孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

Takさん からの お便り

「仏像愛好の集」・「仏像の基礎勉強会」のメンバーのTakさんから お便りが届きました。ご紹介します。

以下、Takさんから お便り文面です。

気候の乱高下には迷惑もので、生活や健康にまで影響します。先日の「基礎勉強会」はお疲れ様でした。思うに毎月2回の火曜、土曜の東博行きは、割りと天気に恵まれていることが多く、出掛けるのも助かっています。誰かさんの行ないがよろしいからでしょうか?
 
 
1. 4月の京都・奈良拝観企画について
 
本日(219日)、東大寺・上司(かみつかさ)永照師(教学執事・教学部長)から直接電話を頂きました。内容は、昨年暮れ以来、当方から依頼していた拝観依頼内容を確認し、師から各堂衆にも指示連絡をした旨のご返事でした。参加予定のメンバーの方々には、先日ご連絡した日程表で、拝観場所と拝観時間に変更はありませんので、ご承知ください。
詳細は、修二会の終わった後、彼岸の法要が終わる頃に、当方と最終確認の連絡を行ないたい、とのことでした。本日連絡してこられたのは、上司師が「修二会」のことがあるため、連絡が出来なくなるからでした。毎年行われる東大寺・修二会(二月堂)は、今回で1264回目となり、二月堂の本尊・十一面観音菩薩に人々に代わって罪の許しを乞い(悔過)、天下泰平や五穀豊穣を祈る法会ですが、大仏開眼の年(752年)に始まり、今までに幾多の災難(籐末鎌初の南都焼き討ち、太平洋戦争など)に逢うも、中断することなく続けられてきた行事です。1か月に及ぶ修二会の本格行事の開始が、明日(220日)の戒壇院別火坊で開始される「試別火」入りです。そこに練行衆(こもりの僧)として上司永照師も参加した経験があることから、教学部長として、今回の練行衆の指導にも当たられるそうです。
 
 
2「京都創生プロジェクト」シンポジウム・連続講座in東京について
 
217日(水)に日本橋・野村コンファレンスプラザ日本橋大ホールで開催された行事です。主催は京都市で、2部構成となっており、第1部は、トークイベント、ディスカッションで「京町家の文化と継承」をテーマに、井筒八ッ橋菓子店社長ほか45名のパネラーによる発表とディスカッションでした。あまり私にとって新鮮な話題が無かったようで、大半の話しが頭の中から消えてしまったようです。第2部は、「文化首都・京都の魅力」と題して、佐々木・京都国立博物館館長、女優・真野響子女史、籔内・東京芸大教授などによるシンポジウムでした。最近の文化庁移転構想などホットな話題から始まりましたが、あまり期待していなかった私でしたが、パネラーの熱意のある勢いのある語り口に、つい身を乗り出してしまいました。文明と文化の違いから、伝統と革新、文化財の保存修復維持、景観問題や無形文化の発信など、多くの問題点を各方面から分かり易い語り口で紹介され、課題を浮き彫りにしていました。特に、真野響子女史の迫力のある弁舌逞しい主張は、眼から鱗でした。終わった後のスッキリ感がよかったです。
 
 
3長谷寺の名宝と十一面観音の信仰」展について
 
211日(水)に、大阪・天王寺あべのハルカス美術館で開催(26日~327日まで)されている「長谷寺の名宝と十一面観音の信仰」展に、行って来ました。長谷寺は、これまで幾度となく訪れた初瀬の山間地の名刹ですが、思い返すとあまり真剣にお寺について考えてきたことがありませんでした。そこで、今回の展覧会を好機に少し勉強しようかと、殊勝な気持ちで出掛けました。新幹線の車窓からは富士山や南アルプスの赤石山系までが青い天空にくっきりと白嶺が鮮やかでした。同じようにハルカスビル展望階からも生駒からグルリと大阪全周が眺められました。
10時からの開場に合わせて入場しましたが、入場者は数えるほどで、しばらくたっても閑散としていました。お目当ての「難陀龍王立像」、「雨宝童子立像」の2體は、展示順路の少し奥まった場所でしたが、あまりなじみのない彫像ということか、足を止める入者が少ないような気がしました。両像とも厨子が無い状態で展示されており、その近くには「長谷寺式十一面観音立像」が10體程、ズラリと展示されていました。
両立像が十一面観音像の脇侍像となったのは、平安時代後期から鎌倉時代前期頃と考えられているそうですが、現在の「難陀龍王像」は、胎内墨書銘から南都大仏師舜慶(しゅんけい)により正和五年(1316年)の造像とあります。また現在の「雨宝童子像」は、胎内墨書銘や納入木札墨書銘から、15378年の大仏師運宋(うんそう)の造像という。「難陀龍王立像」は、本来は本尊向かって右側に安置されている厨子入りの脇侍像の一尊です。本尊の立つ岩座や寺の山内を守護する「八大龍王」の一尊とされ、特に第一番に数えられる一尊で、真言密教では、雨乞いの法会「請雨経法」(しょううきょうほう)の時に拝まれる善き龍神とされています。また千手観音の眷属の二十八部衆の一尊でもあるそうです。肩口から頭上に掛けて龍を載せる姿の、重厚な立像です。龍は、竜王の右肩口と右胸前に後足の爪を立てて身体を支え、上半身を龍王の頭の上まで持ち上げています。中国式の正面に王文字を表わした唐冠を被り、彩色紋様の明らかな厚地の礼服を纏った質量豊かな姿は、迫力があります。両手で捧げ持つ皿状の板に乗せられているものが動物(馬、鹿か?)様に観られるが不明です。胎内納入品も同時に隣りに展示されていました。長谷寺は、藤原氏の厚い庇護のもとに、東大寺末寺から興福寺末寺に関係となったせいか、龍王像は「春日大明神」とされています。
ちなみに「雨宝童子像」は、天照大神が伊勢に鎮座する時に寄った地「隠口の初瀬」(こもりくのはつせ)である長谷寺にちなみ、伊勢信仰の「天照大神」として、日向に下生(げしょう)した姿といわれ、大日如来の化現した姿ともいわれています。「雨宝童子像」は、「八大童子」の一尊で、竜王像と対になるような鮮やかな彩色文様の厚地の礼服と、左手に宝珠と右手に宝棒を持った、簡素な頭冠を載せた美豆良(みずら)に結った頭髪と目鼻立ちのくっきりした造作の顔立ちも、しっかりした体躯の像態で、破綻の無いバランスの出来が良い造像と観られます。両像とも2メートル弱の大きさで、しっかりした像態で、質量感のある立派な像と感じられました。しかし両像とも両肩部分から縦の木組みが、雑な組み方で、明らかに今にも腕が外れそうな状態であったのが残念でした。
 
推古9年(601年)の頃、大水で琵琶湖に流れ出た大木が、いろいろと巡り巡って養老4年(720年)に、沙弥徳道によって長谷寺の峰に移され、この大木から十一面観音像が造られ、神亀4年(727年)に完成しました。これが、長谷寺の十一面観音像の由来だそうです。長谷寺は、十一面観音の霊場として信仰を集めてきましたが、現在の像は8代目だそうで、全国の長谷寺の多くは、大和の長谷寺の十一面観音の分身を祀る寺であることになるそうです。
長谷寺の十一面観音像は、他の像に無い特徴があり、「長谷寺式十一面観音立像」として区別されています。 1.方形台座に立つ。 2.右手に錫杖を持つ。 3.両脇侍像として難陀龍王像と雨宝童子像を従える。が3大特徴です。    
方形台座は、徳道が夢のお告げにより、8尺四方の平たい石を堀り出して像を安置したという。同寺の本尊も同じように古来からの磐座信仰によるものと考えられます。錫杖を持つ形式は、垂下した右手は手首に数珠を掛け、手の平に錫杖を軽く添え支えている形となっています。錫杖を握っている地蔵菩薩とははっきり異なっています。十一面観音像と地蔵菩薩像とが合体し、両尊の徳を兼ね備える、という考えもあるそうだが、ハッキリしたことは分らず、保延年間(113541年)頃の「十巻抄」(図像抄)に記されていることから、長谷寺本尊4代目からのことと考えられているそうです。3.の三尊形式は、必ずしも条件ではないようです。単独像での造立も多いようです。展示されていた10體程の長谷寺式十一面観音像は、平安時代後期から江戸時代までで、長谷寺山内安置像から地方像まで、多様な像が並び、それぞれに風趣を味わうような像態になっていました。
 
他には、「如意輪観音半跏像」、「如意輪観音坐像」、「不動明王坐像」、「長谷寺縁起」、「春日浄土曼荼羅」、「両界曼荼羅版木」、「両界種子曼荼羅」、「十巻抄」(巻六)、「十二天像」(うち4幅)、「真言法具」、「蒔絵経箱」、「銅九頭龍九鈷鈴」などが展示されていました。
35日(土)の集いの会には、展覧会図録を持参しますので、出展品など参考にしてください。
 
 
明日(220日・土)は、日比谷公会堂で「菜の花忌」シンポジウム(司馬作品を語りあおう)です。年1回の開催で、昨年までは大阪、東京開催ともに晴天が続いていたのですが、明日はちょっと天気が心配です。退場時に配られる「菜の花」の一束を大事に持ち帰り、仏壇に供花したいと思います。
 
以上、Takさんから お便り文面でした
上記の事、35日(土)の「仏像愛好の集in東博」にて 発表をお願います。