孤思庵の仏像ブログ

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【転載】⑥  薄墨桜と横蔵寺の旅 第6回 安八郡神戸町日吉神社 & 薄墨桜と横蔵寺の旅 第7回 薄墨桜

帰りに大垣を目指して車を走らせていたら、重文三重塔日吉神社とあるので、脇道を入り見に生きました。
ここの日吉神社は、弘仁8年(817年)に開かれ大山くいの神、大貴己神が祀られています。
神社に三重塔があり重文で、斉藤氏(明智光秀重臣斉藤利三の祖父)が造り1500年頃の建築です。
他に重文では木造十一面観音像2体、地蔵菩薩坐像、石造狛犬1対があり、資料館建設予定の看板も出ていました。
もうおわかりでしょうが、ここは神仏集合の寺なのです。旅のしめくくりが神仏習合の神社とは何かの縁で、それもこれだけ神仏習合の痕跡が濃いのも珍しいくらいです。社殿配置も古式で本殿は県重文になってました。敷地もかなり広いですが、古代・中世は子の地の中心だったのでしょう。
これまで言ってきたように、寺や仏像の根底には脈々として日本の固有信仰(神道というより、自然信仰や山岳宗教、アニミズム)が流れていることを忘れてはならないと思う。固有信仰のことを少しは学ばないと理解が進まないくらい大切なことだと思います。第1回に、「仏教が初めて固有信仰と習合し、固有信仰に特有の怨霊の祟りに対する防護を組み込みながら、死におびえる日本人の救済宗教として出現した。このような過程を経なければ、仏教は日本の宗教として根づくことはできなかった。」と言ったのを思いだしてください。
簡単に言えば、仏教は救済宗教だから元来「仏罰」などというものはなかった。仏罰を言うようになったのはいつからか知らないが、怒れる神との習合から来ているのだろう。
ここの三重塔の後ろには、古い時代に加工された大きな岩坐のような石がいくつもあり、それを組み合わせて岩の庭園をつくっていますが、なんで、ここ古墳時代の石室か古墳の天井を塞いだ切り石と思える石があるのかが不思議でした。
金石を専門とする同行の古美術商氏は「この石はここ2.3百年で加工されたものではない。古墳の石としか思えないがなぜここにあるのか分からない」とのことでした。
古墳の石室が解体され運ばれたものでしょうか、また、神社の7つの宮を表現する岩を並べた公園の岩もかなり古くからあった岩のようでしたが、岩がこの神社とどういう関係なのかはわかりません。しかし興味をひかれる神社でした。
ところで、原三景が、三渓園に三重塔(旧燈明寺)を移転させたのは、幼少のころ見た出身地のこの日吉神社の三重塔にあこがれたからだそうです。
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2014年04月26日 00時03分
 
コメント
1 仏像好きの「孤思庵」さん [削除] 2014年04月26日 08時01分
 
 
 
明治の神仏分離令などの影響で、すっかり神社とお寺が別な者、いや水と油的との思い込み・・・、貴殿の神仏習合のお話に 誤解を解いた方が多いのでは?
いよいよ最終章ですが、仏像や寺とは関係ありません。極めて個人的な思いの話しです。
薄墨桜は日本三大桜の一つで、あとは山梨の神代桜、三春の滝桜です。
以前から特別な思いがあり、薄墨桜を見に行きたいと思いながら果たせませんでしたが、急遽前日の夜に思い立ち、車で夜から出発し、朝9時には着きました。
特別な思いというのは、桜が好きで5年前にガンで亡くなった親友と昭和52年頃、薄墨桜を一緒に見に行こうという話しをしていて、その後も一緒に行くことのないまま、多忙さや遠く離れたところにお互い住んでいることもあり、長い間会うこともありませんでしたが、訃報が届いたときには亡くなっていました。
その後、死ぬ前の5つの謎が浮かました。
その謎とは、①亡くなる2年ほど前に、とびきり美人の女性会社創業者と結婚していましたが、それを私以外の親友にも隠し続けたこと。②ガンで入院していることをわれわれ親しい者にも隠し続けたこと(会社内でも堅く口止めして入院)③の謎はあまりにその真相に近いので伏せます。④自宅を訪問しアルバムを見せてもらったが、会社の集合写真ばかりでプライべートの写真が全くないわけではないが、ほとんどない。本人が山登りで写した写真などあったが、どこにいったのか。⑤死ぬ前に自分を総括するはずの人間が、一言も言い残してない。死ぬ前に何を思って死んだのか。
この謎の答えは暫くして想定できました。私が出した答えのために、京都まで彼の学生時代以来の親友を訪ねたりしましたが、確証を得るに至りませんでしたが、ほぼ9割は解明したと思えます。この話は小説になるくらいの驚異的な内容でした。
自分の過去にさかのぼる旅の締めくくりとして、彼との約束を果たせなかった薄墨桜を見に来たのです。
彼の死をきっかけに、なぜ自分は古美術をやるようになったのか思い出しました。、記憶の外においていたことを、封印していたことを思い出してから覚醒し、1か月は食欲もなく眠れない日を過ごしました。20代の想念が戻り、呼吸も困難なくらいでいたが、古美術や歴史に生きるのことが、この空気の薄い想念の世界から逃れ生きるための唯一の道だった。そのためこそ古美術・歴史に逃げ込んで、止まった時間を過ごしてきたことを思い出しました。時間がまた私を古美術の世界に連れ戻しましたが、一度覚醒し、空いてしまったパンドラの箱はもとに戻りません。
薄墨桜は名前のとおり散り際の薄墨色になっており、あとは散るばかりになっていましたが、故人との約束を果たしたようで、桜が故人の思いを訪ねる旅の締めくくりとなりました。
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2014年04月26日 01時54分 [ 通報する ]