孤思庵の仏像ブログ

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【転載】③ 薄墨桜と両界山横蔵山の旅 第3回 深沙大将 実践編

毎月第一土曜日に「仏像愛好の集in東博」を開催して居まして、そのメンバーのハンドルネーム「暗夜軒」さんが、あるSNSに寄稿されました日記に感服いたしました。此処に勝手な参考画像を挟ませてもらい、ご紹介いたした前回の日記でしたが、その続きが投稿されましたので、此方にまた転載ご紹介します。
 
毎月第一土曜日に「仏像愛好の集in東博」を開催して居まして、そのメンバーのハンドルネーム「暗夜軒」さんが、あるSNSに寄稿されました日記に感服いたしました。此処に勝手な参考画像を挟ませてもらい、ご紹介いたした前回の日記でしたが、その続きが投稿されましたので、此方にまた転載ご紹介します。
 
『薄墨桜と両界山横蔵山の旅 第3回 深沙大将 実践編』
 
前回の大日如来座像は言い忘れましたが、玉眼でした。瞼をかすかに開いているくらいなので、非常に分かりにくいのですが、近づいて下からみると玉眼のようです。
 
 
さて、この寺の特色ある仏像の一つは、深沙大将です。深沙大将沙悟浄なので異国の神ながら、仏に帰依し、三蔵法師に同行したのはご存じととおりですが、通常は手足に蛇を蛇を巻きつけ、首からは7つの髑髏を下げ、上半身裸に象の皮の半ズボンのようなものを着け、膝から象の鼻が飛び出しています。像によっては着衣のものもあります。(髑髏の首飾りは、他の明王像にも見られますが、経典を取りに印度に向かう僧を殺していたので、その髑髏と言われ、いずれにしても元は異教の神です。)
 
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横蔵寺の深沙大将は上半身裸で髪が逆立つ表現でしょうが、ドングリが割れたようになって単純化され、顔は眼が飛び出しています。両手・両足に蛇を撒きつけ、半ズボンなのですが、一見褌のように見えます。髑髏を7つ連ねた首飾りもなければ、象の皮もつけてないので、象の鼻も飛び出していません。ようするにこの寺の深沙大将は他の寺のものに比べかなり単純化、和風化されており、抹香臭さを感じないのです。

わたしは深沙大将の像様を覚えていなかったので、同行の古美術商氏に「この深沙大将はこの寺独特のもので、この地方の土俗的な臭いを感じる」と言ったら、彼は「この寺に新しい像様を創る力はない。この深沙大将の像様は一般的なものだ。しかし、単純化されており、シンプルさに何を感じるのか。これこそ神仏集合の仏像なのだ。桓武天皇勅願寺で801年に開基されている寺の歴史を考えれば神仏集合に行きつく。製作年代は当然平安初期ではない。850年から950年の間だろう。」と言いました。
この像は、まさに神道というより、日本の固有信仰と言った方が良いものとの結びつきを示して入るのだ。
深沙大将は独尊では修験道で祀られることがおおく、シンプル化、和洋化というので抹香臭く無くなるのはまさに神仏集合です。この深沙大将に土俗的な臭いを感じたのですが、この像を見てすぐに神仏習合に気がつかねばならなかったのです。
古美術商氏は「へその上に女の顔があるのはメド―サだと言われている。」と言われてさらにビックリ。
「メド―サはヘラクレスが被っている獅子が四天王の甲冑となって伝播してきたのと同じように日本にきていることを横蔵寺のこの仏像をもとに「仏教芸術」で論文にしている研究がある。ただし実例が2つ位しかないので、メド―サとしか考えられないということで断定したわけではない。」という。
このへその上の顔は童児深沙大将がとりついた名残として顔が残ったとも言われるが、この像の顔は女で髪のボリュームは女性のもののようである。ヘラクレスが伝わるのだからメド―サが伝わっていてもおかしくないと思いました。

桓武天皇勅願寺というのも、勅願寺はかなりの物を天皇から貰って成立する寺であり、桓武天皇自体が異色の天皇であり、皇太子である早良親王を淡路島で死に追いやり、平成天皇を失脚させて薬子の変で、その一党を皆殺しにして、怨霊の恐れだらけの天皇です。古美術商氏がいうには、とくに怨霊と関係ないのですが、母の高野新笠は完全に渡来人であり、父の光仁天皇に半分渡来人の血があるので、4分の3が渡来人の血で、金大中から「天皇には我が国の血が入っています」と言われたのはこのことを言っていると聞きました。さらに桓武道教に傾倒したので、椅子に座っている画像が残されている。本来、日本には椅子に座った画像はそれまでなかった。その後、道教を必要以上に取り入れなかったのは、日本人の賢明なところだと言いました。
いずれにしても、この像により、第1回で言った神仏習合と怨霊への恐れをみることができ、この寺は神仏習合からの歴史を知ることができるのですが、桓武天皇勅願寺以外は案内に何も出て来ないのです。
だからひとつひとつの仏像をきちんとみる力がいかに必要かということが重要なことです。もちろん他の仏像との比較ができることの上の話です。(ひと月に1つの仏像のことをマスターすれば、12か月では12対の仏像のことをマスターでき、それだけでも比較するとき十分力になるはずです。
実は私はこの寺で、深沙大将を見るのは2回目なのです。その時、この像の異様に驚き、土俗的と思ったのですが、最近、流れとして仏像の全体を掴むことを1から勉強し直して、分かることは月とスッポンほどのちがいがあるのです。
次回は壇像と薬師如来の話しに進みます。
 
 
 
コメント
1 仏像好きの「孤思庵」さん  2014年04月20日 17時55分
さすれば
早い時期にかなり玉眼は普及し始めているのですね。平安時代の玉眼、そんな意味でも、横蔵寺 大日は記憶しておきたいです。

深沙大将は、樟の一木造との事と像容が特異で製作年代が期に成るところでしたが、平安時代作が定説が期に成っていますが・・・その解釈を央仏師系統とは別系統の、同時代の怨霊退散の山岳信仰的な造仏像とのご解釈で落ちつけました。

また、メド―サは、蛇の神を持ち、その眼を見たもは意思になることぐらいをかろうじて知ってましたが、仏像にまして我が国の仏像には驚きです。

芸術新潮を定期購読されているなんて、古美術商氏は流石ですね。

仏像史全体を掴む観点から、一つ一つの仏像を観察される 格調高い日記に感服いたします。
2 暗夜軒さん2014年04月20日 21時14分
仏像好きの「孤思庵」さん、

玉眼は、奈良の長岳寺の阿弥陀三尊像が体内銘から仁平3年(阿弥陀三尊像」(1151年)が最初のようで、私の年表でも画期上重要な仏像として載せています。
膝の衣紋も定朝様とは違い鎌倉彫刻の先駆的意味を持ちます。12世紀半ばに関わらず新様式を取り入れています。
他にも平安にかかる仏像で玉眼はありますが、製作年がはっきりしません。
メド―サのことが載っているのは「芸術新潮」でなく「仏教芸術」だかの専門的研究雑誌だそうです。2例しかないので、謎のままになりそうですね。
深沙大将は寺のパンフレットには平安中期となってました。古美術商氏も時代は「わかりにくな」としながらも850年から950年の間と言っていましたので、下のほうでは下がっても当たっているでしょう。
 
3 仏像好きの「孤思庵」さん  2014年04月21日 00時46分
暗夜軒さん、

仰せの通りで、長岳寺の阿弥陀三尊像が最初玉眼とよく安直に言われますが、現在残る玉眼物の中で、製作年の分かる内では最古と言うが正しいようですね。私が知るは次が円成寺の大日、瑞林寺の地蔵 そして、ここ横蔵寺の大日ですが、他に平安の玉眼は何処なのでしょう?

こうして見ますに長岳寺も奈良仏師、運慶、康慶は勿論、横蔵寺の大日の筑前講師作も慶派と見られる作風

玉眼は慶派が先行なのでしょうか?


 横蔵寺大日は、「後補下地の除去を行い、表われた造形が慶派特有の刀の彫跡、また錐点、割り剥ぎの構造等、技術的にも美術史的に も興味深い要素を多分に持ち合わせている」との記事に思い当たりました。

この像が後代の分厚い塗りに覆われ、秀作の認識が遅れて、最近の評価で、古い認識の小生に新情報が浸透していなかったわけですね。

芸術新潮」と間違えまして失礼「仏教芸術」は専門してづね。我々の読む本にも 引用や参考文献としてよく出てくるを見ます。 もっとの専門誌に敬服です。


横蔵寺の大日は、近縁に後補下地の除去を行ったところ、当初のすばらしい造形が現れた。厚い下地に覆わ れて見ることのできなかった慶派特有の刀の彫跡、錐点、割り剥ぎの構造等、技術的にも美術史的に も興味深い要素を多分に持ち合わせていた。

この像への小生の認識不足は、上の記事に思い当たりました。カビの生えた知識のままで、最近の勉強の怠りですね、いろいろ教えて頂き我が頭脳更新してゆきたく存じます。

宜しくお願いします。