孤思庵の仏像ブログ

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Takからの投稿 (遅れて掲載です) 11月の近況報告ー3 櫟野寺拝観—2/2


以下当時の原稿の続きです。
 
櫟野寺拝観—2/
「かくれ里」には、白洲正子が油日神社の帰り際に、宮司から『ここまで来たなら、櫟野寺も見ていらっしゃい。立派な仏像がたくさんあります』と教えてもらい、寺に向かった様子も記されています。私も「かくれ里」を読んだ時から、この彼女の歩んだとおりに行ってみたいと思っていたので、ここで想いが実現することになったと思いました。彼女はこの時の最初の櫟野寺訪問では本尊が秘仏で拝観出来なかったようですが、今回は開帳とあってじかに拝観出来ます。
午前1030分ごろ思いがけずゆっくりした油日神社を辞して、気分の良い天気のなか交通量の少ない自動車道を歩き始めました。
すぐに後ろから近付いてきた軽トラックが私の前を行き過ぎて停車し、助手席側のドアを開けて「櫟野寺まで送る」と男性運転手が私に声をかけて来ました。私は最初は歩くつもりで辞退したのですが熱心に勧められたので助手席に乗せてもらいました。一人で歩いている私の後ろ姿がお寺に拝観に向かうと感じたのだそうです。彼は低速で運転したり途中停車しながら「櫟野寺本堂と宝物殿の改修や東博での展覧会の時には地域の人たちと協力して活動した。仏さまの搬出入は一苦労だった。東博の西木政統氏は地元の仲間だ」とのことで話されていました。結局私が歩いてきた方が時間的には早かったかもしれませんが、おかげで親切な地元のお寺想いの方に巡り合い、人情という気持ちの良い思いを味わうことが出来ました。彼は本尊開帳期間中はお寺周辺の駐車場の整備・誘導や寺域内でのお堂案内・管理などをしているそうですが、今日は非番だということでした。親切な地元の方に厚意を受けて櫟野寺に到着しました。
櫟野寺の本尊開帳は従来は33年に一度の秘仏公開だったものが、この数年はご縁を結びたいという人々の声で春・秋などに特別に不定期の公開拝観が出来るようになったそうですが、今回の大開帳は本来の33年に一度の大開帳(106日〜129日)に当たります。また既に東博2年前に開催された「平安の秘仏—滋賀櫟野寺の大観音とみほとけたち—」展覧会(2016913日〜1211日)で拝観された方も多いかと思います。門前の看板には、平安時代の古仏を数多く伝える甲賀地方における比叡山延暦寺の拠点寺院としての役割を持ち、「甲賀六大寺」の筆頭寺院としての位置付けで、近郷には櫟野寺仏像群と共通の作風の仏像を祀る寺院も多く現存している。かつては塔頭末寺が立ち並ぶ広大な寺域を有していた、ということで、現在でも末寺遺跡が点在していて往時の櫟野寺を知る貴重な史跡になっているようです。もうひとつの案内版には「延暦11年(792年)に比叡山開祖伝教大師最澄が、延暦寺根本中堂建立の用材を得る為に杣野の庄を訪れた際に、杣人が崇敬していた櫟の巨樹に霊夢を感じ、その巨樹に「一刀三礼」のもとに彫刻し安置された仏さまが「日本最大坐仏の十一面観音菩薩像」、「生えぬきの観音」だというのです。また延暦21年(802年)には「征夷大将軍坂上田村麻呂桓武天皇の命を受け山賊討伐に向かい、観音菩薩の加護により、鈴鹿地域の山に棲む鬼(山賊)退治を成就したので、田村麻呂は櫟野寺守護のために将軍分身の等身大の毘沙門天像を安置し、祈願寺とした」ということです。この毘沙門天像が本尊・十一面観音菩薩坐像の横に祀られている「勝敵毘沙門天像」の原型に違いないと白洲正子は「十一面観音巡礼」の中で述べています。白洲正子は「かくれ里」では本堂が焼け落ちた直後に訪れており、彼女はその経緯なども記していました。また「十一面観音巡礼」では本堂が再建されたのちに訪れて初めて本尊のお顔を拝したのです。
寺域に足を踏み込むと北向きに狭いみじかい参道の左手には幾段かの階段上に整然と立ち並ぶ、数多くの光背を背負う観音坐像の「石仏」群。右手には石燈籠の列。正面石段上には「山門」があり左右に阿吽の仁王像が南面を向き私を迎えてくれました。カメラを構えましたが両像を遮るガラス壁に邪魔され反射光がひどく満足な画像になりませんでした。山門をくぐると左手に「鐘楼」、右手に「手水舎」がありまっすぐ北に向かった先が大きな「石燈籠」と「本堂」です。本堂右手前には四本の柱にかけられた屋根の下に、一段高くなった突き固められた四角い土地に土俵が造られ、全面がブルーシートで覆われていました。毎年「秋季会式」に相撲が奉納されているそうです。この起源は坂上田村麻呂の鬼退治と伝わり、平安時代初頭の逸話で大同元年(延暦25年=806年)に当地の山賊を田村麻呂が平定しことから、戦勝参拝の折に相撲を奉納したということです。以来絶えることなく毎年続けられてきた寺院内での奉納相撲は全国的にも珍しい行事だそうです。
本堂と共に裏側に連なる宝物殿(大悲閣)は両方とも新しいコンクリート製の建物で姿を見せていて、お堂を見ただけで東博「櫟野寺展」を思い出してしまいます。開帳期間中は本堂前に柱を立て、堂内の本尊まで糸を繋ぎ縁者との結びをしています。まずは本堂に上がり、本尊は奥壁の窓からお顔を拝することが出来るようになっています。新しい本堂は簡素ですがせいせいした感じです。ゆっくりお顔を拝してから、裏手の宝物殿(大悲閣)に向かいます。正面の大きな鋼製の黒い観音開きの扉の中は、大きな厨子(今般の本尊安置に際して造られた黒漆色木造無地)の中に安置された本尊の十一面観音菩薩坐像を中心に、堂内いっぱいに数多くの仏さまの姿が並びます。本尊厨子脇の左右に立ち並ぶ観音菩薩立像ほか10体ほどの仏さま、奥の左右壁際に立ち並ぶ10体ほどの仏さまは明るい堂内の照明で綺麗に並び、真近く手を伸ばせば届きそうに拝することが出来ます。宝物殿安置の仏さまは合計22体でほぼ2年前(2016年秋)の東博展覧会出展の全員が勢ぞろいしています。帰宅して先程東博展覧会図録を見たところ、展覧会に出展されていない仏さまが「釈迦如来坐像」、「弥勒如来坐像」の2体だけだったようです。2体の姿は「MUSEUMNo.675号(2018.8)の西木政統研究論文後ろの画像ページ内に認められました。さすがに本尊の前だけは拝観客の集まりが出来ていましたが、ほかの仏さまには短時間拝するだけの方々が多く、ゆっくりと拝観して廻れます。各像に付された説明板は、東博「櫟野寺展」で使われた説明板を利用しているそうで、有効活用しているなという感じです。とにかくさほど広いとは言えない堂内ですが天井が高く(大きな本尊のおかげ)、照明が明るく仏さまのお顔を拝するには、申し分ない環境のようです(ただし仏さまの背面拝観は無理)。むしろ東博での展覧会場よりもゆっくりと明るく通路も幅広く、巡廻しやすい会場になっているようです。個々の仏さまの様子、像態についてや「甲賀様式」についてなどは長くなるのでここでは省略しますが、東博での展覧会に行かれた方にはお解りいただけるものと思います。
 
黄色の法衣を纏った少壮の住職が堂内での説明を終了し、ボランティアの男性と立ち話をしているところにお邪魔して、住職にいくつか疑問に思っていることや何やらをお話しを伺いました。彼は丁寧にいろいろと考えを巡らしながらお話しをしてくださいました。特に天台系の教えがこの地に浸透した時期と櫟野寺の盛衰の関係や、如何にしてこの地域が周囲と違った文化圏を持つに至ったのか、突出して丈六像や特徴ある様式を示す多くの木彫群がこの寺と周囲の地域に残る歴史と延暦寺・天台系の仏師集団との関連が今一つ明確でないこと、近辺の森林資源と杣川(そまがわ)を利用した水運・東大寺建立のこと、同じ坐像ということから木津川・現光寺の鎌倉期の像との思想的・教義的な意味合い、明治期の美術院・岡倉天心高村光雲、新納忠之介、明珍恒男などによる修復・納入品のことなどなど種々問いかけて、彼は途中からは寺務所に戻られるためにゆっくりと歩かれながらもご自分からいろいろとお話しをしてくださいました。そして史料が無いことが壁だが東博の西木政統学芸員の調査・研究に期待している、との言葉が聞かれました。住職と分かれてから境内のテントの受付にいるボランティアの男性に呼び止められ、隣にいた女性を紹介してくださいました。彼女は住職の母親だそうで、「息子は忙しくお寺の仕事をやってくれており喜んでいる」とおっしゃっていました。また寺域の住民が500人程度なのに、この本尊開帳期間の拝観客数が3万人になるということで、この行事の意義を誇らしく語ってくださいました。住職は暫くしたらまた本堂内で仏さまの解説をされるということでしたが、私はバスの時間も気になっていたので、彼女に息子さんにお礼を伝えて下さるようにお願いして、櫟野寺を辞しました。
 
山門を出てすぐにバス停ですが、行き過ぎて先の畑のあぜ道を進んで行くと、一抱えもある石碑が立ち大きな文字で「山王神社遺跡」と刻まれていました。石碑の後ろに回って見ると「明治42年、大鳥神社に合祀される」と銘文が刻まれていました。私がこの次に行く大鳥神社に合祀されたという、明治新政府の政策に伴う現地での対応があった歴史が、この一つの石碑に残されていました。2日前の奈良・東大寺GBSでの講義を聞いたことが、目の前に史跡として残されていることを知りました。あぜ道を足早にバス停に急ぎ戻り、バス停には5分前の1520到着でした。次は大鳥神社です。
 
 
2018122日 AM1:00   Tak