強をして来てました。

おこがましいのですが、最初は私が1日の長がありまして、先達的でありましたが、得手分野は違うものの、基礎的教養課程の部分ではでは皆が団栗の背比べ的に成ったこの頃です。仏像への興味方向もそう離れてなく。同じ様な感想を持てるになってきてます。

昔は、私が解説するが多かったのですが、この頃は対等でして、教えられる事が多く成ってます。

独りで静かにが、鑑賞の本道でしょうが、、多くの眼で鑑賞して見所を見落さないも、楽しい鑑賞と思ってます。

そんな風で、今回も複数の眼でみて、発見して、皆が面白いと思った見所をご紹介します。


1.◎菩薩立像 の僧祇支(下着)が後姿が逆の着方と成っていいて、表現の破綻がある像です。飛鳥仏の後姿への無頓着が覗えます。


5.持国天立像 6.多聞天立像 小像と云えど飛鳥の四天王は貴重です。同寺の金堂の四天王と似ていますね。
両像ともの面部が鎌倉期に彫り直されている、観れば手先も後補と見える。この頃は何処が後補か解るように成って来て、クイズの間違い探し的な、競争をしてます。
現前の仏像は吟味して観るべきです。何処が後補かを知って、その修正を考えて引き算などをして、制作当初を偲んだりの質の高い鑑賞をしたいものと思ってます。
 
戒壇院の四天王の手先が美しいと褒めないでください。両手首から先は明治時代の後補です。その事を書籍でヒットは至難です。ですので仏友を利用して下さい。
 
 
 
 
10.⦿毘沙門天立像11.⦿吉相天立像 普段の安置場所は周囲が格上仏像群ですので、影が薄く、気を留めていなかったですが、流石国宝、こうして取り上げてみると平安の写実の秀作と思い知りました。残る彩色の見事さも特筆に値します。彩色の赤はまるで時間の恵果を感じさせない、まるで蛍光塗料の様です。 これは下地に白を塗って、その上に赤を重ねる。そうすると冴えた色になるのです。 逆に下に黒を塗り彩色を重ねますと暗い色に成ります。 今でも 塗装や日本画の技法と教わりました。
 
 
 
吉相天の腰上の衣のたるみや、脇の衣皺の写実だけでなしに、デフォルメもある造形の妙は見事です。 裏面の腰紐の下、大袖衣の手繰った様子まで感心しました。
 
また「武装天部」、と「貴顕天部」の違で眉形は相違ですが、その下の眼を観ますと共通性が読めます、同一仏師の作と思いました。そう言えば、毘沙門天は同時代(平安末)には珍しく怖い顔で無いですね!吉相天との一具の計算でしょう。好感を持ちます。
 
この両像の台座の不釣り合い、11.の台座の裏側に残る彩色が本像の衣裳の彩色と一致により、当初台座と分かる。一方の10.の台座は古いが不釣り合いの為に流用と観ました。おそらく禽獣座の台座と思われます。
 
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12.◎阿弥陀如来坐像(三経院)13.薬師如来坐像の評価は、同時代、同じ大きさでありながらそのできばえの差を異口同音でした。13.の方の側面感は異様に受け入れがたく思いました。また似たような蓮華座に12.の当初作と、13.の台座の出来とエイジングの悪さに後補を懸念しました。
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12.の脇に展示の1-1◎広目天(三経院)と1-2◎多門天(三経院)に大絶賛でした。まず両像の対比です、両像とも左手を挙げ、右手を下げていてシンメトリーにはなって居ない。しかしこの両像には時間的対比があります。右足と邪鬼です。広目天の右足は邪鬼の頭に接していません。踏み付けの前なのです、多聞天の左足は邪鬼の頭をこれでもかと踏みつけており、邪鬼は圧力を受けぺしゃんこの姿勢です。一方の広目天の邪鬼はまだゆとりがある表情で、姿勢も左足では踏まれるもののそうきつそうでないです。一方の多聞天の方の邪鬼は髪の毛を床に流し、手足が並行でして、実に面白い造形です。

踏みつける直前の一本足の造形は珍しいのではと思いす。時間差表現に感服です。

精緻な甲冑の彫口も見事でした。クリックすると新しいウィンドウで開きます
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同じ時期か少し前の作の2-1持国天と、2-2の増長天の方はシンメトリー性は揃って居るも、邪気の姿勢までも相似で今日がありません。 でこちらは重文でないのには納得です。
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この二組の違いを認識されないは残念ですよ!

62..の鈴木空如の金堂壁画模写 稀代の損失で模写等に頼るしかないが法隆寺壁画の素晴らしさを感じます。まず認識は型紙を用い手描いた事がシンメトリーの反対側の裏返しの一致に明らかと成る。型紙使用それにより歪の無い、鉄線描と賞される輪郭線の可能がうなずけます。

第11号小壁 普賢菩薩像 でしたか騎象の図です。まず気が付いたのは、この図では天蓋の房が風になびくが描かれている。 その左より右への風は その下の菩薩の衣裳や天衣にも同じ方向に吹いています。
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 作者が狙った事は認めて上げたい、いづれの美術鑑賞でもそうである事は今更ですね。
良く見ると象さんの牙が伸びて、宝相華的な花に成ってました、皆さん気付きましたか? 他の壁画では、菩薩の裙の柄に市松模様を発見できました。これまで仏像の衣に観た記憶が無い、市松模様の名の由来から当時には、その様に呼ぶ筈はなく、以前の呼び方が気になりました。 石畳模様との良い方がいつの時代か在ったそうな・・・
他にも衣の模様の細密も見所と思います。 
 

第二章のコーナーでは、 誰もが感じた事でしょうが、55.高村光雲の定胤和上像に和上の生けるがごとしを感じ 光雲の造形力と定胤和上の精神性を感じました。
 
唯識に興味を持ち始めました処ですので、機会に唯識の大家とだけの知識であった佐伯 定胤を勉強しました。
 
法相宗管長。のちに聖徳宗を興す。昭和24年の金堂炎上の時代を含み、法隆寺103世管主(住職)を40年務める。大僧正。
 
明治の廃仏毀釈で衰えていた法相、その教えの中心 唯識を再興した学僧。法隆寺勧学院でや東大でも唯識の講義専門の僧侶向けの講義は難解さを極めたが、聴聞する者が多かった。一般信徒向けの夏百日の講義は非常に噛み砕いた平易な語り口であったという。
師は戒律を保ち、肉食をとらず、生涯独身を貫いた。
 
金堂炎上(Adobe PDF) - htmlで見る
mitsuo-cl.com/mitsuo/colum/pdf/pdf06.pdf
 
を読みますと、佐伯定胤は大化の改新の佐伯連子麻呂の末裔で、彼の代まで、奈良県法隆寺村(現斑鳩町)にて、其の旧家が同じ土地と同じ姓で続いていた事にまず驚きました。
その他、同ウェブには明治の廃仏毀釈で困窮の法隆寺フェノロサの救世観音 開扉、金堂炎上のど事も載ってます。
 
師の事を知って、この像を観れば、ひとしお(漢字では一入と書くのですね)の鑑賞と成るでしょう。
 
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複数の眼が見所と見た所をご紹介しました。如何でしょう? 気付いた見所を言い合う、私達はそんな鑑賞が実に楽しいのです。 同じ様に面白いとお考えの方は居ませんか? 居ればお仲間です。 

但し、十分な小声で、周りの妨げにならないように十分に配慮してを忘れずに・・・・
 
 
 
【付録】それがどうしたと云われそうで 、どれほどの意味があるかは問題ですが、 ケアフルに見るの付録を・・・・・
出品番号15.は良く見る聖徳太子二歳像ですが、発見しました足元です。ちょっと異常でしょう!? 一拍於いて理解が出来ました。座布団の上ですので、重みでそれが沈んでいるのですね。実際は座布団の厚みを超え畳坐までめり込んでいる様でした。
 
作者が意図したは汲み取ってあげたいです。鑑賞は「眺めるのでなしにケアフルに・・・」は如何でしょうか?