孤思庵の仏像ブログ

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Yahoo知恵袋 に「漢訳仏典に付いて質問させてください」の質問発見

少し前の記事  2016/2/20(土) 午後 0:02で≪paamsukuulaの「糞掃衣」への翻訳形態は 「意訳漢訳」?「音写翻訳」?、≫を書きました。

サンスクリットも漢訳の知識もないのに おこがましい事をしました。されどインド仏典の漢訳は 我が国の仏教に於いても、重要なファクターだと理解できます。
それで、ネット検索をしてましたら、興味深い記事に 当たりましたので、ご紹介します。

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漢訳仏典について質問させて下さい

2011/3/610:40:53
漢訳仏典について質問させて下さい
漢訳仏典の多くの部分にサンスクリット語の音訳(音写)が見られます。ということは
漢訳仏典と言うのは“典籍”として成立はしないのではないか、ということです。例えば、般若心経の一節の“般若波羅蜜多”はサンスクリット文の音訳と聞きました。この文について日本のお坊さんは本来の意味をどんな方法で理解したのでしょうか。漢文が得意のお坊さんであってもそれが表意文字としての漢字で書かれている場合は理解できても、表音文字としての漢字(あて字)で書かれている場合は理解不能となるはずであるからです。また、そのお坊さんが例えサンスクリット語を理解できていたとしても、“般若波羅蜜多”の「中国式発音とこの部分のサンスクリット文の発音が多少似てはいるものの、それでもかなり違う」という現実においては中国式発音を以てそれに対応するサンスクリット文へ到達することは実際困難と思われます。ということは、どんな賢い碩学のお坊さんでも“解説本”もしくは“師匠”なしでは仏典を理解することは出来なかったはずであるということになります。つまり、漢訳仏典は極めて不完全な典籍であると見なさざるを得ませんが如何でしょうか。もっとも漢訳仏典はただ呪文のように唱えることに主眼を置くべきと主張されるむきもありますが、その場合漢訳仏典は“典籍”として扱ってはならないということになります。こう考えると類まれなる偉業を成し遂げたと言われる三蔵法師は果たしてそれだけの評価を得るだけの偉人であったのかと考えてしまうのですが如何でしょうか。“漢訳仏典”は仏典ではない、とさえ言いたくなるのですが如何でしょうか。

誰か教えてくなんしょ!(“くなんしょ”とは福島弁で“下さい”という意味です)
11/3/6 くなんしょ
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ベストアンサーに選ばれた回答

djbc8370さん
編集あり2011/3/706:57:34
漢訳経典とサンスクリット経典についての、すばらしいご指摘に、感心しました。
サンスクリットを学ばれていないご様子ですが、梵語(サンスクリット)を学ばれずに、このようなことにお気づきになるなんて、すごい直感力だなと、本当に感心してしまいました。

般若波羅蜜多は、おっしゃるように、サンスクリットの、プラジーニャー・パーラミターの音訳です。
インドから持ち帰った経典を中国で漢訳された時代、玄奘三蔵のいた前後ですが、漢訳にあたっていた高僧には、善無畏三蔵や不空三蔵ら、密教の高僧が多かったですね。
インドから来た密教の僧侶が、いちばんサンスクリットに精通していたからでしょう。
密教の僧侶が、経典の中でサンスクリットのまま、漢訳せずに残している語句は、マントラ(密教でいう真言)に当たる部分です。

般若波羅蜜多も、般若心経のサンスクリット原典を読むと、「マントラであるところの般若波羅蜜多」となっていて、漢訳ではマントラを「呪または神呪」と訳しています。

地の文とは別に、般若心経や法華経などのマントラ(真言)の部分については、日本で随一梵語に通じていた空海が解説をほどこしています。
それによると、たとえば、paramita(パーラミター)などは、pa(パ)・ra(ラ)・mi(ミ)・ta(タ)に分けられ、それぞれに膨大な意味が含まれているといいます。
また、それぞれの音が、複数の意味をもち、その複数の意味をつないでも、仏教の意図を伝える複数の考え方が、そこから引き出せるようになっているのが、マントラ(真言)の不思議なところです。
ですから、一つのマントラを、一つの意味に翻訳することはできないことになります。少なくとも幾通りかの翻訳になり、それぞれが、重要な意味をちゃんと伝えているのですね。これは、本当に不思議というほかありません。
実際に、サンスクリット真言は、まず、顕教的と密教的の二つに訳し分けることができますが、おなじ真言からは、まったく別の意味が引き出されます。しかし、どちらも仏教の意図をしっかり示しています。
さらに、音ごとに、意味を引き出すことができ、これを解説するのは、空海自身も、膨大になるので略す、といい、それには、つまり、般若経一経がすべて盛り込まれてるというようなことを言っています。

中国で漢訳が盛んであった時代、高僧たちは、空海とおなじ考えをもっていたのではないでしょうか。

また、補足ですが、漢訳をおこなったのは、玄奘にかぎりません。上記の高僧のほか、一行禅師なども有名です。

以上のような理由で、真言にもサンスクリットにも通じた当時の高僧は、こうした語句をそのままに残したのではないかと推察します。
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先に漢訳に付いて 音写と 意訳漢訳に興味で 少し調べてました。 漢訳は非常に重要な業績と思います。数多の翻訳僧の中でも特筆の玄奘三蔵  仏典を求めて 天塾に苦しい旅をし、多くの仏典を持ち帰った事も偉大ですが、それよりも帰国後の翻訳事業は偉大と思われます。経典群の中核とされる『大般若経』16部600巻(漢字にして約480万字)を 今では読むが困難で転読しています。勿論 私も読めはしませんが 薬師寺東京別院では毎月12日 に「大般若経転読 法要」を行っており、そこでは僧侶の他に参拝者にも転読をさせてくれてます。
その折に600巻の内一巻の折経が渡されて 「大 般若波羅蜜多経巻第〇〇唐三蔵法師玄奘詔訳」と大声で唱え、私達もパラパラと転毒できます。 この法要の機会に 600巻の膨大さを実感できてます。

それと同時に、その『大般若波羅蜜多経』の心髄を収むといわれているが般若心経の266文字での見事な集約に驚くのです。 

膨大な『大般若波羅蜜多経』にはただ唖然ですが、せめて『般若心経』の写経の実践と、,同経の意味をもう少し勉強したいものなのですが、それさえもなかなかなのです・・・。