孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

Takからの投稿 (遅れて掲載です) 11月の近況報告ー2

Takからの投稿 (遅れて掲載です) 11月の近況報告ー2

昨年暮れのメールです。以下当時の原稿の続きです。
 
櫟野寺拝観—1/:
301127日(火) 滋賀・草津駅前のホテルを出発しJR甲賀駅」(こうかえき)に到着したのは、循環バス始発の30分も前の午前8時30分でした。雲一つない青空と朝日の輝きと微かな心地よい風が気持ちを安らかにさせてくれます。閑静な駅舎と周囲に何も無いバスロータリーの「忍者モニュメント」から国道への周辺の様子をぶらぶらとしてから、バスに乗り込み地元のおばあさんと運転手さんと話しをしていました。運転手さんに聞くと、今回の特別企画に臨時バスを運行しているのですが、大半の乗客が「櫟野寺」目当ての乗車だそうです。パンフレットでは「滋賀バス」がこの「櫟野寺・本尊・十一面観音菩薩坐像」の本来・大開帳(33年ごとの開帳)に合わせてバス運行しているもので、甲賀駅から「油日神社」(あぶらひじんじゃ)、「櫟野寺」、「大鳥神社」に臨時バス停を設けて、一日7便の循環運行をしていました。次の電車が到着してやっと観光客(ほとんどが高齢女性)が十数人バスに乗り込んで来ました。近くの乗客に行き先を聞いたところ、ツアーなので何処へ行くのか、何を拝観するのかよく判らない方々が多かったのには驚きでした。
期間限定の循環バスは始発の午前9時に発車して5分ほどで「油日神社」バス停です。私はここで下車しました。油日神社前でバスを降りたのは私一人でした。私は出掛ける前から油日神社まではバスで行き、神社から櫟野寺までは10分程度歩くことにしていました。その後またバスで大鳥神社へ、神社からはまた徒歩で甲賀駅へ、という計画でいました。油日神社バス停のすぐ目の前から石燈籠が立ち並ぶ参道が続き、大きな鳥居が見えてくると、檜皮葺屋根の廻廊や楼門、拝殿、本殿(すべて建築物は国指定重文)などが叢林の中に佇んでいました。周囲の紅葉の盛りは過ぎていましたが、それでも神社を囲んでかなりの色づきが眼を和ませてくれました。これまで私が見慣れた神社の規模からすれば本当に小さな神社ですが、風格のある厳粛な雰囲気を醸すに十分でした。廻廊脇に建つ案内板には、油日神社は鈴鹿地方の霊峰・油日岳の麓に鎮座する古社で、古くは油日岳を神体山とし、社伝では頂上に大明神が降臨して油の火のような光明を発したことからこの名が付けられた、とされています。「日本三代実録」によると平安時代の元慶元年(877年)の条に「油日神」が神階を授かったということです。中世には甲賀武士が聖徳太子を軍神として崇めるとともに「甲賀の総社」として信仰が盛んだったということで、甲賀武士衆の拠り所となっていたそうです。甲賀忍者たちも皆々がこの神社に集まっていたのでしょうか?叢林に沈み込んだような佇まいが、往時の活気ある場所であったことを偲ばせるものは見当たらないほどに、静かに眠っています。
白洲正子」の著書「かくれ里」の冒頭には、かくれ里の好例として「油日神社」を紹介し、神社田祀り古面や「ずずいこ様」という珍奇な人形について古来の民俗風習などを探求している文章を著わしています。彼女は『田舎の片隅に、人知れず建つ神社仏閣は、そういう点ではずっと生き生きしている。古美術のたぐいも、村人たちに大切にされて、安らかに息づいているように見える。油日神社は、私が思ったとおり、そういう社の一つであった。』と述べています。
廻廊奥には白壁のコンクリ造りの「資料館」がありました。そこにはこれら彼女が記したものが眠っているのかもしれないと思いましたが、あいにく地元のメディアの取材があり大きな撮影機材を持ち歩くスタッフの人たちもいましたが、一般観光客には神社の関係者から拝観不可とのことでしたが、話しでは他所に保管されているとの話しもありました。真偽のほどは分かりません。本殿は明応2年(1493年)に建立されたものだそうで、32間の内陣に前面に1間の庇を付け、正面には向拝(こうはい)を付けています。周囲三方には高欄付きの縁を廻らし、外陣は柱と板壁の簡素なもので外陣正面と向拝には蟇股が目立つような感じで配され、廻廊を含め周囲を動植物などの意匠の文様の透かし彫り欄間が施されています。それでも煌びやかな金具や飾り物なども無く、素地仕上げのような木肌が露わな木組は素朴さを感じます。本殿の横には見上げるほどに大きな「高野槇」(こうやまき)(滋賀県指定自然記念物)がデンと根を張っています。高野山にもこれほどの巨木は無く、学術的にも貴重な樹木だそうです。
これから次の「櫟野寺」へ向かいます。
 
2018122日  AM100  Tak