孤思庵の仏像ブログ

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【転載】⑤ 薄墨桜と横蔵寺の旅 第5回 秘仏 薬師如来座像 実践編

横蔵寺の特色の最後の仏像は薬師如来坐像最澄自刻の霊現が有名だそうです。
宝物館の方から聞いた話では、伝教大師は一本の木から2つの薬師如来を造り、1体は比叡山に安置し、もう1体は、ここ横蔵寺に祀ったということでした。
しかし、比叡山織田信長に焼き打ちされるに至り、失われた比叡山薬師如来の代わりに横蔵寺の薬師如来を本山に持って行って、再建された根本中堂に安置されたそうです。それで横蔵寺の方の薬師如来は、天正13年(1585年)に京都洛北の祠から移された鎌倉時代前期で、秘仏になっており60年に一度の公開です。そのため寺の案内では写真がなかったのですが、家に帰り調べたら写真が出てきました。
また、この薬師如来像には、伝教大師の持仏と伝える銅の如来像が胎内仏としてあり、これも重文で鎌倉時代と思われるものでしたが、比叡山に送った薬師像にも伝教大師の持仏が胎内仏として入っていたのでしょうか。
この寺に当初から薬師如来が祀られていたことは大変意味が深いです。
第1回で書きましたように、薬師如来は病を治す仏像ですが、病や災害は怨霊がもたらすものであり、七仏薬師の信仰も怨霊を退けるのに力があると信じられたのです。怨霊とそれを退ける薬師が当初から祀られたのです。
また、この地は三輪氏の懇請により伝教大師が開かれたといい、三輪の神は比叡山麓の日吉大社の西本宮の祭神です。三輪の神は天智天皇のとき、勧請されたそうですから、神仏習合の地でもあったのでしょう。
横蔵寺はよく学者の論文でも取り上げられる寺だそうですが、それはこの寺の特色を示す遺物がよく残っているからだと思います。奥美濃正倉院とも呼ばれているそうです。
最初のキーワード。怨霊への恐れ、薬師信仰、神仏習合、固有信仰との融合、それらとの関係を示すものがよく残っているのです。深沙大将はその冴えたるものですし、伝教大師作と伝える薬師如来、開基当初の天台との関係を示す壇像(二仏併坐は古様です)、大日去来坐像もこの寺の歴史を語っています。
そうすると、それぞれか関連して、分かりやすくはないのだけれども、この寺の辿った歴史が、この寺の位置づけが見えてくるではありませんか。
わたしは、実は5年前にこの寺を地元の友人の案内で訪れているのです。凄い寺と思い、深沙大将は土俗的なこの地方独特なものを感じ、深い印象を受けましたが、そこまででした。
今、自分の仏像の見方を昨年秋のこのサイトに書いた「かんなみ仏像の里」で薬師如来のことを書いてから、1からやり直すつもりで、仏像の全体を掴み、位置づけるやり方をしてから、これまで見えないものが見えてきました。ここでも土俗的としか感じなかったものが、ひとつひとつの仏像を丁寧に見ていくことで、神仏集合のと関係や怨霊や天台との関係が見えてくるのです。これまで見ていたことと分かって見えてきてからとは、月とスッポンなのです。
期せずして、この旅がこれまで考えてきた仏像の見方の実践編になりましたので、皆さまに知っていただきたくここに書きました。
それから、この寺は信長が比叡山を焼いたそのあと、ここも焼き払ったそです。だから江戸初期以前の建物がないのですが、焼かれなければもっと貴重なものが残ったでしょう。それにしても、信長の領地になり久しいのに比叡山を焼くまで、この地には信長も手を着けなかったということでもあるのですね。
最後に1対の肥後定慶作の仁王像があり、これも重文になってましたので、言い添えておきます。
え、薄墨桜はまだかって。次回おまけで書くことにします。
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2014年04月24日 01時35分
 
 
【以下は孤思庵添付】
 
★ネット検索して ブログから転載させて貰います。
 
木造薬師如来坐像(国指定・彫刻)

高さ87cmで、等身の坐像であり、左手に薬壷をのせ、右手を外にむけている。
桧の寄木造りで横蔵寺の本尊である。
もと洛北にあった仏像で、いかにもまとまりがよい。
作風は、運慶快慶にはじまる鎌倉彫刻の正統を継ぐものと考えられている。
 
 
上段の 薬師如来の胎内仏 (36.5cm)
 
キャプションは見つかりませんでしたので感想を述べます。一見古仏に思いがちですが・・・日記の本文にあります様に最澄の持仏との言い伝えがあるも、顔立ち衣文の様式から本尊の作仏と同時のものと思います。
 
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この像に似た薬師像の記憶が在ります。古い像なのに薬壷を持つので印象深かった、三井記念美術館 特別展 「琵琶湖をめぐる 近江路の神と仏 名宝展」で見た聖衆来迎寺の金銅小像薬師如来立像です。琵琶湖から現れた薬師と伝説を持つこの像を慶派の仏師が観る機会は在るのだろうか?願主が見たのであろうか? また他に この様な薬壷を持ち衣の端を握る珍しい姿が何処かに在るのだろうか?(知ってるわけでもないのですが中国の古像に在るような気もしますが・・・・)
 
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金剛力士立像は、像内の墨書銘により1256年法眼定慶が4人の小仏師を率いて造立したことが判明する。
73歳の晩年の作。
定慶は、積極的に宋風を取り入れたことで知られるが、ここでは伝統的な形式を採用している。
 
あるブログ、「仏僧」に関連した英語例文の一覧(9ぺージ目)-Weblioi英語例文検索ejje.weblio.jp > ... > 英和辞典・和英辞典 > 仏僧の意味・解説と云う?特異なブログに、どこかの論文の一部が掲載されているようで、その文に、「横蔵(揖斐川町)(岐阜)金剛力士像の銘に「坪坂住大師法眼大和尚位」とあることから、貞慶は晩年は壺阪(奈良県高市郡高取町)に住み、法眼の僧位を持っていたことがられる。」を見つけました。
詳しくは解りませんが、解脱上人貞慶も横蔵寺に関係があったのでしょうか?
 
★★★ この疑問にMさんが 回答してくれたコメントが寄せられました。 此処にも加筆しておきます。
 この件は、取り上げました あるブログが単に定慶を貞慶との誤記したものであるとの事です。金剛力士像の銘に「坪坂住大師法眼大和尚位」とあることは定慶の事だそうです! そうですね坪坂住で惑わされましたが、落ち着けば、その後に大仏師とありるじゃないですか!お騒がわせいたしました。  尚、本分下にある ブルーのコメント(5)を左クリックして Mさんの最下段のコメントを参照ください。
尚その上のコメントも 適切な素晴らしいコメントです。是非に参照ください!