【上】6月の「仏像愛好の集in東博」 報告
6月7日(土)の「仏像愛好の集in東博」は定例の第一土曜の7日(土)に藝大美術館「法隆寺展」の鑑賞の方にはanさん、noさん、yaさん、maさん、koさん、と孤思庵の6名が集われました(尚、同展の見所紹介の準備として、前日6日には知己と先月のに次いでの2度目の下見観覧を致しています。)
午後の東博平成館のラウンジでの勉強会には、上記の面々に加えて、aratamiさん、Mさん、kanai さん、、ootakeさん、yamaさん、noguさんとbuさんも加わり、(1名早退)で雨にもかかわらず12名もの参集を頂きました。
藝大美術館「法隆寺展」の鑑賞では、最近は「博物館での説明お断り」のマナーが強く言われているので、小さい声でするを十分に気遣いまして、前日の知己仲間の鑑賞で発見の見所=見るべきところ。見る価値のあるところを一緒に廻られた数名の方にはご紹介致しました。私の解説如何でしたでしょうか?のですが・・・見所の指摘の遣り取りが面白いです。この見所は後でご披露いたします。
午後の勉強会はanさんの発表
②持論「中野玄三論」A奈良後期の薬師悔過、B平安初期の薬師悔過、C八・九世紀の七仏薬師、D遣唐使船の航海の安全を祈願する----七薬師像 について約10000字の資料配布 そして解説講義が為されました。
<勝尾寺薬師お三尊の検討>---(霊威の薬師) の約8000字を添付で、
A総論
(1)固有信仰の造形
(2)神仏習合の家庭
(4)多度神社 多度菩薩・小堂に神像--疑似本地仏--神御像
(5)神像の発声
(6)神像の出現は9世紀半ば
(1)研究家の見方--尋常でない霊異の相 ・ 如来、母雑にあるまじき怒りの相好
(2)連眉式
(6)「くすし」と「やくし」--- 融合しやすい側面
の講義をされました。そして、 再度--- 奈良後期の薬師悔過、続いて---平安初期の薬師悔過----
★尚、中野玄三氏は、
中野玄三氏の事はkanagawabunkaken.blog.fc2.com/blog-entry-52.html 神奈川仏教文化研究所ホームページのリンクブログ「観仏日々帖」の2014/3/21の新刊・旧刊案内~「仏教美術を学ぶ」中野玄三・加須屋誠著 にかなり詳しくな中野玄三郎が載っています。
またそこに載っていたんですが、神護寺薬師論争の相手は、私たちの愛読書 中公新書「日本の仏像 飛鳥・白鳳・天平の祈りと美」の著者 長岡龍三郎だったんですね。(その論争をネット検索しましたがヒットしませんでした)
発表の二人目はMさん(murooka さん)が約6000字の資料を配布され発表されました。
「運慶様式の母体としての奈良仏師~康助、康慶から運慶へ」を中心に講義されました。
①平安末期における奈良仏師の成立~奈良市北部から南山城地区の遺作を中心に~「康助から康慶、そして運慶にへ」
Ⅰ.奈良仏師の成立~奈良市北部から南山城にかけての地域の重要性
藤末鎌初の仏教改革を担った地域
Ⅱ.平安末期(12C頃)の玉眼象嵌入の像
年代決定
推定
Ⅲ.12世紀後半の奈良仏師作と見られる大日3体
以上の遺作を列挙して、奈良仏師・康助から慶派・康慶、運慶の継承を仏師系図も添付され解説された。
そして遺作に時代と作者の問題の重要の自論をを力説された。
【附】
続いて仏像の用材について、月間文化財(平成18年5月号)最新の彫刻史研究 の記事を紹介され Aさんの持論の小原次郎の説はもはや古いと警鐘を鳴らされた、用材に関して、孤思庵もかねてより同様の意見を持ってました。
続いて仏像の用材について、月間文化財(平成18年5月号)最新の彫刻史研究 の記事を紹介され Aさんの持論の小原次郎の説はもはや古いと警鐘を鳴らされた、用材に関して、孤思庵もかねてより同様の意見を持ってました。
★尚、仏像の用材については
kanagawabunkaken.blog.fc2.com/blog-entry-42.html .神奈川仏教文化研究所ホームページのリンクブログ「観仏日々帖」2013年11月15日に、新刊・旧刊案内~「木彫仏の実像と変遷」本間紀夫【その1】
kanagawabunkaken.blog.fc2.com/blog-entry-43.html 神奈川仏教文化研究所ホームページのリンクブログ「観仏日々帖」2013年11月30日に、新刊・旧刊案内~「木彫仏の実像と変遷」本間紀夫【その2】
の両方に渡り、にかなり詳しく紹介されて居ます。仏師のカヤの香りのコメントなどは、我が意を得たりの感です。
博閉館時間までの長勉強会でしたが、3番目の「ビックリ!最近知った事」(孤思庵)の発表とディスカッションは時間切れと成り、次回に持越しと成りました。
発表頂いた御両所にはご苦労様でした。準備段階も大変だったと存じます。ありがとうございました。皆さんには私同様、少し難しい処もあったかと存じますが、完全理解は無理でも知って勉強に為った事は多いかと存じます。入ってきた知識で十分です。焦らずにのんびりと積み上げて行きましょう。
上から目線の的な申しようで失礼しました。 何時でも、疑問や分からない事があったら 連絡ください。即答できない事は調べてみます。また先達のメンバーにも教えてもらいましょう。それが集いのメリットと思ってます。
★ここでの勉強会は入門・初級卒業の中級をターゲットに考えてます。概ね構成員もそのように成っています。で、高度の難しい受講は正直きついです。聴衆が在っての発表だと存じます。咀嚼し、解り易い ご解説をおつとめて頂ければ幸いです。
研究の講義では無く、趣味の勉強会と考えます。ディスカッション的な進行は如何でしょう、遣り辛いでしょうが、途中での質問可の方向も一考頂きたく存じます。
ご参集の皆さんには、東博閉館時間までの長丁場お付き合い頂き有難うございました。そしてアフターは、恒例と成りました懇親会、今回は大勢でしたので、初めての「テング酒場上野店」にての10名参加で2時間ほど懇親を致しまして、お話が弾んでいたようですね。割り勘で 一人2,300円でした。
次の日記は、順序が逆と成りますが、午前中の藝大美術館「法隆寺展」の鑑賞の方を述べる事にしまして、今回は此処までとします。
★ 他のSNSの投稿の方にannyakenさんよりコメントを頂きました。
小生からのリコメントと共に、此処に追加掲載いたします。
1) anさん
| 2014年06月11日 |
|
2) 孤思庵 | 2014年06月11日 |
anさん、
軽率に分を書きました、御気分を損なわれた由お詫び申し上げます。 貴文末の、私も栢を否定するものではありませんの後の平安初期は有名な仏像(代用壇像の一木造り)は栢で造られたものが多と云いたいだけです。 その理由として、現在の定説的の 中国では、唐時代7世紀になると、玄奘がインドに渡り、白檀像をもたらしたのをきっかけに、インド風の小さな檀像が流行する。 しかしながら、中国・日本では白檀が自生しない為、その代わりに「栢木」という材を用いることができるという考えが出され(十一面神呪心経義疏)、代用檀像への道が開かれた。 日本では、奈良時代に唐文化が半島を経ずに直接移入され、わが国では「栢木」を「カヤ・榧」と認定して、カヤによる代用檀像が奈良時代から平安初期に流行することになるのである。 それらの仏像が永らく檜と誤認されていたと云いたいだけです。 捕捉に榧材選択の理由として、本間紀夫氏(仏像彫刻研究科)は榧材は檜ほど縦にさけにくく、適度な弾力もあり、彫刻時さけたりかけたりしにくく、ボリュウム・存在感などを表現し易が、理由で(十一面神呪心経義疏を理由とせずに)、彫技の用材としての適性面より、榧が一木造りには向いていたから、選択されたとしてます。 現代のある彫刻家は、榧の香りは、甘いような良い香りと言ってます。ですので、壇像の代用として。檜より榧が意識的に選択されたと考えたいです。 何れの論でも檜より榧が選択されたと云えないでしょうか? 貴文の最後の「当たり前のことながら時代別の用材を考えねばならないと思います」は自分も認識してます。 平安中期の寄木造りが盛んに成れば、木寄せとい事情から、平な面を容易に得られる、(同理由で古代より建築材には使用されていた)の檜が、今度は仏像の用材として用いられるように成って来たと存じてます。 因みに素木では無い、木心乾漆や、漆箔を前提とした造像では、単に便利な用材として檜が選択され、木の霊性や神木で仏像を造りたいとの心情からは、(森林を形成する檜とは相違で、)得難い榧が選択されたは山岳信仰の精神ではないでしょうか? 平安中期以降の仏像に檜が多い事は前述の事から必然で、仏像全体の数としてとして多いは平安以降の仏像、その事から檜のパーセントが圧倒的に多いは必然です。 今、そのような事を論じるつもりは在りません! 私も、当然に時代別の用材を考えねばならないと考えてます。貴文章の「時代別の用材を考よ」は、当然で・・・先 その立場で、平安時代前期の代用壇像、素木の一木造り像には用材として榧が多く用いられたと認識したいと申し上げているのです。 ここまで異議は無いものと存じます。論点は小原氏の論でして、それが今の定説に値するか否かなのです。 それまで問題とされて居なかった木彫仏像の用材樹種研究の切り口を開かれた小原氏の業績は認めますが、その後の文化財化学・森林学の藤井智之者らの研究・新説(かつて講演を聞きました)が出て来て、本間紀夫氏(仏像彫刻研究科)らも同様的と存じます、その新説の方も。立派な研究と思います。を定説的と認めるか否かなのです。 貴文章の「そのような調査はできるとは思えませんし、何十体かの調査では小原氏の説を補完することに留まると考えます。」は疑問です。 仏像は何の木?の調査は、切片をつくって顕微鏡で観察するに 変わって、電子顕微鏡を 使って植物の細胞壁の主成分であるセルロースの可視化は画期的でしたが、それも、もはや過去と成り ... 現在の調査方法は 、X線マイクロCTだそうで、病院のCTと同じ要領での非破壊検査と聴いた事があります。 最新情報には疎いので、その辺はmorooka さんが詳しかと存じますので、きっとご意見いただけると存じます。 個人的に自分の思う論説を支持は当然あって良いのですが、ここ趣味の同志の集の此処では、ディスカッション的に多くの意見をを出し合い、定説的な一般論を探ってゆきたく思います。多くのご意見は皆さんの興味だと思います。 何時もいろいろテーゼを頂き感謝してます。 |
3 anさん
| 2014年06月11日 |
「anさんのフルHN」の 説に警鐘がなされましたと書かれれば、趣味人サイトには会のメンバー以外の数少ない読者もいますので、これまで書いてきたことがいい加減と思われないためには、自分の意見を述べざろう得ないので、思うところを書かざろう得なかったのです。失礼しましたがご理解ください。趣味人サイトでは、暗夜軒は存在する実名ですので、これからはAとか某氏とか書いてほしいものです。ご自身のサイトでは趣味人以外の世界ですので、何を書かれるのも自由です。
学説はすべて新しく置き換わって進歩していくものです。小原氏の調べた700体の中に神護寺像があり、檜となっていましたが、今の調査では栢だそうですし、有名寺院のところで栢になっている像が多いそうですし、最近の測定方法が変わってきていることも知りませんでした。 小原氏は久野健氏の研究グループの力を借りて調査を行い、修理個所の木片ではダメなことも知っていましたが、間違いはあったのでしょう。 小原氏は仏教美術ではなく、木材研究の科学者ですから、時代別に分けて発表するのは難しかったのでしょう。なにより用材についての草分けの人ですので、その功績は大きいですが不足していた点もあろうかと思います。それを後の研究が補うというでしょう。 檜は縦に割りやすいので、割り矧ぎや寄木には向いていた木ということも感じています。 いろいろ議論が出るとそれで調べるので私としても勉強になっていますが、それにより進歩があると思います。 |
4 「孤思庵」 | 2014年06月12日 |
anさん、 私のブログからの、本SNSへの転載に際し、 不行き届きがありまして失礼いたしました。反省で、自分の考え(何処でもオープンの過信etc)の尺度での(お名前等の)扱いは済みませんでした。今後は留意します。 「集」は独学と相違で、自分の考の発言に直ぐ反応が出る。そこが妙味と存じます。ご賛同の上 活発なご意見にて今後も宜しくお教え願います。 |