孤思庵の仏像ブログ

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東博特別展『空海と密教美術』 より・仁和寺 阿弥陀三尊

 2011年08月03日23:32
まだ陳列品をよく観ていないのではっきりとは言えませんが、この特別展の対象の仏像の時代は平安前期からでありましょう。文化史的に言うならば弘仁貞観時代、(延暦十三(794) 年から「遣唐使の廃止」の寛平六((894)年の100年間)からとなりましょう。

弘仁貞観時代との言い方は、最近遣われなくなって来てます。この両時代に挟まれる元号は幾つも在り、それらの時代に観心寺の如意輪や東寺の講堂創建時の緒像が含まれます。そんなことでこの頃は平安時代前期と言われる方が多くなり、国立博物館もこの時代名称を使用しています。しかしながら次の平安時代後期はそう呼ぶよりも藤原時代と呼ぶ方がピンときます。

話を本題に戻します。この平安時代前期(ほぼ9世紀とみて良いでしょう)は、唐招提寺の鑑真に随伴した工人が造った旧講堂の木彫像群等から、定朝様式の和様化の過渡期に当たり、日本仏教史的にも天台・真言密教の興隆の変革期に当たり、仏像彫刻にも密教像の出現や、旧来の尊像にも多様性が見られるので、厄介でも在り、魅力的な時代でもあります。私もこの頃は、この時代の仏像に興味です。

その様な名品像があまた陳列されていますが、混雑で雑な観賞でしたが、その中で仁和寺阿弥陀三尊は、小振りですが、華やかで、像容が可愛く、なんとなくに好感を持ちました。それで、先ずそれに注目し、文章にしてみます。

東京国立博物館空海密教美術展」陳列

仁和寺 阿弥陀三尊 国宝 各木造 漆箔  平安時代前期
像高 中尊89・5cm 左脇侍123・8cm 右脇侍122・7cm

画像はネット検索猫アリーナ 「空海密教美術展」 東京国立博物館nekoarena.blog31.fc2.com/blog-entry-1126.html で御覧下さい
中程の「阿弥陀如来および両脇侍像」 平安時代 仁和4年(888) 
 京都・仁和寺 国宝の写真です。




この像は奈良時代の仏像と藤原時代の定朝様の中間にあると思います。奈良時代の念塑系(金銅・乾漆・塑像)の仏像から木芯乾漆の像を経て木造仏が、先述の唐招提寺旧講堂の木造仏群などの代増檀像の影響も受け、いよいよ木造仏
主流時代に入ります。後代の定朝様の寄木造りの前に位置する仏像と思います。

神護寺元興寺の薬師のごとき森厳さではなく柔和を感じます。前述の薬師像一木造りは共通ですが、片方の元興寺像は背刳が施され少しの時代の経過を感じます。

この仁和寺阿弥陀三尊も背刳が施された一木造りとされています。されど先の両薬師立像とは相違の坐像のため、膝前材が必要で、それに別材の横一材を寄せております。定朝考案の寄木造りの兆しを見ます。像様も優しく、貴族趣味と言って良いでしょう。

されば何処が定朝様と相違するか述べてみましょう。先ずは中心の頭体部が寄木で無しに一木です。そして躯体に厚みが在ります。衣皺の彫が深いです。そして定朝様の大人の穏やかさより、三尊いづれのお顔も共に穏やかと言うよりは頬のふくらみに童顔ぽさを感じるのです。

印相は阿弥陀定印でした。それが余計に定朝様に繋がると感じたのでしょうか・・・

もっと細部に相違はあるのでしょうが、素人の私にはこの程度しか言えません、しかし、これらの像が定朝様の基となったと思います。

私が肥満の為か、定朝様の胸の薄さには違和感を覚えます。また何処を観ているか判りづらい芒洋とした目付きは深遠なのでしょうが、親しみが湧きませんので、この頃は藤原時代の如来坐像は好みでなくなってきてます。どうも面白さに欠けるように思えてきてます。最初の頃は藤原時代の定朝様式阿弥陀挫創が仏像の基準と思え好きでしたのに、変わるものです。

それに引き換え、この仁和寺阿弥陀三尊像は、脇侍の少し大きめの頭、太めの躯体に親しみ、安らぎを感じます。あなたは可愛らしく思われませんか。

以上が像を観ての私の作文ですが、小生お気に入りの村田靖子氏の「京都の仏像」には、この像の掲載が無かったので、「日本古寺美術全集14」から得ました知識を参考に、以下もう少し掘り下げてみます。

仁和四(888)年の仁和寺創建の金堂のもと本尊であった三尊像の可能性が強いらしいです。このスタイルの像としては最も早い部類に入るらしいです。

桧の一木造りと分類されてます。木取りから出る部分つまり膝前材は別材の横木一材を寄せてと在ります。それも一木造りの範疇らしいです。今までは、とび出た部分(手などの部分)を寄せても、そこに同一材を使用するのが一木造りの定義と思ってましたが、ここで認識を改めました。

なお脇侍像は蓮肉までも一本の桧で掘り出されているとのことです。三尊は各々は頭と体の背面より内刳がなされているとのことです。漆箔仕上げで、その下地はかなり厚いそうです。(ウムーッ!木芯乾漆の名残的なのでしょうか?)

中尊の螺髪の最下部は後補のため、髪際は上がっていて、元はも少し下がりかつ直線的だったことが痕跡より伺われます。この髪際の仕様や肉髻の高いこと、上瞼をまっすぐに切る形に、また本尊結跏趺坐の脚部の太い衣文など、これらは承和年間(834~848)頃に始まる真言密教系彫刻の延長線上に位置する概形的特徴だそうです。しかし本像の与える穏やかな雰囲気はそれとはかなり、かけ離れたものと言えるそうです。(この時代の仏像の多くは森厳であるが、この像はおだやかということですねッ)

像の上半身は奥行きも充分衣あるが、脚部の方は肉取りを適度に抑えていると観てます。そして正面観は膝の張りは充分で、肘をゆったりと構え安定していると、また彫は深からず浅からず端整に整い鎬の強さを覗かす所もあると観ています。(それは、私も感じ先に同様の事を書きました。この頃は仏像観賞、先ずはお顔、続いて、プロポーション、次には衣皺だと思ってます。指先も綺麗で技量が出る所ですが、後補が殆んどだと認識してますから・・・この特別展の東寺講堂の梵釈の二像もそう遠くない時にだいぶ修理がなされたようです。)

両脇侍も中尊敬に沿ったものた成っている、法華寺の十一面観音像などの伝統を踏襲しや釧を金銅製にしている。宝冠は後補で、巴や菊花のどの透かし彫りの模様は和風化していて醍醐寺如意輪のそれに近いと在った。

この像を印象づけけるけるは華やかな装飾の光背・台座にあるように思えます。脇侍のそれら(光背・台座)は全て後補、中尊台座も蓮弁は候補で、葺き方こそ相違の魚鱗葺きではあるが、同じ八重蓮華座で定朝様式の台座(鳳凰堂のそれ)の先駆けと見ました。光背部分も二重光背と丸みを呈してはいるものの、透かし彫りの光背も定朝様のそれに通じるものがあり、定朝様の一朝に出来たものでないことを知ります。

尚この台座や糸巻き状の束、華盤、丸框の形状、ならびに光背に見る頭光と身光背との組み方、光脚受花の形等は共にこの時代の基準的なものであるとの事です。この像を復元的に考察すると、天蓋もかけられていたであろうかと、三尊はこれらの大ぶりな金色の荘厳の中に似合って収まっていたであろう、こうした本像の表現は十一世紀の絢爛と花開く定朝様式の阿弥陀堂の基礎づけの遺作として顕著な存在だと思います。

本三尊と同時頃同系の遺作には西光寺阿弥陀如来、冒頭に前述の醍醐寺如意輪観音、それに延暦寺阿弥陀如来などがあげられるそうです。

このように勉強しましたら、耽美的に好感を持った像が、日本仏像の和様化の定朝様式への基礎づけの遺作として重要な像と認識できました。今まで然程に考察してこなかったのが今では不思議なぐらいです。