孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

③あまりされていない仏像鑑賞の為の基礎学勉強会 ・ 「仏像の存在意義」

仏像の仏については前の日記で考察しました。
次に仏像の像 「像」について勉強します。

正像末の三時 釈尊は自らの入滅後の未来について、正法・像法・末法という三つの 時代があることを、種々の経文に説いています。其の正法・像法・末法の三つの内、
正法と末法は分かるのですが、字面で解りづらいは 像法(ぞうぼう)です。その「像」とは「似」の意味であるとの事で、像法とは正法に似た仏法 との事をいうのだそうです。

その解説中に「像」とは「似」の意味と在るのを仏像に当て嵌めれば、仏像とは仏に似たもの と成ります。これは仏像の定義と云えましょう。これはこのシリーズ最初の日記に書きました、仏像とは「仏教の信仰対象である仏の姿を表現した像のこと。」に合致します。

『涅槃経』に、釈尊が亡き後の比丘らの修行方法として「法四依」が説かれて居て、その一に「依法不依人」(法に依って、人に依らざれ)詰まり、仏の説いた法そのものをよりどころとして、人によってはならないということです。

拡大解釈しますと、釈尊自体が尊いのではなく、釈尊が説かれた法が尊いとも言えます。さらに釈迦は「自灯明・法灯明」(自らを依り所とし、法を依り所とせよ)という基本的理念から、釈迦本人は、自身が根本的な信仰対象であるとは考えていなかった。したがって釈迦の時代と続く、初期仏教においては仏像というものは存在しなかった。


仏陀となった偉大な釈迦、その姿は もはや人の手で表現できないと思われていた。そのため人々は釈迦の象徴としてストゥーパ卒塔婆、釈迦の遺骨を祀ったもの)、法輪(仏の教えが広まる様子を輪で表現したもの))や、仏足石(釈迦の足跡を刻んだ石)、菩提樹などを礼拝していた。インドの初期仏教美術には仏伝図(釈迦の生涯を表した浮き彫りなど)は多数あるが、釈迦の姿は表されず、足跡、菩提樹、台座などによってその存在が暗示されるのみであった。

時代を経た 大乗仏教では釈迦が比喩的に説いた、他の尊たちも現れ、仏の教え、を伝えるために図画化していくことになる。そうして仏像が誕生し,釈迦以外の尊も作られる様になりました。

歴史の経緯はそうですが、では宗教上では…仏像とは何の為に存在するのでしょうか?

大乗仏教では、釈尊が紹介する形で、多くの如来・菩薩 その他の尊が出現してきました。それらの仏に帰依する事が信仰と思います。

それは,その実在を 信じる事でしょう。実在を信じる方法に 観想が在るのだと思います。

デジタル大辞泉の解説に依り 「観想」を引きますと、
1 仏語。特定の対象に向けて心を集中し、その姿や性質を観察すること。観念。
2 そのものの真の姿をとらえようとして、思いを凝らすこと。「人生を―する」
3 ⇒テオーリア:《眺めることの意》哲学で、永遠不変の真理や事物の本質を眺める理性的な認識活動

と在ります。 例を挙げれば 「観無量寿経」には極楽浄土を観想する十六の行法が示されていて、その一番目に示されているのが「日想観」で、沈みゆく日輪を媒体として佛を観想する一種の瞑想法で、以下釈迦如来韋提希阿弥陀如来の住む極楽浄土に生まれる為の三福十六観を教え 極楽への往生の方法を示しています。

そうした観想の手段として有効が「仏像」と思えます。恋人の写真で恋人を偲ぶがごときに、写真自体を思うはずはなく、写真に写る画像で、実際の人間恋人を偲ぶが如くと比喩します。

尚、後期仏教の密教では、その根本経典の一つである『大日経』において初出の瞑想法『阿字観』などもあり、仏像を拝む事ばかりが観想ではないでしょうが、仏像を拝むは大きな観想手段だと云えます。

密教では修行に「入我我入」の瞑想法があり,瞑想の対象である大日如来や菩薩のすべての働きが修行者自身に入り込み、また修行者のすべての働きが対象である仏陀や菩薩に入り込んで、修行者と仏陀や菩薩とが一体となること。等もありまして、 それは画像や仏像と対面して行われます。


仏像は観想のツールでもあると云えましょう、またもっと広くは経典による仏教理解の他の手段として イージーな方法としての 存在意義のようにも思えます。

また造仏を考えますと、写経に似た、善行・功徳で、その果報を得られるロジックが在るのです。 それが仏教哲学とは、一線を画す信仰ではないでしょうか? 宗教の哲学との相違はその信仰性の有無の様な気がします。

まだ良く解っていないのですが・・一生懸命に考えてます。