かんなみ仏像の里では、つい口癖で
薬師如来の時代を「定朝の頃」と言ってしまい、大恥をかいてしまったことから、同行の古美術商からは「あんた、ほんとに仏像のことは何も知らないね。いかに無知か今回よくわかった。だいたい美術展に行き過ぎだ。知識が大切なのではない。肝心なところを知っていることが大切なのだ。この前、荒又宏が茶道のことを話していたが、膨大な知識を持っているが、茶道の本質に触れてない話で、なんにもわかっていなかった。あなたの森羅万象流の美術鑑賞もそれと同じだ。」と言われた。
たしかに私の興味の範囲はだれにも負けないくらいひろい。その分、理解が薄い。寺社仏閣も20台では30歳まで、月に数回、京都・奈良に週末滞在して7年間仏像も見たが、ただ見たというだけでなのだ。わかるということは、100%でなければわかったとはいえない。90%ではわかっていないのだ。
古美術商氏はいう。「知っているならば、
博物学的にはならない。大量の知識でなく深掘りすることが大事だ。森羅万象に力点をおいてはだめだ。重要なところを深く掘ることが大事だ。ポイントを深く掘り込んでから論ずべきだ。100の知識より、ポイントの30の知識のほうが大事だ。70のことはよく知っているにすぎない。ポイントを深掘りすることが大切だ。それも重点的な深掘りでないとだめだ。
まずは、
唐招提寺と大安寺の仏像からやりなさい。そうすると
弘仁・
貞観が分かる。なめるほどにやることが肝心だ。仏像の数を見るのは様式論でしかない。
ものとのつながりをやらないと一般論だけが繰り広げられることになる。ものとつながらない知識は情報が入ったにすぎない。この意識があったら定朝様という言い方はしない。
90%知っていても10%を知らねば意味がない。90%も70%も30%も大差ない。知識量が優れていることはどうってことはないことだ、ポイント深掘りの作業をしているかどうかだ。知識として羅列することがものとつながらないことが多い。院派・慶派は10%のこと、100%のほうを抑えることのほうが大事だ。」とのことでした。
かれの言っていることは、わたしもまだよくわかっていない。
仏教美術を語る人には本だけの様式論だけの人が多いことを言っているのだろう。
いろんな見方があってよいだろうが、プロとしては100%でなければならない。それは、趣味とかではない。わたしも美術が趣味ならば、そんなものはやらないほうがよい。美術とは自分が生きるために真剣にやるものだ。遊びでも趣味でもない。物見遊山に旅行しているのではない。自分の生き様、そのものなのだ。
9世紀と11世紀半ばには仏像の基準作がある。しかし10世紀にはそれがない。そこを判ろうとするためには、
かんなみの
薬師如来はよいきっかけとなりました。