【転載】② 「仏像愛好の集」メンバー 暗夜軒さんの投稿
毎月第一土曜日に「仏像愛好の集in東博」を開催して居まして、そのメンバーのハンドルネーム「暗夜軒」さんが、あるSNSに寄稿されました日記に感服いたしました。此処に勝手な参考画像を挟ませてもらい、ご紹介いたした前回の日記でしたが、その続きが投稿されましたので、此方にまた転載ご紹介します。
『 薄墨桜と両界山横蔵寺の旅 第2回 大日如来坐像 実践編』
横蔵寺はよこくら寺と読みますが、美濃の谷汲山の山中深く車で行かねば行きにくいところですが、修行にはよい環境のところです。天台宗で、開山は伝教大師、延暦20年(801年)開基、桓武天皇の勅願所とあります。
鎌倉時代にはこのあたりの本山として栄え、鎌倉時代の記録によれば、薬師堂、楼門、三重塔、政所をはじめ36の僧坊があり、山内に百数十人の僧侶が住んでいたそうす。建物3棟は江戸初期で県重文ですが、仏像は国の重文が22体あり、薬師如来坐像、深沙大将立像、仁王立像、四天王、十二神将それと木造大日如来坐像ですが、今回は大日如来坐像についてのお話です。
今回の旅の目的は、薄墨桜以外ではこの仏像を見ることでした。というのは、わたしは平安時代の定朝に代表される日本的の仏像がどこから始まり、(学者によっては弘仁・貞観まで中国の影響を脱せず、和様の仏になってないという説もある)どこから運慶に代表される鎌倉の仏になるのか製作年代が明らかな仏像で比較可能な坐像に限り、坐像の仏像の写真を集め、畳大の紙に貼り、9世紀、10世紀、11世紀、12世紀ごとの比較をして世紀ごとの変化と全体の把握を掴み、定朝様の始まりと発展を知ることにより、そこから時代を上げて弘仁・貞観の仏像の理解を勧めようとしています。もちろん上から下にということで奈良時代末期の薬師寺・大安寺の木彫の仏像からの発展という上の時代と下の時代の両方から挟み撃ちでの9世紀の理解を図ろうとしています。
この坐像に一覧表の中にこの大日如来坐像があるのがここに来た理由なのです。というのはこの仏像は寿永2年(1183年)筑前講師による作であることが分かっており、基準作になる仏像なのです。もとは三重塔に安置されていたそうです。
実にすばらしい仏像に見とれ、同行の古美術商氏に「これは都作でしょう」といったら、「バリバリの都作だ。定朝様式の丸い顔が変わって長くなり、より写実的になっている。もとどりも運慶のように高くなっている。(もとどりは天平は高く、平安は低めに、そして鎌倉ではまた高くなる。)漆箔の仏像のようだ。鎌倉に近い時代性を反映しており、運慶の様式を取り入れているようだし、平安仏のように腹が出ず、腰もしぼられている。」
この坐像に一覧表の中にこの大日如来坐像があるのがここに来た理由なのです。というのはこの仏像は寿永2年(1183年)筑前講師による作であることが分かっており、基準作になる仏像なのです。もとは三重塔に安置されていたそうです。
実にすばらしい仏像に見とれ、同行の古美術商氏に「これは都作でしょう」といったら、「バリバリの都作だ。定朝様式の丸い顔が変わって長くなり、より写実的になっている。もとどりも運慶のように高くなっている。(もとどりは天平は高く、平安は低めに、そして鎌倉ではまた高くなる。)漆箔の仏像のようだ。鎌倉に近い時代性を反映しており、運慶の様式を取り入れているようだし、平安仏のように腹が出ず、腰もしぼられている。」
わたしは、「なぜこれだけ質の高い仏像があるのに、十二神将や四天王は同じ重文でも出来が悪く、差があり過ぎるのか」と聞きました。「なぜだと思う」と返ってきたので、「それは寺の力が落ちたからでしょう」と答えた。
古美術商氏は「その通りだ。これは平安末期の仏像なので、天台宗のこの寺はその時はこれだけの仏像を求める力があった。ところが鎌倉時代は民衆仏教の時代で、新興の宗派にお布施がいき、武家も禅宗に帰依する。仏像のレベルは金をかけなくては出来の良いものにならない。その金がないとレベルの高い仏像は出来ない。奥州藤原氏も船いっぱいの贈り物を運慶にしたからこそ、中作といいながら時の上皇が奥州に送るのを遅らすくらいよい仏像を造ったのだ、もちろん、あとの仏像は鎌倉末期や南北朝で技量が落ちているということも影響している。」という。
いままで、その寺にある仏像をそういう目で見たことはなかった。仏像全体を通して寺がどんな歴史をたどってきたか知ることが必要で、その視点を持たねばならない。次の第3回と進むにつれそのことを痛感させられます。
以上が暗夜軒さんの日記です。
此処に寄せた私のコメントと 暗夜軒さんのコメントを紹介いたします。