孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

仏像趣味、雲の上の論争?? に思う (似て非なる方々)

あるSNSの投稿を読み 凄いと感じました。 それをお伝えするには その文章を紹介しないと始まりません、此処に転載させて頂きます。(まあ、公開された文章ですので転載を お許しください)
 以下、目に留まった文章
 先日、古美術商から江戸初期のよい仏像を買ったので、見に来てくれとのことで見に行ったが、宝冠を被った半跏思惟像で、片足を垂らして台座に座っている。古様の復古で、お寺でもこんなレベルの仏像は見たことがない。江戸の初期は確実で、普通は桃山、室町末くらいまで行くかもしれない。仏像は復古なので、鎌倉くらいには見えるかもしれないが、台座と共なので、台座をみれば江戸期と分かってしまう。
 古美術商は、「こういう仏像があれば、今は8~9割は台座を外して、新しい黒塗りの台座に座らして、鎌倉時代で売るのですよ」という。信用ある美術商が扱えば、鎌倉期で信じてしまうだろう。こういうことは仏像が売られる場合、ほとんど行われていることである。
だから性格な知識を身に付けなければならない。
 90%分かっていることは、分かっていないことと同じである。100%分かっていなければ、何も分かっていないのと同じである。陶磁器の場合、この辺は厳密だが、仏像の場合、雰囲気に飲まれてしまうことが多い。
 仏像鑑賞を専門家並みにやっていると思い込んで、何でもわかると言っている人を見てきたが、中途半端な見方しかできない人が多い。専門書や論文や学説を振りかざすが、時代判定は自分の見方ができず、本に書いてあることかいえない。こういう人は、評価の決まったものしか論じられない。そして、枝葉末節の話に終始して、前に進まない人が多い。
 趣味ならそれでもいいが、私は生きることそのものが美術とともにある。時代判定の間違いは自分を否定することになるのだ。

以上があるSNSの投稿です。

凄い 古美術収集家と見られる筆者、以下その方をA氏と設定します。学者で無いのに凄い見識と尊敬します。 片や、ここで批判的に扱われた、仏像鑑賞を専門家並みにやっている人、そちらをB氏とします。その方は、専門書や論文や学説を振りかざすとA氏に書かれてます。本業でなしにそこまでのめり込む仏像趣味人は少ないと思います。
 
 確かにB氏の勉強は、専門的すぎて、私達凡には枝葉末節の話にも思えたりするのも事実です。 しかしそれも道なのでしょう、その様な専門家並に、我ら凡人の仏像趣味人が付いて行けないのも事実で、もっと優しく説いて伝わるようにしてもらいたいとは思うでしょうが…A氏の様に「中途半端な見方しかできない」とまでは断言は出来ません。その道に憧憬はしないでしょうが、在る評価はしたいです。事実 此方の知らない事を沢山知って居るのでしょうから、その面で私は論破できないのですから、私にはA氏の様にバッサリ切れません。 それをなさるA氏には確固たる信念と自信をお持ちと尊敬します。そしてその様に批判されるBしもそれだけのものが在ってだからではと推測します。
 私どもは、本文中の「90%分かっていることは、分かっていないことと同じである。100%分かっていなければ、何も分かっていないのと同じである。」をもってすれば、50%も分からぬ身としては、歯牙にも掛からないのでしょう。
しかしここで 雲の上の見解論争を 私Cは、地べたから見てまして、 美術史的な範囲の内なのでしょうが、同じ土俵には居られてないのだと想像します、Aさんは古美術商的コレクターで、B氏は美術史学家 どちらも在りで宜しいのでは、仰せで、美術史家が古美術商の上を行くとは思わないようにしますが、 その似て非なるは、売買の観点のウエイトではないでしょうか? 私は刀剣趣味の入門者で、偽物( 後銘、焼直し、錆付け、繕い、etc)を教えられ、悪徳不正を痛感しました。ここの文章でも、業者の仏像の不正の一端を教えて頂き勉強に成りました。コレクターは、その様な厳しい場でのでの勝負で「私は生きることそのものが美術とともにある。時代判定の間違いは自分を否定することになるのだ。」とのA氏の確固たる自負は分かるような気もしますが、片や評価の定まった文化財を論じるてると評されたB氏の方は、時代判定に興味(それどころか快慶作品の行快代作や、同一仏師の作品年代の吟味まで)でも、決して仏像を買おうとはされないのだろうと思います。ですから観点はおのずから相違なのかと思います。 Cは手の届く安直な仏像は欲しいと思う、鈍らです。見る目なくとも、仏像が好きで、傍に起きたいとも思います。
人は皆それぞれでないでしょうね! Cは分からないなりにも仏像を美しいと思い、愛好します。そして、CはCなりに、仏像の奥に潜む 法身の仏が在りやに、より興味なのです。
 A氏の文章の発表所在は知ってますが、B氏の論説発表の場所はネット上に在るのでしょうか? 知りたいところです。 
そして、A氏は ここでのこの文章を読まない可能性大ですが、もしこれを Yahooブログに転載したなら、B氏は必ず 読むと思います。 その時 果たしてコメントを付けてくれるでしょうか?! けっこうB氏はクールですので黙殺されるかもです。
B氏は勉強会で持論として、学者の説を紹介しますが、そこどまりでして、果たしてB氏にどんな自論が在るのか興味です。A氏のおっしゃるように 持論は確固お持ちでも、果たして自論は持たない方なのかもです。この方針も、Cとは相違の個性です。
Cは浅学の思い付を自論にて、ここがこういう風に面白いと 直ぐに披露のオッチョコチョイです。重複しますが、B氏は最新の学説に興味で、それを紹介するに留まる。そこでA氏の「枝葉末節の話に終始して、前に進まない人が多い」の批評を受けるのかもしれません。 Cもその学術論の何が、自分なりにどう思い、どんなに感心かが知りたいところでは在ります。
 A氏とB氏はこの様に相違なのですが、Cは仏像好きで、多くの発信を見てきた方ですが、A氏、B氏 共に稀有な仏像ファンでした。
 A氏は掘り出し物を狙い真剣勝負、B氏は寺院や博物館で高嶺の花を羨望され、学会の発表が関心事項に興味の知識欲かと推察します?

最後に、このコラムの因は、A氏が先週にSNSのコミュニティーに参加挨拶を送ったのが目に留まり、A氏の4月に発信の先の文章に辿り着いたからでした。
Aさん、 貴兄ほどの薀蓄のお相手が出来る仏像ファンはまず、そこら居ないと思いますし、もしいたとしても、そんな人はかなりのトンガリさんで・・・それはそれで、お気に召さないかもと余計なお世話の心配をします。 良き仏像友との めぐり合いの幸運をお祈りします。