孤思庵の仏像ブログ

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目から鱗   バラモン=ブラフマン

2011年07月29日19:36
目から鱗」の語源を新約聖書と知った時も目から鱗でした。この歳に成っても、人生でどう取り零してか、自身の知らない事や誤解認識が時々に発覚する。

ある程度仏教美術史関係の事は解ってきているつもりでも、まだまだ取りこぼしがある。懺悔します。バラモンの語源がブラフマンと気付かずに来てました。

梵天が仏教以前のインド哲学における宇宙の根本原理のブラフマンに繋がる古代インドの神ブラフマーが仏教に取り入れられたものである。(ブラフマンが人格をともなってブラフマー梵天)として登場する)は知っていた。

ところがバラモンの語源がブラフマンということに気がついてなく、つい最近に知りました。
ブラフマン(ब्रह्मन् brahman)  婆羅門原語のブラフマナ (ब्राह्मणbraahmaNa )と並べてみればその関連性がわかる気がします。

さすれば梵=婆羅門と成り、 何とカーストの最上位の司祭バラモンは宇宙を支配する原理となります。すごいのねーッ。


ウィキペディアによく纏められた一節があったので、転載します。

バラモンとは、インドのカースト制度の頂点に位置するバラモン教ヒンドゥー教の司祭階級の総称。サンスクリット原語のブラーフマナ (braahmaNa ब्राह्मण)が漢字に音写された婆羅門を片仮名書きしたものであり、正確なサンスクリット語形ではない。

ブラーフマナとは古代インド哲学で宇宙の根本原理を指すブラフマンから派生した形容詞転じて名詞。つまり「ブラフマンに属する(階級)」の意味である。ブラフミン( Brahmin )ともいう。と在ります

梵が出てきましたので「梵我一如」の我をお勉強しときます。

我(が、われ、Skt:aatman आत्मञ्、Pl:attan अत्तञ्)とは、バラモン教(のちヒンドゥー教)及び仏教上の概念。アートマン(梵我)。ですと・・・

つまり、梵はブラフマン:宇宙を支配する原理で、我はアートマン:個人を支配する原理

梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、梵と我が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。不二一元論ともいう。


一寸話が難しくなりましたか?


最後にお口直しに簡単なものも。こちらはだいぶ前に知ったのですが、ヒンドゥー=インドとし、ヒンドゥー教=インド教と解釈できる事でした。少し乱暴でしたかもですね、も少し正確を期したウィキペディアの一節を掲載しておきますと在ります。

ヒンドゥー」の語源は、サンスクリット語インダス川を意味する「スィンドゥ」が、古代ペルシアで「ヒンドフ」に転訛したもの。ペルシアから見て「インダス川対岸(ヒンドフの反対側)に住む人々」の意[3]。これがインドに逆輸入されてヒンドゥーになった。インド植民地時代に、大英帝国側がインド土着の民族宗教を包括的に示す名称として採用したことから、この呼称が広まった。と在ります。

そうそう、先日は仏教で言う「般若」を誤解されている仏像友達が居ました。読書学習に比べ、そこが我等のグループのディスカッション勉強の良い所、会話の言の葉に誤解を見つけられ、それを修正できるのです。

本来、「般若」 (サンスクリット: प्रज्ञा, prajñā) は仏教用語で、その漢訳語は「智慧」(日常用語の「知恵」とは意味が少し違う)の意味です。「般若」は音写ということです。


今では能面の般若面が有名で、一般の人は「般若」というとそっちの方を思う様になってしまいました。能面に般若とついたのは、その鬼女面を得意とした面打ちが何とか神仏に願をかけて、もっとすばらしい能面をと思い、自分の名を「般若」にして、願賭け精進し大成したそうな、そして人々は鬼女面なら、作は般若坊というようになり、何時しか鬼面の事を般若というようになったとの事です。

ところで若い人に「般若」というと、MCとかラッパーというかもしれませんね。MC・ラッパーが判らない方もあるかですね

ポピュラー音楽の最近の一つにラップという歌唱法が在り、小節の終わりなどで韻を踏みながら、あまりメロディを付けずに、リズミカルに喋るように歌う方法の事だそうである。MCとは、そのラップをする人をいうらしいです。

年代により、人によりで「般若」の意味が大変に違うのも面白いですね。