孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

仏像と刀剣と陶磁器と  その修理

2011年08月05日21:35
仏像は若い頃のロマン趣味の延長でして、定年後に再開、今は一番の趣味になってます。刀剣趣味も同じ頃始めまして、勉強途中ですが、最近は諦め気味です。陶磁器は全くの門外漢です。

陶磁器は別ですが、仏像趣味、刀剣趣味の共をかじっていて判ることが在ります。

何れも骨董の部類に入り、また博物館の陳列に成っています。そんなわけで共通もあるもですが、結構相違も激しいんです。

仏像は本来宗教の礼拝物(仏)、刀剣も本来、武器であり、武士の魂と言われ、精神性に関わるものでした。陶磁器は道具、でメインは茶道とすれば、そこに精神性があるので、似ているのかも知れません。

何れも今は本来の用途から離れた、美的価値観で語られてきています。ここでは美術面でお話させ頂きます。仏像は仏教美術、刀剣は刀剣美術、陶磁器は古美術と・・・・そして何れも時代、流派の形式と様式が現れます。そして、個々に芸術性の優劣が在ります。


さような美術品としての共通の側面があります。美術として共通は当然ですので、これからはその相違について語らせて頂きます。

先ず仏像は、かなり壊れても修理をして再生し、受け継がれ続けられます。とはいっても、像造当時の状態が保たれている方が良いに決まってますが、結構壊れていても大事にされています。これはある程度修理に向くといえましょう。一方、刀剣と陶磁器の方は破損がある程度を超えると研究材料にはなるでしょうが、その物の美術価値は殆んど無くなってしまいます。

よほどの名品なれば、刀剣は再刃(火災にあった刀を再度刃付けの焼入れ直しをする)・埋め金(刀の鍛え割れ部分に他の鉄を埋めて、目立たぬよう細工をする)等を施す事も有り、陶器では金継ぎ(割れた物を麦漆で接着し、そこを金粉で化粧する)などもあるが、とうてい修理前の価値は戻らない。

一方仏像は修理を厭わない。古いもので、修理の無いものは皆無といってよいでしょう、つまり持物(仏像の手に持つ物)、手先(手首より先の手の部分)は9割以上後補であります。

陶器、刀剣ではどんなに上手に判らない様に修繕しても、専門家は見抜き、価値は殆んど付けられないです。

刀剣では一番嫌う傷に「刃切れ」という傷があり、どんなに小さく虫眼鏡で見ても判るかどうかの傷で、見落として販売されても、発覚すれば全金返却されます。その刀は無価値なのです。


仏像は修理があっても当たり前で、誰もあげつらうことは無く、せいぜいキャプションに補修、後補が多いとあっさり書かれる程度で、その修理部分を説明することはほとんど皆無であります。

昨年に大人気でした、興福寺の阿修羅像、明治の古い写真では、合掌の手が無いのです。

遠くない時に後補なのです。欠失の手先が造られ取り付けられているのです。90万人程あった観覧者の多くは、そんな事は知らずに、合唱の手に、阿修羅の改心の思いを感じ、感激しているのです。 

だとすれば、刀では工作(ある目的を達するために、前もって働きかけたり、計画をめぐらしたりして下準備すること ..)と嫌われるものが、仏像では、平然と、いやその真意を伝えるべき、良い手段の手直しと成るのです。

お寺の拝観では遠く暗くて。無理ですが、展覧会に陳列の仏像にて、その修理・後補の箇所を探しあうゲーム的な事を仲間内でし合ってます。衣皺の鎬の線の調子が異なるだとか、不自然だとか、悦になってます。

しかし、仏像に後補云々をあげつらうのは???の思い始めて来ているのです。薬師寺東京別院で、大破していた仏像たちを修理し(薬師寺は写経運動でお金が集まっているので・・・文化財指定の無い仏像でも修理が出来る)その修理済みを公開した事が在ります。

その時の僧侶の説明にうなずくものがありました。「ぼろぼろ、ばらばらの仏さんに、拝む気が起こりますか?と・・・」然りです、その考えでは興福寺の阿修羅像の後補にも同様、善行なのです。

そこにまた厄介があるのですなッ。金ぴか綺麗の仏像には歴史を感じられず、ありがたくは無いと、人々は言うのです。刀剣では平安、鎌倉の太刀がピカピカに研ぎ上げられて、打ちたての現代刀と区別が付く人は玄人並です。

陶器は「擦れ」とか「貫入(器の粘土の部分(素地)と釉薬との収縮比率の違いから
焼成後の冷却時に生じる釉薬のヒビのこと)」に沁み込む茶渋を大事にします。これまた厄介な趣です。

仏像に話を戻します。而して、仏像の多くの修理にはピカピカではなく古色が付けられます。古色を付ける粉は「古び粉」というんです。

金箔は貼ってから剥がします。下手は無造作で、出っ張りに金箔が多く残しちゃってます。本当の古色の箔は凹みの触れにくい所に残るのです。

世田谷美術館中尊寺展で、金色堂の6躯の地蔵立像が来たことが有ります。すぐに付けられた古色と判りました。6躯とも全く同じ様な古るびなのです。同じ時に造らた物でも、本当ならば長年かかっての変化の事、そこには個体差が生じるはずなのです。しかし全く同じ古さなのでした・・・事前に此処の仏像は戦後に修理されたことを知っていたので、その様に見破れたのかも知れませんが・・・。

仏友からは、重箱の隅の突付き過ぎと揶揄されています。もっとおおらかに仏像のお顔姿の美しさに癒されるべきと言われます。・・・それも然り 反省です。


仏像、刀剣、陶器の比較をしてみました。似たようで随分と違うものでしょう!
ちなみに陶磁器は門外漢で判りませんが、刀剣と仏像は少し解るので、言わして貰いますと、私には遥かに刀剣の方が難しいです。仏像でしたらほぼ制作年代が推測できますが、刀剣ではまだ私には至難です。

刀剣の鑑定は途方も無いです。刃紋と鉄肌、姿などで、銘の切ってある茎(なかご)を見ずしても時代、産地はおろか、何千以上の刀匠の個人までも鑑定してしまうのです。

片方仏像では、真如苑大日如来は多くの時間を掛けて、どうやら運慶作に違いがなさそう程度です。言い方に誤謬があるやもですが随分違います。

皆さんでもそうでしょう、東京国立博物館には仏像も刀剣の陳列も在ります。仏像の方は、比較的に誰にでも良さ、違いはわかるのでは? 一方刀剣のほうは大方の方は違いがわからないのではないでしょうか。素人には解らないほんの少しの差が雲泥の差の世界なのです。

TVの「お宝鑑定団」で見る程度ですが、焼き物と、掛け軸も素人には解らないものですねッ・・・


仏像仲間にはようやく一目置かれかけてますが、剣友の先輩に言わすと私はまだ幼稚園の年長程との酷評です。早く小学生レベルになりたいものです。