何度目かの瑞林寺での今回も新発見
- 【誤謬を多数発見しましたので、11月20日午後に再投稿させて頂きます。前のお読み頂きました方はご容赦願います】
瑞林寺 地蔵菩薩坐像(康慶作)・山門・鐘楼
11月17日に瑞林寺・願成就院・かんなみ仏の里美術館に計六名で拝観ツアーをしてきました。
僭越ながら、お知り合いになった仏像趣味の初級の方をご案内れするには最適の仏像達と自負する仏像達です。
奈良の超一流の仏像にはこれより優れた仏像はあまたあるでしょうが、東京至近では最高の仏たちのはずです。
それと最も最初に魅力を感じ得る仏像は鎌倉時代の慶派作品でしょう。その慶派遺作仏像の先頭をきるのが、あの一番有名な運慶作、円城寺の大日如来であります。その台座蓮肉部の裏板の墨書には、「大仏師康慶実弟子運慶」と記されています。この造像は運慶の師であり、また親である康慶が指導した事が読み取れます。
おそらくは正式の請負造像としては処女作であり、康慶の かなり細かな手解きを受けながらの造像ではなかったかと想像します。息子運慶の処女作、康慶としても、かなり熱の入った造像指導となった事でしょう。而して、康慶と運慶の熱のこもった造像で、まだ小仏師を使うという程には無く、自分が康慶の小仏師的な形での造像で有った事と思います。製作期間が11ケ月に及ぶ長さ、それが物語っています。そうしてこの事が、処女作でありながら天才運慶の代表作ならしめたのだと思います。
この瑞林寺地蔵菩薩坐像の作者の「康慶」は正に慶派の基礎を築いた人物でこの人無しでは慶派も天才運慶も無かったと思います。、
これはあたかも藤原彫刻の定朝と康尚に似ています。康尚の先駆けの功績が無ければ定朝という大輪は花開かなかったでしょう。レールを引いた康尚と康慶 ともに康の字を名前に持つところ迄も似ています。
重ねて言います。慶派の祖ともいうべき「康慶」は、もとは康助の弟子だったが康助の死後は康朝の助作を務め、『養和元年記』には「康朝小仏師」と記注されている、「康朝」の実子で正系の「成朝」が早世しおた為でありましょう、傍系でありながら(康朝との血縁関係も在ったらしい)正系の絶えた南都仏師のまとめ役と成ったらしいです。そして南都仏師はその後「慶」が付く名が多いので、後に慶派と呼ばれるに至りました。
その「康慶」の現存の最古遺作は、今回訪れた瑞林寺の地蔵菩薩座像でして、先述の運慶作の円成寺大日如来像の製作の1年後でしす。「康慶」の現存の最古遺作です。http://museum.city.fuji.shizuoka.jp/hp/report/images/n1.jpg
康慶の指導のもとに造られた、円成寺像に対比は興味深いです。横から見ます背中の曲線が、共に似ているように思えます。
また似た造形で、製作時期は四半世紀ごろ後と推定される、六波羅蜜寺の伝運慶作 地蔵菩薩坐像と比べますと、衣の上に付けます袈裟の形はそっくりです。しかし衣褶の様子は違います。六波羅蜜寺の伝運慶作 地蔵菩薩坐像のそれには松葉が多用され間隔にばらつきが在り、リアルなのに比べ瑞林寺 康慶作の地蔵菩薩坐像の衣褶の方は、等間隔で藤原彫刻の衣褶間隔に似ます。
さらに今回気付きましたのは衣皺の彫は深くなりつつも、其の鎬は立たずして、丸みさえも持っていました。それにも、また膝がしらの鎬の消え様にも 天平期の捻塑(モデリング)の感じが在るのです。平安前期の木彫黎明期にその前の天平の乾漆像の雰囲気の木彫衣褶を散見します。
此処にそれによく似た木彫衣皺を見るのです。鎌倉彫刻も初期は、東大寺・興福寺の復興事業で、それの仕事の内容は天平彫刻の補修補作に従事し、天平の古典学習をした事の現れと感じました。
次に手首先、足先はふっくらとした良くできた・・・と感心でしたが、それは補作の物と感じられました。良い出来ですが、古色に大胆には成れない、遠慮の単調さが否めず、後補と分かりました、全体に痛みの無い事で近年の補修が在った様子です。そうして見直すと耳朶も補修のようです。次々にそうした目で見直せば、裳先もきれいで補修のようです。
補修箇所探しは租探しのようで感心しない向きもあるでしょうが、多くの鑑賞者が気付いて居ないという現実に、昨今、新聞紙面に載るところの食品素材偽称のようで一般が、知らぬを事が偽の様に思えてならないのです。もちろん修復は必要でしょう、復元の土器が欠損部を石膏の白いままのを見せられますより、類似色になった居る方が落ち着きます。
仏像修理も同様であまりにも修理した個所が浮き立つのも興醒めで、古色が付けられているのでしょう、もしかしたら専門家には分かるように、一般には解らないような塩梅にされているのではとやっと気が付きました。今度機会が在ったらその辺を専門家に聞いてみましょう。そう考えると後補を見つけたと鬼の首をとった様に喜んでいた自分が馬鹿と気付きました。
されど偽装の様にも取れますので、近年の補修事業には調査報告が整備されて居るのでしょうから、是非に修理前写真の展示や、その辺の書籍がもっと一般に刊行されて良いのではと思います。今は合掌手の興福寺の阿修羅像、其の片手の無い補修以前の古い白黒写真を見たことが在りますが・・・表に出る事が少なく、あの阿修羅展に来場の165万人の内どれだけがご存だろうか?私が補修に気付き始めたのは 修理仏師も務める自治体の文化財評議委員でもある友人と展示仏像を一緒に見ながら、そこが後補だよ、此処も候補だと、教えて貰ってからの事です。手首は継いでいるので、それが外れやすく、欠落し易い、候補の毛先の方が多いと。また膝前の裳先も痛み易く、衣褶の調子が後補の部分から変わってしまっている等、云々でありました。
その様に教えられ、見方を覚えれば、後補部分が判るのは難しくないのです。
修理の塩梅はこれ程が、ちょうど良いなのでしょう。
後補に気付くも良し、気付かずに耽美に浸るもよしなのでしょう。
仏像とは対面するもので団体の鑑賞を否定される向きももあるでしょうが、現にこの度、瑞林寺さんに拝観申込みをいたした時も・・・随時の一般公開はしていないと断られました。 仏像の勉強をしている者たちのグループですと説明して受け入れてれて頂きました。
良く法事が在るので拝観は不可とこのお寺様でさまで断られたと聞くことが在りましたが、今回は瑞林寺さんに到着しました折、駐車場で喪服の大勢さんと出会いまして、この時刻に法事が在る様です。さ中、拝観を認めて頂けたようです。お寺の奥さんも法事が在るからと収蔵庫を開けて頂き、ご自由にと・・・写真も自由にとおっしゃって、また、帰りには錠を掛けておいてと、本来はいけないのですがと言いながら中座されました。
我々を真面目な拝観者と認め頂けたたまものと思います。
グループ拝観の功罪に戻ります。静かに仏像と対面するべきでしたが、今回は初級の方が中心でして、また時間に追われてで、他に人がいないのを幸いに、早々に語り合い始めてしまいました。
皆で此処が良い、あそこが見事・・・と確認しあいました。仏像の観処を初級の方は感じて頂けたと思います。私はここの像拝観は3,4度目かと思いますが、後補の箇所は今回やっと見つけた有様でして、同一像への複数の拝観も意義有と思います。
中でも最も嬉しかったのは、何方かが、像の後ろのの首筋が直ぐでは無しに、3段ほどに皺が横に走る段々の表現に成ってると発見してくれました。
実に素晴らしい!二つの目で見るより、12個の目で見れば良く見えてくる・・・。何方が首の皺の発見をされた可はもう失念しましたが、其の観察力を讃え、私の仏像の見方・流儀にご理解いてると喜び、今回この首の横皺と云うか、くびれと云うのかの段々を気付かしてくれた事に、お礼を言いたいです。今更ながらですが、実にリアルな首筋の表現です。これまで気付かずにきてました。気か付けて幸せです。
斯様に斯様に鑑賞も利点有りなのです。
庫裏玄関で奥様に鍵をお返しして、門や、裳腰とは相違の屋根の扇垂木の鐘楼に見慣れない黄檗宗の雰囲気を感じながら、自動車に乗り込み、次の昼ごはんが楽しみの沼津港海鮮食堂街に向かいました。
【追加筆】
宗教性の薄い拝観としても、拝観は独り静かに黙して仏像と対峙が高尚なのでしょうが、今はまだ知識吸収の時期、迷惑と成る他人の同席しが無い時には仏様にはお許し頂いて、じろじろ見て、あーだこーだ言わせて頂きましょう、そうです、ここのお地蔵様の白毫が話題と成りました。光沢が無いので木製なのではとの意見が出ました。
私は水晶でしょうとの意見を述べました。ご周知の通り白毫は光る旋毛で彫刻では水晶を多用します。それ以外の白毫もあるはずですが・・・ここの白毫は光沢が無いだけで、表面に微細の凹凸や荒が無いのです。水晶以外の時間を経た他の素材ではありえないと思います。香の煙に燻された色と思います。
そう言えば我が家の仏壇は明治の初め頃の物らしいのですが戸の部分に明り取りの小さな火灯窓形の型ガラスが入っていまして、それが長年の線香に燻られ、この白毫同様の色に成っているのです。それでそう思えるのでしょう、でも確証が有りません、何方か教えてください。
白毫と言えば、仏像の代表 平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像、近年に久々の拝観をした時に白毫がやけに輝いているのに印象が違うといぶかり寺方に質問しましたら、木であった白毫を水晶製に更新したとの事でした。
エッ 替えてしまってしまって良いの? 考えるに元が水晶だったのが欠落して木製で補われた?そんな理由でもあるのでしょうか?。お寺の信仰上の都合でそうしたのでしょうか?
何かご存知の方、お教え願います。 他にも何でもよいです仏像に関する事色々教えてください。
【続く】-
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