孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

【転載】④ 薄墨桜と両界山横蔵寺 第4回 壇像 実践編

壇像と書きましたが、正しくは「板彫法華曼荼羅」といい、「法華経」の宝塔品を絵画化し、栴檀に彫刻したもので、中心の宝塔内に釈迦と多宝の2仏が並んで座っています。大変珍しいもので、平安後期の作で重文と案内にはありました。
15センチ四方ほどの板に中央に多宝塔、その回りは横4段に区切り、1段目と4段目に6体、2段目と3段目に4体ずつ仏像が刻まれおり、合せて20体、薬師、不空成就、宝幢、阿弥陀の4仏も刻まれています。現地では黒く見えるだけで、あまりに小さく周辺に刻まれた仏像の像様は読み取れません。
写真を取り込むのを忘れたのですがパンフには小さな写真が載っていましたので、像様を見ると四方に四天王らしき像や多宝塔のわきに文殊菩薩普賢菩薩らしいものが刻まれています。
この寺は天台宗伝教大師の開山、延暦20年(801年)となっています。寺伝では最澄が自刻の薬師如来像を笈に入れて横蔵の地に来た時、笈が倒れておこせなくなった。この地で衆生を利益せよとの御告げと最澄は山上に草堂を建てて薬師を安置した。笈がたおれたので横蔵というそうです。
828年には本格的な本堂を建ったそうです。
ということは、この壇像は平安後期だそうだが、それ
以前に唐からの留学僧がこのような壇像を持ちこんでいたのかも知れないという想像もでき、それゆえにその流れとしてこういう栴檀彫りの曼荼羅があるということです。
天台宗からは徳一、勝道、万願、泰澄など会津地方や箱根、日光、白山などを開いた僧が多く出ており、ここ横倉の地も両界山といって左右の山を胎蔵界金剛界に見立てているくらいなので、天台宗の高僧が来て山を開いたのでしょう。だから唐で造られた壇像板曼荼羅を習ったような、こういう栴檀板の特殊な曼荼羅
が残されているのでしょう。
これもこの寺の成り立ちを示すものの一つなのでしょう。
次回はここでは秘仏になっている薬師如来像についてお話します。
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2014年04月21日 01時53分  
コメント
1 仏像好きの「孤思庵」さん [削除] 2014年04月22日 11時37分
此処の「板彫法華曼荼羅」は天台絡みなのでしょうが、私はすぐに長谷寺の「銅板法華説相図」を思い浮かべました。こちらは白鳳ですね、法華経と云うと天台を思いがちですが、「見宝塔品」は古くからのモチーフですね。いや白鳳どころか太子の三経義疏の内に『法華義疏』、日本仏教黎明期いや仏教自体の重要な経典を再認しました。

貴兄もされたようにそこに宝塔内の釈迦・宝塔の並列像や
聴衆の諸菩薩・聖聞の内に知っている菩薩たちを見出すのは楽しいですね。 

不勉強をさらしますが・・・今回気付きました、聴衆に如来たちも居たんですね!見宝塔品の対告衆は、大楽説菩薩であるので、かような思い込みがありました。エッ!大衆には菩薩、阿羅漢以下だけでなしに如来もいるの!?との疑問が出ました。

そこでも少し「法華経 見宝塔品第十一」を勉強しました。私が知っていたのは序の方のみで その後に本題ともいえる壮大な話があるのを知り、その他多く如来たちが此処に居るのに合点がゆきました。良く見れば長谷寺「銅板法華説相図」にも如来が居ました。

勉強の機会を頂き有難うございました。仏友の大切さ痛感しました。