帰りに大垣を目指して車を走らせていたら、重
文三重塔
日吉神社とあるので、脇道を入り見に生きました。
ここの
日吉神社は、
弘仁8年(817年)に開かれ大山くいの神、大貴己神が祀られています。
神社に三重塔があり重文で、斉藤氏(
明智光秀の
重臣斉藤利三の祖父)が造り1500年頃の建築です。
他に重文では木造十一面観音像2体、
地蔵菩薩坐像、石造
狛犬1対があり、資料館建設予定の看板も出ていました。
もうおわかりでしょうが、ここは神仏集合の寺なのです。旅のしめくくりが
神仏習合の神社とは何かの縁で、それもこれだけ
神仏習合の痕跡が濃いのも珍しいくらいです。社殿配置も古式で本殿は県重文になってました。敷地もかなり広いですが、古代・中世は子の地の中心だったのでしょう。
これまで言ってきたように、寺や仏像の根底には脈々として日本の固有信仰(
神道というより、自然信仰や山岳宗教、
アニミズム)が流れていることを忘れてはならないと思う。固有信仰のことを少しは学ばないと理解が進まないくらい大切なことだと思います。第1回に、「仏教が初めて固有信仰と習合し、固有信仰に特有の怨霊の祟りに対する防護を組み込みながら、死におびえる日本人の救済宗教として出現した。このような過程を経なければ、仏教は日本の宗教として根づくことはできなかった。」と言ったのを思いだしてください。
簡単に言えば、仏教は救済宗教だから元来「仏罰」などというものはなかった。仏罰を言うようになったのはいつからか知らないが、怒れる神との習合から来ているのだろう。
ここの三重塔の後ろには、古い時代に加工された大きな岩坐のような石がいくつもあり、それを組み合わせて岩の庭園をつくっていますが、なんで、ここ
古墳時代の石室か古墳の天井を塞いだ切り石と思える石があるのかが不思議でした。
金石を専門とする同行の古美術商氏は「この石はここ2.3百年で加工されたものではない。古墳の石としか思えないがなぜここにあるのか分からない」とのことでした。
古墳の石室が解体され運ばれたものでしょうか、また、神社の7つの宮を表現する岩を並べた公園の岩もかなり古くからあった岩のようでしたが、岩がこの神社とどういう関係なのかはわかりません。しかし興味をひかれる神社でした。
ところで、原三景が、
三渓園に三重塔(旧燈明寺)を移転させたのは、幼少のころ見た出身地のこの
日吉神社の三重塔にあこがれたからだそうです。