孤思庵の仏像ブログ

少し深くの 仏像愛好のブログ続けてます、オフ会に集ってます、貴方も如何?

私の仏像関連愛読書②(仏像好きは数多、その方向性も数多)

【読み返しましたら、推敲の余地大いにありでしたので、推敲修正作業続け、8月15日に修正しました】
 
 仏像趣味は数多く いらっしゃいますが、その方向は色々あるようです。 仏像での感心事が、多少だったり、大きくだったり、異なります。それが良いのだと思います。
 
自分が好きな仏像勉強の同志は嬉しいものです。しかし、違う切り口での関心を持つ人も居ます。そこが大事かと思います。その分野が好きでなくとも一応は聞いてみる。
自分では気づかなかった仏像の側面を知るも良いと思います。喋るは自分の得意分野 当然です。そしてある時は聴衆に成る。 いいんじゃないですか?
自分の発表に反論が出る事もです。 私は大歓迎です。誤謬の訂正や自分の空白部分が知れる事があるからです。そして指摘が誤ってると思ったら、議論する、そして勝てれば最高です。
 
そうは考えないで集う事を拒否する方も居ます。問答無用なのでしょうか?後学の為にと、何が気に入らなかったのですかとお聞きしましても、ご返事は頂けませんでした。そうしますと此方で勝手に推測するより仕方がありません、それは往々に此方への贔屓的に成ってしまいます。
 
本当にタイミングよく、私の尊敬するSNS 知己が つぶやきコメントをしてました。
 
人に質問されたり反論されたりするのは自分を向上させるチャンスでもある。それが利用できない人間はたいして向上しないで人生を過ごすことになる。こういう人には傷をなめ合う仲間ができるので、悪いことだとは思っていないようだが、そして、それも一生なのだが、私は魅力的な人間には見えない。
  • 2014年7月23日 
と・・・
 
私も同感でして、大いに反論頂きたいです。 で持論を書かせて頂きます。
 
自分はこのように考えましたら、「そこで我執なく、他の意見・主義も尊重する方が良い」と、「集」のメンバーのお一人にたしなめられました。
 
そんな中仏像趣味の我論を書かせて頂きます。そしてあなたの御主張も尊重し、拝聴したく思います。
 
 
 
仏像趣味人に一番多いは仏像を拝すると「癒される」と云う向きが一番多いのでしょう、花でも自然でも、美しい光景を観れば人は感動し癒されもします。同様に美しい仏像の尊貌を観て、その慈愛に癒されます。それが小理屈無しの本道のように私も思います。また私自身の仏像趣味の入り口もこれだったように思います。

されどこの感覚、ロマン・耽美は、和辻哲郎亀井勝一郎に、仏像の賛歌・叙情詩を満喫する文学に昇華するかもですが、あくまでも主観の域で、客観的知識、勉強を進めるには不向きなのではないでしょうか?(両氏の 「古寺巡礼」も「大和古寺風物詩」も読んでないのですが・・・・)

次の仏像鑑賞方は、美術史的鑑賞で日本美術史学会の主流の史書の論説を仏像遺作に実証的考察をする事でしょう。(今まで美術史とは
技法・様式の事かと思って居ましたら、これを書くに少々読みましたら、この日本美術史の分野図像学も含むようです、と云うよりは、図像学は美術史的分野に含め、その専門分野と見るべきなのかもしれません。)
 
上記2種の部門の類似に思えても、 少し異なる道に美術鑑賞的が在るのではないでしょうか?美学と云う哲学に及ばなくとも、芸術作品でも、その鑑賞は、作者が何を描きたかったを理解する事と思います。
 
 
私は絵画・彫刻は門外漢なのですが、これらの鑑賞の見所は作者の狙いを見抜く事かと思います。 

先日に東京国立博物館 仏像展示の11号室(彫刻展示室)から平成館に向かう途中に本館18室に近代の美術 の部屋が在り、以前そこを通りかかって、その時は珍しく、陳列の重文「老猿」 高村光雲作 が気になりました。
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鑑賞の後に、キャプションも読みました 「《老猿》はシカゴ万国博覧会に出品された大作です。大鷲と格闘した直後の,気迫に満ちた猿の姿をいきいきと描写しています。」と在りました。
 
 作者は格闘した直後の気迫と困憊の老猿の姿を描こうとしたのです。 上を向く顔、またその表情。そして、疲れ を表現の右手は岩の上に曲げ置き、左手は地に突く・・・に戦いの直後の 疲れと、面貌には まだ残る気迫を感じられます。
此処までは自分で解かったのですが・・・キャプションにある「大鷲と格闘した直後」が読み取れませんでした。

キャプション促されて見直すと、地に突いたその手には大きめの鷹の羽根(硬い軸のあるのが羽根)が4本ほど握られているではないですか!良く観れば、他にも羽毛(フェザー)も散らばっている。

作品を観ていても、このように直ぐには作者の意図をくみ取れない事も多いのでは・・・そんな時、識者の解説が大いに助けに成ります。


仏像鑑賞も同様に解説に助けられることが多いのです。 芸術品が作者の思いの表現を理解が必要な風に、仏像も作者の思いをくみ取るべきでしょう。
 
この論を推し進めると仏像は、自由彫刻では無く、信仰の対象で、儀軌と云われる形状約束の縛りと、造像の際に願主が居て、その望みに仏師は応える努力をするのでしょうから、その作意を読み取るべきなのです。

此処まで鑑賞を深め考えますと。その時代の人びとの信仰が問題に成って来ます。日本仏教史・日本思想史的を仏像の内に探る方向が出て来ます。この頃に私達集でも、各時代の信仰が読み取れるそれが大事との同志の仲間も出て来ました。
 

日本思想史的解釈は重要で、各時代の文化史的ばかりでなく、その時代の歴史背景も絡んで読み取れます。 そんな方向での仏像の本として、「運慶 - 時空を超えるかたち 」(別冊太陽)は良書でした。



しかし仏像を定義するならば・・・【仏教の像】が第一の定義でしょう、さすれば『仏像で知るのは仏教の事』が 一番に来ても良いのではと思います。

美術史の図像学の方向からそれをさらに進め、仏教の事を絡めて仏像を語ったのは、前の日記で紹介の 45年以上前の昔に読み、本格的に仏像に興味を持たせてくれたNHKブックス「仏像心とかたち」でした。
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「仏像は、日本人の心に生きつづけてきた祈りの結晶である。」とキャッチして、これまでの美術史解説では無く、仏像の形がもつ意味を今日的視点で解読して、それを日本人の心をとらえ、精神文化形成の背景を探ぐり、解説しています。
 
日本人精神、文化形成に仏教が仏教に大いに影響されたと云うより、ほとんど支配したのは仏教です。仏教伝来以降の我が国の文化形成に影響力は、仏教>神道儒教道教 の順かと思います。
 
以前カルチャー教室で教わった事のある講師 の 金岡 秀郎氏(国際教養大学特任教授) のNHK第2放送番組のテクストに「文学・美術に見る仏教の生死観」と題するものが在り、そのキャッチコピーには 「日本を代表する美術や建築、そして国宝や世界遺産に認定された文化財は、仏教抜き には考えられないといっても過言ではない。」と言っています。
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そして今、私が一番の賞賛を贈る(中公新書)『日本の仏像―飛鳥・白鳳・天平の祈りと美 』が仏教的に仏像(文化財仏教美術)を観ていて同様の方向性です。
人々は、仏を描写し現世に再現しようと、古代より造像して来たと述べ、本書では、造り、祈った人々に注目し、経典からなどの仏教の事柄をして、遺作の有名仏像と荘厳を読み解いています。

それまでになかった仏像の考察を始めて為した「仏像心とかたち」と、半世紀近く後の『日本の仏像―飛鳥・白鳳・天平の祈りと美 』とにレベルの差は否めませんが、共に仏教を基礎としての解釈と云う同じ方向性を持っています。
 
 
ここでNHKブックス20「仏像心とかたち」で始まり、まだ終わりではありませんが、今 (中公新書)『日本の仏像―飛鳥・白鳳・天平の祈りと美 』に至るです。
 
ここで思いますに、半世紀近くも前のNHKブックス「仏像心とかたち」の偉業に賞賛を贈りたく思います。そして今なお、仏教を意識した仏像鑑賞方の基礎として、いまも十分に通じ、重版され続けているに敬意です。 
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ここから よいよ次(中公新書)『日本の仏像―飛鳥・白鳳・天平の祈りと美 』長岡龍作著 を語りたく思います。

 
著者氏は美術史畑、国立文化財研究所研究員の肩書きも持つ日本美術史学者です。しかしこの本は美術史的と云うよりは何と、歴史的。そればかりか中心は仏教的読み解きなのです。(この事で、やはり美術史に図像・仏教の理解が不可欠と言えると思います)国立文化財研究所研究員で思いついたのですが、美術史的と云う良い方よりは文化財的と言った方が良いのではないでしょうか? さすればそこに図像学や仏教がそこに絡んでも違和感が出ないのではないでしょうか?
 
 
本書の引用は、近代書籍や諸歴史学論文は勿論、我が国の、古典や歴史資料に留まらず、諸経典・論書やそれらを集めた漢訳仏典の総集「大正蔵経」の収録巻数までもの、まるでコンパクトな仏教勉強のテクストの感です。


少し前までは折に付し、仏像は単に様式変遷の考察では物足りなく、その魅力は、その裏に存在する、個々の仏像には造像施主の思い、それを実現の仏師の思いや工夫と云う事が内在していて。それらを読み取ることでの、我が国の歴史とその時代の思想を探る「日本仏教史・思想史」的理解が魅力と力説していましたが、この本と出会い、仏像は仏教の像で、そこからは仏教の事も学べると考え・・・仏教史興味から仏教自体へ関心が広がってきています。
 

 
これまでは仏教の理解は、釈迦が語ったという【経典】と、その解説の【論書】や、後の時代での我が国の【文書聖教本】からだと思って居ましたが、ここに仏教美術からも仏教を読み取る史料と成って居るを『日本の仏像―飛鳥・白鳳・天平の祈りと美 』に知りました。
 
 
さすれば、仏教芸術の中心である仏像を 第一義的には 【仏教の像】の意味合い・意識で読み取りたいと思って居ます。

仏教の像の意味合い、そしてそれは、日本仏教ばかりでなしに、其の大元の『仏教全体』を絡めての仏像を観たいです。その為に仏教を知りたいとの思いがより強くなりました。
 
 
そんな思いにさせてくれたは、(中公新書)『日本の仏像―飛鳥・白鳳・天平の祈りと美 』長岡龍作著でして、賞賛を贈ります。
著者は美術史畑ですのに、本書では広く仏教の事柄を絡めて、仏教美術に仏教的事柄を読み解いて居ます。
 
 
 

私は、仏像との関連が在ってか、並列に、仏教自体を勉強したくて、一般向けの本や講座で仏教の事柄を、幾分か程度ですが知り始めました。その仏教の事柄記述で、出典までを語る論説は少無かったのですが、この『日本の仏像―飛鳥・白鳳・天平の祈りと美 』では、知ってる事柄が、何処からの引用であるかを知ることが沢山ありまして嬉しかったです。 (勿論未知の事もそれ以上に多く教わりました。)

 
この本では出典を学者らしく文中に懇切にあらわして居ます。古典資料紹介では、まず原書の書き下し文を挙げて、次いで訳文を据え、最後に著者が解説すると云った風です。その構成は、ありがちな事柄だけの記述とは違い、格調を持っています。
 
 
尚、 長岡龍作氏は今年3月に 『仏像-祈りと風景』/仏と人間つなぐ世界観. を出版してます。そのキャッチコピーには、「 仏像は、人々の祈りの対象だ。 ... 奈良、東大寺の法華堂(三月堂)にある国宝・不空 羂索観音像・・・・」と、その冒頭に仏像は、人々の祈りの対象だとしています。また本の表題の副題には「/仏と人間つなぐ世界観」と付けています。 

長岡龍作氏は『日本の仏像―飛鳥・白鳳・天平の祈りと美 』と『仏像-祈りと風景』との両書で、共に「祈り」と云う言葉を用いました。
NHKブックス「仏像心とかたち」のこころに相当なのでしょうが、そこに美味様な相違が在るのでしょうか?
 
 
人は祈り、仏はそれを受け止める対象です。私が仏教に惹かれるのは、仏教が人間の心の問題の哲学だからだと思います。仏教は宗教で、宗教は私自身を含め人々が生きて行く上での諸問題に解答を持っているからだと思います。哲学・宗教で、ご利益目的の妄信の卑近宗教とは区別して頂きたいです。(宗教・哲学は共に普遍的真理で似るのですが、宗教は救済の智慧なのでしようか??)
 
これまで経緯は色々でしたが、今の自分の仏像ファンの内側には仏教が大きく存在しているようです。「仏像は好きだが宗教は好かん」と云われる向きもおありでしょうが、それは宗教を一派一絡げにして、近代にも盛んだった「病気が治る、罰が当たる」と云ったような、妄信の ご利益頂戴的な宗教との混同の誤解か、偏見ではないでしょうか?
 
真摯な宗教に関心の無い方は、おそらく今のご自身に切迫の悩みが無いからなのではないでしょうか?いや悩みの無い人間など居よう筈は在りません。 悩み=苦の大きさと、その苦に対して、自身が強いか弱いかが鍵なのかも知れませんね。


しかし、一切皆苦の仏の教は、一切皆苦(すべてのものは苦しみである)といいます。ここでの「苦」とは、「自分の 思い通りにならない」ということなのです。
それを悟るは、すべての人々の、生きるための智慧・指針に成りうる思想・哲学(先述もありましたが思想・哲学・宗教のクロスオーバー、それぞれの違いも気になりますが、それは別の機会にします。)と私は思ってます。 

 
仏教は論理的なのです。その考えの中心的には 縁起と云う因果理論、自体として実体を持か否かの、皆空・唯識、 悟りへの実践として四諦 八正道、 仏教における根本思想 三法印では諸行無常諸法無我を悟り、一切皆苦の原因を滅して涅槃寂静に入るロジックなど、まことに論理的です。

 
 
私は、仏像との関連が在ってか、並列に、仏教自体を勉強したくて、一般向けの本や講座で仏教の事柄を、幾分か程度ですが知り始めました。その仏教の事柄記述で、出典までを語る論説は少無かったのですが、この『日本の仏像―飛鳥・白鳳・天平の祈りと美 』では、知ってる事柄が、何処からの引用であるかを知ることが沢山ありまして嬉しかったです。 (勿論未知の事もそれ以上に多く教わりました。)
 
この本では出典を学者らしく文中に懇切にあらわして居ます。古典資料紹介では、まず原書の書き下し文を挙げて、次いで訳文を据え、最後に著者が解説すると云った風です。その構成は、ありがちな事柄だけの披露とは違い、格調を持っています。
前の日記「 私の仏像関連愛読書① 」の中で、本の表紙写真紹介の末尾に在った「ほとけの履歴書」での、それが出典無しの自論形風に書かれた、他人論文借用の不信感との対極を感じました。
 

 
くどいですが最後にも、仏像への興味と並行して、仏教にも関心なのです。それも近頃は、仏教史よりも。教学に関心です。教学の内に理解の及ばない高等教学で刃が立たない分野もありますと言うよりはそれが」殆どなのですが・・・
我が国仏教の大乗仏教は、多岐に発展して八万四千の法門と云われるように、色々と膨大な経典・論書が在ります。そしてその講義・解説を受ける時、難しいも、解るも混在しますが、全ての経・論が悟りの為にされて居るのでしようが・・・、
聞きます難しい教学の内にも、語られる一説が自身の心の問題と合致、私にかかわる事と見えて来たりする事があります。その時にそれが、私に意味を持つと思うのです。現在自身の「生き方の指針」に成りうる、それが、今の私の仏教で一番のようです。


『日本の仏像―飛鳥・白鳳・天平の祈りと美 』の最終章等、今少し未読が在ります。
 
長岡龍作氏の新刊 『仏像-祈りと風景』/仏と人間つなぐ世界観の購読は楽しみなのですが、まずは『日本の仏像―飛鳥・白鳳・天平の祈りと美 』の自分なり精読の完全読破して、その後にします。