孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

特別展「日向薬師―秘仏鉈彫本尊開帳―」 6/7グループ鑑賞会

①6/6  定例「仏像愛好の集いin東博6月6日(土) 10:00 本館11室集合

その翌日は

②6/7 県立金沢文庫 特別展 平成の大修理記念日向薬師(ひなたやくし)―秘仏鉈彫本尊開帳―6月7日(日曜)京急品川駅 1番線ホーム 最後尾10:00集合

です。


連日ですが宜しく 御参集をお願いします。







ところで、同日13時30分~15時に同展を企画担当した瀬谷 貴之氏 (金沢文庫 主任学芸員)による鑑賞講座。金沢文庫 月例講座「日向薬師の仏像」の抽選 当落結果の返信はがき、皆さんには届きましたか? 幸いな事に、私は当選しました!

同講座で、日向薬師の仏像を中心に、展覧会のみどころをわかりやすいお話が聞けると思いまが…

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その前に千葉県 船橋の教養講座・仏像の見方での同展見学会に配布された 木原先生 作成の
資料がここに在りますので、此処に掲載紹介します。

             『日向薬師秘仏鉈彫本尊開帳―』展   金沢文庫
 日向薬師相模国(神奈川県)の北西部に位置する大山の東側中腹にある。ここはもと修験の寺であった日向山霊山寺があり、その坊の一つが宝城坊で通称日向薬師日向薬師】と呼ばれている。寺の創建は奈良時代行基薬師如来の導きでこの地にやってきて、熊野権現と白髭明神の助けで良材を得て自ら薬師如来像を刻み、時の元正天皇が詔を出して寺を創建したのが霊亀2年(716)の事であったという。この宝城坊の本尊は鉈彫りの薬師三尊像(秘仏)、他に眷属の十二神将像、四天王像など多くの仏像が安置されている。
薬師如来及び両脇侍(日光・月光)像 (鉈彫)  平安時代
  中尊薬師如来は116.6cm、カツラ材の一木造り、内刳りなし、素地、螺髪を刻み、面部・胸部・手など肉身部を滑らかに仕上げるが、着衣部は表面に丸ノミの跡を整然と刻み残す仕上げをする。両脇侍像は右123.9cm、 左123.3cm,、共にカツラ材の一木造、内刳り無し、素地、像全体にノミ跡を残した彫技で完成させている。三像共に作風がおだやかになる10世紀後半頃の作と思われる。


※鉈彫像…平安時代中期ころから後期にかけて関東・東北を中心とした東国で、仏像の表面に丸ノミで粗く削り跡を残す技法を取り入れた像をいう。かつては感性説明・未完成説が問われたが現在では完成像とされる。地方に特徴的なカツラやケヤキ材などが使われ霊験仏としての信仰が窺える。神奈川県には横浜/弘明寺の十一面観音像と宝城坊の2ヶ所に現存している。

また同時期に横浜/龍華寺所蔵、天平時代の乾漆の菩薩像が展示されている。平成10年に寺の厨子内から破損した状態で発見されたもので、もと塔頭福寿院本尊の聖観音であったようだが詳しい伝来は不詳である。*

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半跏が左右間違って取り付けられてた足の左右が修正して復元された。


横浜市/龍華寺・菩薩半跏像  横浜市金沢区金沢町
  像高98.5cm,脱活乾漆造、天平時代作。発見当時は頭部と体部が首で離れ、脚部・両手もバラバラであり、一部は近世の木造で補作されて居た。これを詳細確認しながら復元すると腰を少し捻り右足を垂下させる母雑形であり、後世の表面の厚い下地を取り除くと天平時代ほんらいののびやかで自然な像容が姿をあらわした。当初時の乾漆は頭体部に麻布を4~5層に貼り重ね前面に木屎漆をかけ、さらに髪や装身具などは木屎漆を盛り上げて整形、仕上げに漆箔を施した8世紀後半ころの製作と思われる。
 このような像容は東京藝大所蔵の月光菩薩(もと京都高山寺薬師如来の右脇侍)や奈良興福院阿弥陀三尊の右脇侍像などに類例をみる。当像と酷似した作風に兵庫県多可町金蔵寺の頭部のみ乾漆造りである阿弥陀如来坐像があり、この像の脇侍仏であった可能性も考えられる。


以下孤思庵が添付しました。「P4-有隣堂」 www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/380_4.html -
より、抜粋しました。

 *この像は同時に見出された台座(岩座)の墨書銘中に「三十三所第六番福寿院本尊也」とあり、 『新編武蔵風土記稿』の龍源寺(龍華寺)の項に挙げるその塔頭福寿院の本尊正観音に当ることがわかった。 福寿院はいま龍華寺門前の洲崎神社がその旧地といい、明治九年に龍華寺に統合されたらしい。
その福寿院の歴代は江戸時代初期の寛永まで遡るが、 像の台座銘には「奉納聖観音弘法大師御作台宗沙門実慧寛延三庚午四月廿三日知応求之」とあり、 知応がこの像を入手して寛延三年(一七五〇)に本尊として奉納されたと、一応解される。 像のそれ以前の伝来を示す記録はない。